2008年12月7日 アドベント第2主日礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書1章26〜38節
  説教者  山岡 創

「主の言葉に聞き従う」

 皆さん、川越市にある、つたの絡まったレンガ造りの教会をご存じでしょうか。川越の名所の一つであるその教会は、日本聖公会という教団の川越教会です。
 ところで、私の妻が4月から幼稚園に勤め始めましたけれども、その幼稚園が、この日本聖公会川越教会付属の初雁幼稚園です。教会からは少しばかり離れたところにありますが、毎週金曜日には、園児たちは教会まで歩いて行って、この会堂で礼拝を守るのだということです。
 クリスマスを控えたこの時期、初雁幼稚園では恒例の聖誕劇(クリスマス・ページェント)の練習が始まっているそうです。実は私、この初雁幼稚園の卒園生でありまして、自分もこの聖誕劇に出たことを懐かしく思い出します。薄っすらと記憶があります。
 私の役は宿屋でした。しかも、ヨセフとマリアを馬小屋へと招き入れる宿屋ではなく、“もううちには空いている部屋はないよ”とか何とか言って、二人を追い返す役でした。
椅子に座って、太ももの間に手を挟んで、恥ずかしそうに演じている写真が残っています。けれども、今、園児たちにはそんな宿屋が大人気なのだそうです。妻が“私の旦那さんも宿屋の役だったのよ”と園児たちに教えたら、もっと人気が上がるかも知れません。
 とは言っても宿屋は脇役、聖誕劇の主役は、やはりマリアでしょう。マリア役にも、きっと“やりたい!”という希望者がいっぱいいることでしょう。
 このマリア役の最も大切なセリフは、今日の聖書の中の38節に違いありません。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)。
 園児が言えば微笑ましいこのセリフ、しかし私たちキリスト者にとっては、単にセリフで済ませて良いものではありません。舞台の上でこの名台詞を語る役者を、客席から見ているだけでは終われない。私たちも舞台の上に上がらなければならないのです。自分の人生という舞台の上に、です。そして、信仰を持って生きる人生において、私たちは、この言葉を繰り返し、自分の“信仰の言葉”として告白しながら生きていくことを、神さまから求められています。なぜなら、私たちは信仰によって生きると誓ったキリスト者だからです。「主のはしため」だからです。
 だれか人に告白するわけではありません。自分自身に、自分の心に向かって告白するのです。否、神さまに向かって告白すると言った方が正しいかも知れません。いずれにせよ、神の言葉がその通りになると信じて聞き従い、自分の人生を神さまにお委ねし、そして、その言葉通りになったという恵みの事実を味わい、確認しながら生きていくのが、私たちキリスト者である、ということです。マリアは、そのように生きる私たちキリスト者の代表であると言うことができるでしょう。

 けれども、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」という信仰を心から告白しつつ生きるということは、容易なことではないのです。と言うのは、「どうして、そのようなことがありえましょうか」(34節)というマリアの言葉に表されているように、神の言葉、神の御心に抗う私たちの常識、価値観、あるいは願望といったものが私たちの中にあって、それらを退けて初めて、この告白のスタートラインに立つことができるからです。
 マリアが「どうして、そのようなことがありえましょうか」と言った考えは、私たちにもよく分かるでしょう。
 天使ガブリエルがやって来て、いきなり「おめでとう。恵まれた方‥‥」(28節)などと、訳の分からないことを告げる。何のことかと戸惑っていると、「あなたは身ごもって男の子を産む」(31節)と、突拍子もないことを言い出す。
 もちろん、女性が子を産むというのはおかしいことではありませんし、それはおめでたいことだと言えるでしょう。けれども、肝心なことがおかしい。マリアはまだ男性を知らないのです。ヨセフのいいなずけではありましたが、まだ関係を持ってはいないのです。そして、男性と関係していない女性が身ごもって子を産むなど、当時にしろ、現代にせよ、常識では考えられない、あり得ない出来事です。
 だからマリアは天使の言葉、天使を通して語られた神の言葉に抗いました。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)
 常識では考えられないという考えと共に、そんなことになったら私は困る、悩み苦しむことになる。そのような、自分の意に沿わない事柄に対する困惑と抗議の思いが、この「どうして」に込められているように思います。
 自分の意というものが、私たちの内にはあります。自分の価値観であったり、考えであったり、願いであったりします。そういう自分の意が、人生において通ること、実現することを願いながら、私たちは生きています。
 けれども、そのような自分の思いが不必要なものである場合がありますし、間違っている場合もありますし、人を傷つけたり争いを引き起こしたりする場合もあります。自分の思いが良いものかどうか、それを押し通して良いかどうか、私たちは常に判断を求められています。進学、就職、結婚、出産、転居等という人生の重大な岐路とも言うべき決断から、日常生活の小さな事柄に至るまで、私たちは絶えず判断し、決断することを求められています。
 皆さんは、聖書の言葉、神の言葉に従って、判断を決したことがおありでしょうか。キリスト者である皆さんに対して、失礼な言い草、問いかけであるかも知れません。けれども、私たちは神の言葉に聞くことなく、神さまが自分に何を求めているかを祈って考えることなく、自分の思いだけで判断し、決めてしまうことがないでしょうか。意外と私たちは、神さまそっち除けで生きていることがあるのではないかと思うのです。
 私たちの思いとは反対のことを、神の言葉は示して来ることがあります。自分の思いとは反対の神の言葉との挟間で葛藤したことがあるでしょうか。そして、“自分はこう思っていたけど、神さまから違うように求められていると感じたので、こうすることにした”とか、“自分はこう願っていたけれど、神さまがこう言われるので、それをやめた”とか、そういうふうに生きているでしょうか。物事の判断、人生の判断というものを、自分の考えだけでなく神さまのお考えを交えて、慎重に、冷静に、祈りながら決めて行く。それがキリスト者の生き方だと思います。「お言葉どおり、この身になりますように」という生き方だと思います。
 私も人のことを偉そうには言えません。割と最近も、あのことはもっと真剣にお祈りして、神さまの言葉を求めて、判断するべきであった、祈りが足りなかったと思ったことがありました。祈って、神さまの言葉を求めていたら、判断が逆になったかも知れませんし、あるいは同じであったかも知れません。しかし、結果的に同じであったとしても、自分の考えだけで決めたことと、祈りの中で神さまの言葉に聞きながら決めたこととでは、全く意味が違います。生き方が違います。

 自分の考えだけで判断し、決める。それは、自分の力で“生きている”人の生き方だと思います。他方、祈りの中で神さまの言葉に聞きながら判断し、決める。それは、“生かされている”人の生き方だと思います。自分の知恵や力だけで生きているのではなく、神さまの御心の中で、神さまの恵みによって生かされている。人生をそのように受け止めているからこそ、ただ自分の知恵や力に頼るのではなく、謙虚に神の言葉に聞こうとするのです。
 けれども、私たちもまた、マリアのように「どうして」と戸惑い、苦しみ悩むような出来事に遭遇しないと、心から神の言葉にゆだね、聞き従う姿勢は、なかなか生まれて来ないように思います。そうでなければ、私たちは自分の“思いどおり”でいたい。自分の“思いどおり”を通したい。そういうところがあります。
 けれども、自分の思いどおりに行かず、「どうして」と戸惑い、くるしむ出来事を与えられて初めて、自分の知恵や力で人生が思いどおりに行くものではないことを知らしめられます。そして、それは人生に絶望し、諦めたり、投げやりに生きたりすることにつながる危険な入口でもありますが、同時に、自分の人生を“生かされて在る”と受け取り直し、もう一段深く生きる道へと踏む込むきっかけ、チャンスにもなり得るのです。
 私はふと、マリアが「どうして」「どうして」と言い続けて、神の言葉を拒絶し続けたら、この物語は一体どうなったのだろうか?と考えました。マリアが「お言葉どおり」と受け止めることをしなかったら、マリアは身ごもらず、主イエスを生むことはなかったのでしょうか。
 そうではなかったろうと私は思うのです。マリアはやっぱり身ごもって子を産むことになったでしょう。人生には過酷な面があります。その過酷さは、私たちが「どうして」と戸惑い、嫌だと言って抗っても、容赦なく襲いかかって来ます。その戸惑いと苦しみの中で生きる以外にないのが、私たちの人生です。“生きる”というのは、本当に大変なことです。
 けれども、「どうして」という戸惑いと苦しみに遭わせることが神の御心なのではありません。失敗とか挫折、病気や死別、そういった過酷な出来事の中で、それでも、私は神さまに生かされて、ここに、こうして生きている。戸惑いや苦しみはあるけれど、神さまに愛されて、自分はこの命を生きている。それを知って、信じて生きてほしいというのが、神さまの本当の御心なのです。
神の言葉は、神さまが私たちを愛して、生かしておられる恵みを語っています。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。
 ただ単に、マリアが子供を身ごもるから、おめでとう、ではないのです。男性を知らずに子を身ごもるという非常識、過酷な運命の中にあっても、主があなたと共にいてくださるから、愛しておられるから、支えてくださるから、おめでとう恵まれた方、というメッセージなのだと私は思います。
 神さまは、この恵みを、独り子イエス・キリストをこの世に生まれさせ、この世の苦悩を負いながらも人を愛し、十字架に架けられ殺されても、復活するという神の業を通して、神さまがイエス・キリストと共におられたように、信じる私たちとも共にいてくださることを示されました。
 この神の恵みを受け止めて、「どうして」という戸惑いと苦しみから、「お言葉どおりに」という平安に変えられるまでには、人生の長い時間がかかるかも知れない、暗闇の中を進む時間が必要かも知れません。それでも!そこから救われることがどんなに不可能な、奇跡のようなことに思えても、「神にできないことは何一つない」(37節)と信じましょう。この“私”でも救われると信じましょう。
 そういう救いの信仰と出会う時、それが私たちのクリスマスです。





   ウィンドウを閉じる