2008年12月21日 アドベント第4主日クリスマス礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書2章8〜20節
  説教者  山岡 創

「 歌いながら帰ろう 」

 クリスマス、おめでとうございます。待降節アドベント第4主日のクリスマス礼拝を迎えました。今日、私たちの教会だけでなく、多くの教会がクリスマス礼拝を守り、救い主イエス・キリストのお生まれを喜び祝っていることでしょう。
 けれども、世界で最初のクリスマスは、本当に、小さな小さな出来事でした。ベツレヘムの片隅で、マリアという一人の女性が、夫ヨセフに見守られながら、男の子の赤ちゃんを産んだだけです。たくさんのユダヤの人々が、救い主の誕生と知って喜び祝ったわけではなかった。そこに居合わせたのは、羊飼いたちだけでした。

 なぜ「羊飼い」だったのでしょう? 今日の聖書箇所を読むたびに感じる疑問です。
天使は言いました。「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(10節)と。けれども「民全体」に与えられるという喜びの知らせを聞いたのは、羊飼いたちだけでした。お生まれになった救い主のところに駆け付けたのは、羊飼いたちだけでした。マタイによる福音書のクリスマス物語によれば、数日後に外国人の占星術の学者たちが救い主イエス・キリストを拝みにやって来たことが記されていますが、それだけです。「民全体に」と言われながら、ユダヤ人の中でこの知らせを受けたのは、羊飼いたちだけでした。一体なぜ、羊飼いだけだったのでしょう?
 当時、地中海周辺地域で知られていた神話を背景にしたのだという説があります。旧約聖書において、主イエスの先祖ダビデ王が、元々羊飼いだったからだという説もあります。ルカによる福音書の著者が、社会の主流の人々よりも、疎外された人々や貧しい人々こそ救われると考えていたからだという説もあります。どの説にも一理あると感じます。
 けれども、私は今回、この聖書箇所を黙想しながら、自分の中で“あっ、そういうことか”と、大変腑に落ちた理由がありました。それは、泊まる場所のなかったヨセフとマリアがたどり着いたところが、羊飼いたちが野宿する洞穴だったのではないか、ということです。
 先週の礼拝では、ルカ福音書2章1〜7節の御言葉から聞きました。住民登録のためにユダヤの人々は、自分の本籍地に旅をした。ヨセフとマリアも、そのためにベツレヘムに旅をしました。二人は宿を探しましたが、同じ理由で旅をして来た人々で宿屋はいっぱいであり、彼らの泊れる場所はありませんでした。その夜、陣痛が来て、マリアは止むなく家畜小屋で出産し、生まれた子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。
 「宿屋には彼らの泊る場所がなく」「飼い葉桶に寝かせた」(7節)という記述から、私たちは、救い主イエス・キリストがお生まれになった場所は“家畜小屋”であったと教えられてきました。その推測は間違ってはいないと思います。
 けれども、家畜小屋と言えば、私たちが想像する定番の情景があるでしょう。それは、宿屋の裏手にある馬小屋であったり、民家の敷地にある牛小屋であったり、そんな光景を思い浮かべるのではないでしょうか。
 しかし、先週の説教でもお話ししましたが、家畜小屋というのはどうも、私たちが想像しているようなところではないようです。当時、野原で羊を放牧する羊飼いたちは、夜になると近くの洞穴で羊たちを休ませていたそうです。泊まる場所のなかったヨセフとマリアがやっとの思いでたどり着いたのが、そのような洞穴、羊飼いたちの洞穴だったのではないでしょうか。あるいは、既に陣痛が始まっていたかも知れないマリアを連れてさまよっていたヨセフを、野原から帰る途中の羊飼いたちが見つけて、“これは大変だ”と、自分たちの洞穴に迎え入れたのかも知れません。
 そのように考えてみますと、救い主誕生の知らせを、なぜ羊飼いたちだけが聞いたのかということにも納得がいきます。何か特別な理由があって、神さまは羊飼いたちをお選びになったというのではない。泊まる場所のなかったヨセフとマリアが偶然たどり着いた場所、迎え入れられた場所が、羊飼いたちの休む洞穴だったということではないかと私は想像するのです。

 今、私は“偶然”という言葉を使いました。このような羊飼いたちの洞穴に泊ることを、ヨセフとマリアが計画していたわけではなく、また羊飼いたちも、二人を迎え入れることを意図していたわけではなかったからです。けれども、それがある意味で重要なことだと思うのです。と言うのは、何か特別な人でなくても、だれでも救い主と出会う可能性がある、ということだからです。私たちのだれもが、救い主を探し当てるチャンスを、日常生活の中に与えられているということだからです。
 ただし、だれでも、羊飼いたちのように救い主を探し当てる可能性、チャンスがあるのですが、しかしすべての人が救い主と出会えるわけではないのです。「民全体に」と言われながら、その民のほとんどが探し当てることができなかった、否、その知らせすら聞くことができなかったように、すべての人が救いと出会えるわけではないのだと思います。出会いの可能性、チャンスを、私たちの人生に与えてくださる神さまに対して、私たちも応えることが必要なのです。
 ここで私の心に、天の大群の賛美「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)が響いて来ます。いと高きところ、神の許にある「栄光」を探し当てるには、私たちが、「(神の)御心に適う」ように生きることが必要だと思われます。
 羊飼いたちは、なぜ「御心に適う人」であり得たのでしょうか。それは、羊飼いたちが、不安を抱えながらさまよい歩くヨセフとマリアに、「泊まる場所」(7節)を提供したからではないでしょうか。自分たちの洞穴に迎え入れることによって、二人に、平安と慰めを与えたからではないでしょうか。
 7節の「宿屋には彼らの泊る場所がなかったからである」という言葉は、人が人を受け入れない“冷たさ”を象徴していると思うのです。自分を受け入れてくれる人がいる。そういう意味で、平安な場所(関係)がある。人生の居場所がある。それは、人が生きていく上で、とても大きな意味を持ちます。もし、この「場所」がなかったら人は生きていくことができない。詰まるところ、死ぬ以外になくなるのです。人は皆、自分を受け入れてくれる、この温かな「場所」を求めています。
 羊飼いたちは、ただ単に「泊まる場所」を与えたというだけではない。ベツレヘムという社会の中で冷たく疎外されたヨセフとマリアに、温かな「場所」、平安を与えたのです。それが、人を愛する“愛”として、神さまの御心に適ったのではないでしょうか。
 私はここで、ふと、マタイによる福音書25章31節以下にある〈すべての民族を裁く〉という御言葉を思い起こします。世の終わりの時、裁きの座で、主イエス・キリストが、すべての人を裁くという話です。そこで主は、ある人々に対して「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(35〜36節)と、感謝とねぎらいの言葉を掛けています。ところが、そう言われた人々は一体何のことなのか分かりません。主よ、私たちはいつそんなことをあなたにしたでしょうか?と問い返すのです。すると、主はこう言われます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。
 援助を、優しさを、愛を必要としている人々に、愛を注いだ行為は、主イエスに対してしたのと同じ意義の行いであると、主ご自身が言われています。つまり、私たちは、だれかに愛を注ぐ時、そのだれかとは“主イエス”なのです。だれかに愛を注ぐことによって、その関係において救い主イエス・キリストと出会っているということです。“救い”を探し当てている、ということです。羊飼いたちも、ヨセフとマリアに温かな愛を注ぐことによって、神の御心に適い、救い主を探し当てたのかも知れません。

 クリスマスとは何より、父なる神さまが私たち人間に、あたたかな愛を注いでくださった出来事です。私たちを愛している!そのことを明らかに、具体的に示すために、神さまはご自分の独り子イエス・キリストを、この世界に、私たちの許に遣わしてくださいました。私たちが、平安と希望と勇気を持って生きていくことができるように、イエス・キリストによって、私たちに、人生の“愛される場所(関係)”を与えてくださいました。それが神さまの「御心」です。そして、天使の話、神さまからの知らせ、すなわち聖書の御言葉を通して、この御心を知り、神の愛を信じて生きる時、私たちの心に“救い主”が生まれます。“救い”が生まれます。この御心に私たちも応えて、人を愛し、互いに愛し合う時、私たちは救いを味わいます。愛にこそ救いがあることを味わいます。
 羊飼いたちは、その人生において救い主を探し当てた、救いと出会った代表者、私たちの代表者です。そして、その胸に救いを持った時、彼らの中に歌が生まれました。賛美が生まれました。
「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)。
 天使の話したとおり、聖書の言葉が示したとおりの救いを、彼らは、信仰によって味わったのです。そこに、賛美の歌が生まれました。

 救いを信じる時、救いを味わう時、私たちの胸にも歌が生まれます。私はここで
なぜか讃美歌ではなく、坂本九さんの〈上を向いて歩こう〉が湧いて来ます。
   上を向いて歩こう  涙がこぼれないように
   思い出す春の日  ひとりぼっちの夜
     ・・・・・・・・・・・・
   幸せは雲の上に  幸せは空の上に
   上を向いて歩こう  涙がこぼれないように
   泣きながら歩く  ひとりぼっちの夜
 地上の現実、“私(自分)”の人生の現実は、“泣きながら歩く、ひとりぼっちの夜”のような、苦しみと悲しみと孤独の人生であるかも知れません。助けなどどこにあるのか、愛などどこにあるのかと、涙がこぼれるような、辛い時もあるかも知れません。けれども、涙がこぼれないように上を向いて歩く。私はこのフレーズを、天を向いて、神さまを見上げて歩こうという意味に受け止めます。泣きながら歩かざるを得ないような人生を、神さまを見上げて、神の御心を、愛を信じて歩く。そして、雲の上の幸せ、空の上の幸せ、天の上の栄光が、いつか、“幸せは私の胸に”と歌えるようになれたらいい。涙をこぼしながら、それでも負けないで、“救いは私の胸に”と歌えるようになりたいのです。“安らかに歩く、主と共にある夜”と歌えるようになりたいのです。
 今日、このクリスマス礼拝に「主が知らせてくださった(救いの)出来事を見よう」(15節)とやって来た私たち一人一人が、救い主を探し当てて帰ることができるように、賛美を歌いながら生きることができるように、心から祈ります。





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