2009年1月11日 礼拝説教
  聖  書  マルコによる福音書14章12〜21節
  説教者  山岡 創

「 裏切りの不幸 」

 ドキッとしたに違いありません。自分の計画は既にばれている。裏切りの意思は既に主イエスに知られている。12弟子の一人、イスカリオテのユダの心臓は早鐘のように鳴ったことでしょう。
 直前の10〜11節にあるように、ユダは、主イエスを殺そうと企てていた祭司長や律法学者たちに「イエスを引き渡そうとして」、「どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」のです。

 なぜ弟子であるユダが、そのような裏切りの挙に出ようとしたのでしょうか。
 先週の礼拝でご一緒に読みましたが、14章のはじめに、主イエスが〈ベタニアで香油を注がれる〉という事件が起こりました。一人の女性が、食事の席で主イエスの頭に、たいへん高価なナルドの香油を注いだのです。それは、わずか缶ジュース程度の量が1年分の収入に値するほど高価なものでした。そこで、周りにいた人々の非難が湧き起ります。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(5節)。
 けれども、主イエスはその女性をかばい、非難した人々をたしなめました。ご自分に「良いこと」をしてくれたと、遠からず殺されるであろう自分のために「埋葬の準備」をしてくれたと、「記念」として語り伝えられると、この女性の行為を認められたのです。
 ここで女性を非難し、かえって主イエスにたしなめられたのが、どうやらイスカリオテのユダであったようです。彼は主イエスの弟子団の会計係として、財布を預かっていたと、ヨハネによる福音書には記されています。その財布の中身は決して豊なものではなかったでしょう。町から町、村から村へと巡回して宣教する主イエスと弟子たちの生活をどうやって賄うか?、ユダはいつも遣り繰りに悩み、苦心していたのではないかと思われます。そんなユダの目の前で、1年分の収入に値するほどの香油が惜しげもなく使われたのですから、自分の日ごろの苦労は何なのかと腹が立ったのでしょう。もしかしたらこの女性は、赤の他人ではなく、主イエスの支持者、在宅の弟子であったのかも知れませんし、一緒に旅をして主イエスと弟子たちの世話をする女性の1人であったのかも知れません。だとすれば、日ごろの生活の苦労は身近にいてよく知っているはずなのに、こんな無駄遣いをした。だったら、それを売って貧しい人々に施すと共に、会計の足しにしてくれよ、とユダは思ったのかも知れません。妻が生活の遣り繰りに苦労しているのに、夫はそんなことも知らずに無駄遣いをして来た時の妻の腹立ち、そんな気持に似ているかと思われます。
 けれども、主イエスにたしなめられたことによって、そういう自分の苦労と気持は分かってもらえないと、ユダは傷つき、がっかりし、空しさを感じたのでしょう。そう感じたことで、ユダの心の中で、主イエスとつながっていたものがプツッと切れてしまったのではないでしょうか。それが、裏切りの引き金になりました。
 苦労が報いられない。苦労しても、信頼して頑張っているのに、その気持が分かってもらえない。そう感じた時、人の心は往々にして離れ去ります。人間関係、特に人の集まりにおいて、ありがちなことです。教会においても、そういうことにならないようにと切に祈ります。心したいと思います。

 それでも、人の心はすれ違うことがあるのです。主イエスは、ユダの苦労と気持を知らなかったのでしょうか。そうではないと思うのです。主イエスは、ユダの日ごろの苦労も、女性を厳しく非難した気持も、分かっておられたと思うのです。
 しかし、あの場合、主イエスは、あのように女性をかばい、ユダをたしなめる他なかったのでしょう。それは言わば、愛する我が子二人の争いを扱う“親”のような気持ではなかったかと思うのです。
 我が家でも子供が5人もおりますと、しばしば兄弟げんかが起こります。すぐに済んだり、簡単に仲直りできるものは良いのですが、あまり続くようだと親が取り扱わなければなりません。その扱いはケース・バイ・ケースですが、攻撃している方、非難している方がはっきりしている場合は、まずそちらをたしなめるということに、どうしてもなります。大概は年上の方が非難・攻撃していることが多いので、年上の方をたしなめることになるのですが、注意され、たしなめられた方はなかなか納得しません。“だから、上は損なんだ”と、そんな不満を感じ、募らせているようです。
 難しいなあ、と思います。もちろん、非難・攻撃されている方に味方しているつもりはありません。責めている方にも、何か理由があることも分かります。責められている方に、謝りなさいと言うこともあります。もっと両方の気持を汲んだ扱いがあるのかも知れません。だけれども、詰まるところ子供同士に望んでいることは和解することです。仲直りです。お互いに、ちょっと落ち着いて自分を見つめ、相手を思い、一歩引いたり、謝ったりして、仲直りしてほしい。親は当然、その事を願っています。兄弟げんか程度なら日常茶飯事ですが、我が子が本気で争い合う姿など、親は見たくありません。心が痛みます。なぜなら、両方とも“我が子”であり、愛しているからです。
 皆さんも、ぜひ心に留めておいて下さい。私たちが対立し、争い合うならば、父なる神は、親のような心で悲しんでおられるのです。心を痛めておられるのです。なぜなら、私たちは皆、神さまにとって愛する“我が子”だからです。愛する我が子には仲良くしてほしい。それが、神さまの御心です。その御心、神さまが痛んでいることが分かると、私たちは今までよりも赦し合えるようになります。一歩引けるようになります。
 主イエスも、ユダの気持を分かっていたに違いありません。同時に、あの女性の気持も分かるのです。この女性はきっと、赤の他人ではなく、主イエスに連なる一人(女弟子)だったでしょう。二人とも、“我が愛する弟子”なのです。愛する弟子同士、和解してほしい。お互いのことを思いやってほしい。それが主イエスの本心であり、一方的にユダをたしなめたのではなかったと思います。けれども、主イエスのその気持は、ユダにはとどきませんでした。ユダと主イエスの心はすれ違ってしまったのです。

 過越の祭りの日がやって来ました。それは、ユダヤ人にとって最も大切な民族祭です。千年以上も昔、彼らの遠い祖先がエジプトで奴隷にされていた苦しみから、神さまが救い出してくださった恵みを記念する重要な儀式でした。この祭りの時は、ユダヤ人はほとんど皆、エルサレムに上京し、神殿において献げ物として屠られた小羊を、家族単位で、もしくは師と弟子の集まりで食し、神の救いを記念したということです。主イエスと弟子たちも、一匹の小羊とパンとぶどう酒を分かち合って、この過越の食事を共にすることになりました。
 その大切な食事の席上で、主イエスが最初に言われたのは、喜びの言葉ではなく、食事に付随する儀式めいた挨拶でもなく、裏切りの予告でした。
「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)。
 民族の救いを記念する喜びであるはずの席で、この言葉を告げなければならなかった主イエスの心は、どんなに痛んだことでしょうか。
 最初にお話ししたように、その言葉を聞いた時、ユダはドキッとして、心臓は早鐘のようになったに違いありません。今にも主イエスが自分のことを名指しするかと緊張したに違いありません。
 ところが、緊張したのはユダだけではなかったのです。「弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」(19節)と記されています。主イエスが“だれ”とはっきり言わないので、弟子たちは皆、自分が疑われているのでは、と不安になり、“あなたではないよ”と主イエスから言われて、安心したいのです。裏を返せば、皆、自信がないのです。自分は主イエスを裏切らない、という自信がないのです。皆、心のどこかで、このまま主イエスと一緒にいたら危ないのではないか、主イエスから離れた方がよいのではないかとの気持に揺れているのです。弟子たちも皆、祭司長や律法学者たちの殺意を感じていたからです。
 けれども、揺れ動く弟子たちの姿は、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。私たちも半信半疑なところがあるのです。信じていても、あまり良いことがないと止めようかと思うのです。ちょっとしたことにつまずいて、教会に行くのはよそうかと思うのです。人と比べて、何だか自分ばかり、教会の中で損をしているように感じて、もやもやするのです。御言葉と祈りに養われて信仰を深め、主イエスとの確信的な絆を持たない限り、私たちの信仰生活は絶えず“まさかわたしでは”と揺れ動きます。

 主イエスが裏切る者をイスカリオテのユダと名指しせず、「あなたがたのうちの一人」と言われたのは、弟子たち一人一人に、自分の心を見つめさせる意図があったのではないかと思います。
 そして、その言葉に込めたもう一つの願いは、ユダに裏切りの意志を翻させ、悔い改めさせるためであったに違いありません。もし、裏切りを企てているユダの意図を知った主イエスが、ユダを憎み、処分しようと考えたなら、弟子たち皆の前で名指しすれば済みます。そうすればユダは弟子たちに袋叩きにされたかも知れません。けれども、そうしなかったのは、ユダに悔い改めて立ち帰るチャンスを与えるためだったでしょう。なぜなら、主イエスはユダを愛しているからです。裏切りの意志を抱いていても尚、ユダを愛していたからです。
 主イエスが尚もユダを愛しているという理解は、最後の21節に矛盾するとお感じになるかも知れません。「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(21節)。
 “お前なんて、生まれなかった方がよかった!”。一見、主イエスの言葉は、相手の存在を否定する呪いであるかのように思われます。主イエスらしからぬ言葉です。
 けれども、よく読んでみると「その者のために」と主イエスは言われているのです。裏切りを、“私のために”と、つまり“自分にとって”と自分本位に考えるならば、裏切る相手を憎み、“お前なんて、生まれなかった方がよかった!”と呪ったとしても不思議ではありません。
 けれども、そうではなくて主イエスは「その者のために」と、つまり裏切る相手のことを考えて、思いやって、こう言っているのです。すなわち、ご自分を裏切るようなことをすれば、きっと後で、自分の裏切りに心を苛まれ、死ぬほど後悔するだろう。裏切った自分のような人間は、生まれなかった方が良かった、こんな人間は死んでしまった方が良いと苦しみ、自虐することになるだろう。それはその人にとって限りなく不幸である。そのような不幸に遭うぐらいなら、まだ生まれなかった方が良かったかも知れない。それほどの不幸に、あなたを遭わせたくはないのだ。それが、この言葉に込めた主イエスの気持だったのではないでしょうか。実際、マタイによる福音書27章によれば、ユダはこの後、自分が主イエスを裏切ったことを後悔し、首をつって死んでいるのです。自分の裏切りの不幸に耐えられなかったのです。
 そのような目に、本当は遭わせたくなかった。それが主イエスの本心です。なぜなら、主イエスはユダを愛していたからです。
 イスカリオテのユダとは何者でしょうか?。裏切り者でしょうか。そうではありません。「わたしと一緒に食事をしている者」(18節)です。「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者」(20節)です。日本流に言えば、“同じ釜の飯を食った仲”ということでしょう。最も親しい、信頼し合った絆を持つ仲間です。
 イスカリオテのユダは裏切ろうとしているのです。自分本位に主イエスを断罪しようとしているのです。にもかかわらず、そのユダを!、主イエスは変わらずに「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者」と見てくださっているのです。愛してくださっているのです。その愛の深さに、私は心が震えます。
 私たちもまた、このような愛で愛されていることを知ったなら、人生のどんな不幸でも、きっと越えて行くことができると信じます。





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