2009年1月25日 大人と子供の礼拝説教
  聖  書  使徒言行録2章43〜47節
  説教者  山岡 創

「 一つになって 」

 私たちの坂戸いずみ教会が生まれてから、何年になるか知っていますか? 人間の歳で言うと、今16歳。今度の4月で丸17年になります。
 今日、川越市にある初雁教会というところでバザーがありますが、私たちの教会は、この初雁教会によって1992年4月に生み出されました。その頃のことを実際に見て、知っている人は、段々少なくなって来ましたね。最初の頃はこの場所ではなくて、ここから700mぐらい離れた、高麗川の土手際にある、普通の家を改造した小さな建物で礼拝を守っていました。その時の礼拝堂は、今のこの礼拝堂の3分の1の広さもありませんでした。しかも、礼拝堂の真ん中にボンッと柱が立っていました。邪魔なんだけれども取れない。その柱を取ると2階が落っこちて来ると大工さんに言われました。仕方がない。そこで、この柱を何かに利用できないかと思って、左右の横に角材をつけて、大きな十字架にしました。礼拝堂の真ん中に大きな十字架が立っているなんて、ちょっとすてきでしょう? ロビーに、その頃の礼拝堂の写真があるから、後でよく見てみてください。
 その十字架を囲むようにして、毎週日曜日、15人ぐらいで礼拝を守りました。人数は少なかったけれど、皆、一つになって燃えていました。

 今から約2千年前に生まれた世界で最初の教会、エルサレム教会の最初の頃はどんなふうだったのでしょう? その様子が、今日読んだ聖書の箇所に描かれています。
 聖霊を受けたイエスさまのお弟子さんたち、特にペトロさんの説教を聞いて、最初に3千人もの人が洗礼を受けたと言います(41節)。すごいねー。その人たち「すべての人に恐れが生じた」(43節)とあります。怖がると言うよりも、みんなが驚いたということでしょう。どうしてかと言うと、ペトロさんたちによって「不思議な業としるし」(43節)が行われていたからです。この後の3章にもあるけど、たぶんイエスさまがしたのと同じように、お弟子さんたちが、病気や障がいを持った人を治していたのではないかと思います。
 もし私に、病気や障がいを治す力があったら、きっと3千人ぐらいの人々がドッと教会に集まって来るだろうね。でも、残念。ぼくにはそんなスーパーな力はありません。聖霊はいただいていると思うんだけどね。


 でもね、スーパーな力もあったら嬉しいんだけど、もっと大切なことが教会にはあると思うのです。それは、今日の聖書の箇所に繰り返し出て来ました。何だと思う? それは「一つ」になる、ということです。「皆一つになって」(44節)、「心を一つにして」(46節)、「一つにされた」(47節)と、「一つ」という言葉が3回も出て来ます。ここがキー・ポイントです。皆一つになって、神殿で礼拝し、一緒に食事をし、神さまを賛美していた。心を一つにして、分け合い、助け合っていた。私たちの教会にとっても、この「一つ」ということが一番大切なことではないかと思うのです。
 人と人が集まって何かをしている集団では、一つになるということがとても大切です。私はふと、運動会の綱引きを思い浮かべます。あれは、力の強い人がたくさんいる方が勝つわけじゃない。そうではなくて、息が合っているチーム、呼吸が一つになっているチームが勝つのです。“オーエス!オーエス!”でも良し、“せいや!せいや!”でも良し、その掛け声に合わせて、引っ張るタイミングが一つになっているチーム、呼吸が一つになっているチームが強いのです。
 教会も、聖霊によって一つになっている時、すごい力が出るのだと思います。聖霊って、元々は“プニューマ”という言葉(ギリシア語)です。この言葉は、“霊”の他に、“息”“呼吸”という意味もあるんです。私たち、教会のみんながイエスさまの掛け声で(イエスさまの掛け声は“せいれい!せいれい!”かな?)、聖霊の息を吸っている時、聖霊によって呼吸が一つに、心が一つになっている時、きっと大きな力が出るのです。
 でも、聖霊によって一つになるということは“同じ”になることではない。例えば、教会に来ている子供たちを見ていて思いますが、公園に行ってドッジボールをしようと言う時に、部屋で本を読んでいる人がいます。みんなでテレビゲームをしようという時に、ブロックをしている人、寝転がっている人もいます。でも、それで良い。ドッジボールやテレビゲームは楽しいかも知れないけれど、教会はドッジボールやテレビゲームをするために集まるところではないからね。みんなが同じでなくて良い。みんなが同じものを好きだったり、同じ性格や同じ考えでなくて良いのです。“一つ”というのは“同じ”とは違います。

 聖霊によって一つというのは、イエス・キリストさまの救いを信じる、という点で一つ、一致しているということです。“私は、イエスさまによって罪を赦され、救われました”と悔い改め、感謝している、という点で一つ、一致しているということです。
 直前の説教の中で、ペトロさんがこう言っています。
「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主‥‥となさったのです」(36節)。
そして、心を打たれ、どうすれば良いですかと尋ねる人々に、ペトロさんは、
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)。
と呼びかけました。それを聞いて、そうだ!と感じて、3千人の人々が罪を悔い改めて、洗礼を受け、仲間に加わったのです。
 私たちが一つになれるのも、そこです。“私もイエスさまを十字架に架けた人々と同じ罪の心を持っています。だから、イエスさまを十字架につけたのと同じです。本当は神さまに嫌われ、罰される人間です。でも、イエスさまの犠牲によって、神さまは私を赦し、愛してくださいます”。自分のことを、そういう人間だと受け止める。でかい顔などできない罪人だと小さくなる。でも、神さまに赦され、愛されていることを感謝する。その心で、私たちは一つになります。聖霊が私たちを一つにします。そしてその時、お互いに、祈り合い、分け合い、助け合う“愛”が生まれて来ます。愛が私たちを一つにします。

 16年前に15人ぐらいで礼拝を守っていた私たちの教会も、今ではこれだけの、3倍、4倍の人が集まる教会になりました。一度に3千人とは行かないけれど、でも、最後の47節に書かれているように、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つに」してくださった恵みの結果だと思います。





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