2009年2月8日 礼拝説教
  聖  書  マルコによる福音書14章32〜42節
  説教者  山岡 創

「 人の願いと神の御心 」

 「苦しみの時」(35節)を、主イエスは迎えていました。「わたしは死ぬばかりに悲しい」(34節)と言うほどの苦しみの時を、主イエスは迎えていました。それは、弟子たちに裏切られ、見捨てられ、敵対する者に捕えられ、十字架に架けられて命を奪われる時でした。
 主イエスの教えと行動は、当時のユダヤ教の指導者・権力者たちの反感を買いました。革新的であったからです。彼らのやり方とは全く違ったからです。指導者・権力者たちのやり方に一石を投じるような主イエスの教えと行動は民衆の絶大な支持を受けました。だからこそ、彼らは主イエスに殺意すら抱き、その機会をうかがっていたのです。
 その時が目前に迫っていることを、主イエスはひしひしと感じておられたのでしょう。そのために、死ぬばかりの悲しみ、苦しみを味わわれて、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈られた」(35節)のです。
 けれども、主イエスの祈りは、俗に言う“苦しい時の神頼み”のようなものではない。主イエスが苦しみを味わいながら、どのように祈ったか、どのような信仰で祈ったかを、私たちはよく学ぶ必要があります。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)
 「この杯」とは、先にもお話しした、主イエスを襲う「苦しみ」を象徴する言葉です。死ぬばかりに悲しく、苦しい。だから、この苦しみを取りのけてくださいと、まことに素直な、私たちでもそう祈るであろう祈りを、主イエスもなさっています。祈りとはそれで良い。見栄も格好も要らない。自分の心の中にある願いを、素直に申し上げれば良いのです。
 けれども、主イエスの祈りはそれで終わりではありません。「しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。神さまの御心に適うこと、つまり“神さまの願い”が自分の人生において行われますように、と祈っておられます。
 自分の願いを祈りながら、同時に、神さまの願いが行われるようにと祈る。それは、私の願いは神さまの御心に適っていますか? 神さまの願いと一致していますか? と問い合わせるような祈りです。そして、問い合わせの結果、私の願いが神さまの御心に適っているなら、こんなに嬉しいことはない。しかし、もし適っていなかったらどうするか? 神さまの御心はちょっと脇にどけてもらって、私の願いをよろしく叶えてくださいと祈るのか? そうではないのです。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。それが、神さまに祈るということだ、神を信じるということだと、私たちは主イエスの祈りから教えられます。
 “祈り”とは何でしょうか? 自分の願いを通すことが祈りではありません。自分の願いを願って良いのです。けれども、何が何でも自分の願いを叶えさせよう、というのは祈りではありません。少なくとも主イエスに倣うキリスト者の祈りではありません。そのように祈っていると、叶った時は良い、けれども、叶わなかった時は、もう神も仏もあるものか! と信じられなくなり、人生の迷いと絶望の淵に陥ります。
 私の願いではなく、神の御心が行われますようにと祈る。この祈りの姿勢は、主イエスの信仰、私たちの信仰の現れなのです。
 神さまを信じるとは、どういうことでしょう? 神さまを信じれば、願いはすべて叶えられる。良いことがある。幸せになれる。家内安全、商売繁盛、無病息災‥‥それは、私たちにとって願わしいこと、非常に都合の良いことではあります。しかし、そこでは自分が人生の“主”、中心になっています。自分中心の信仰だということです。
 けれども、人生は自分の思い通りには参りません。自分の力ではどうにもならず挫折し、また思いがけない出来事に苦しみ悩みます。その時にこそ、人は別の信仰に目を覚まします。信じるものを必要とするようになると言っても良いでしょう。自分中心には参らない、思い通りに行かない挫折と苦しみの人生を支えるもの、支える方として神を信じるようになるのです。そのような中で、自分の力で生きているのではなく、“生かされて在る”自分に目覚めるようになるのです。自分の願いとは違うかも知れないけれど、神さまが私に命を与え、私を愛し、私の人生を御心によって導いてくださっている。そういう人生観に自ずと変えられて行きます。そして、御心によって導いてくださる神さまに、私の人生を委ねて生きよう、と思うようになる。それが信仰です。主イエスの信仰です。神さまを私の人生の“主”、中心と仰ぐ信仰です。

 神の御心を求める祈り、そして行われる神の御心に自分の人生を委ねるのが信仰と申しました。
 ところで、以前に今日の聖書箇所を信徒の方々、求道中の方々と学んでいた時に、“委ねる、というのは、諦める、ということですか?”と尋ねられたことがありました。“諦める”という言葉は元々、仏教の言葉であったと思います。私はあまり詳しくありませんけれど、元々の意味は、委ねるに近いニュアンスがあったと理解しています。けれども、今日、一般的な意味で使われる“諦める”という言葉は、仕方がないと現状に甘んじる、どうしようもないと断念する、といったニュアンスでありましょう。そうだとすれば、“委ねる”と“諦める”は似て非なるもの、全く違います。何が違うのか。「あなたは何でもおできになります」という神さまに対する信頼があるかないかの違いです。
 苦しみに遭った時、私たちはどうするでしょう。苦しみを過ぎ去らせてほしい、取りのけてほしいと祈るでしょう。けれども、苦しみの時、祈らないことがある。私たちは必ずしも祈らないのです。なぜか? 神さまを信頼していないからです。どうせ駄目だ、祈っても無駄だと思っているからです。
 本当に神さまを信頼していない時、私たちは祈らない。そして、人生を諦めます。それはつまり、自分の人生を否定しているということです。仕方がないと言いながら、本心では“こんな人生は嫌だ!”と受け入れず、否定しています。自分の人生を否定したら、私たちは(生き生きとは)生きられません。
 これに対して、委ねるというのは、神さまに対する信頼の中で、自分の人生を肯定しているのです。神さまは何でもおできになる。苦しみを取りのけることだってできる。けれども、神さまには神さまの御心、願いがある。それは、私の願いとは違うかも知れない。今の自分は嫌だと、不都合に感じる気持もある。でも、神さまが私の人生を最善に考え、私のために取り計らってくださる。そう信じて、自分の人生を“これで良し”と肯定し、受け入れているのです。それが“委ねる”ということです。そして、神さまを信頼し、委ねてこそ、私たちは苦しみの中に置かれても、気を取り直すことができる。思い直して生きていけると思うのです。

 主イエスは「苦しみの時」の中で、小さな幼児が親を信頼するかのように、神さまを「アッバ、父よ」と呼んで信頼し、祈りました。そして、それだけではなく、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの弟子たちにも、「目を覚ましていなさい」(34節)と言われました。それは、苦しみの中で祈る姿を弟子たちの記憶に焼き付けるためであったでしょうし、その姿を見て、弟子たちも神さまを信頼して祈るようにならせるためだったと思われます。
 ところが、主イエスが祈りを終えて戻ってみると、彼らは眠っていたのです。弟子たちのその様を見て、主イエスは言われました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(38節)。
 「心は燃えても、肉体は弱い」とはどういう意味でしょう。気持の上では、死んでも主に従って行こう、目を覚まして主イエスと一緒に祈ろうと思っている。でも、肉体の疲れと睡魔にはやはり勝てないということでしょうか? そうではないと思います。
 新訳聖書の後ろの方にある手紙の多くを書いたパウロという人が、しばしば“霊と肉”という言葉を使いました。これは、心と体、精神と肉体という意味で使っているのではありません。神の御心に従う志と、神の御心に逆らう思いとを指して、後者の逆らう思いを“肉”と呼んでいます。主イエスがここで言われた「肉体」という言葉にも同じニュアンスを感じます。ただ単に、体の疲れや眠気のことを言っているのではありません。私たちの心の中には、神さまを信じよう、従おうという思いが一方にはある。けれども、他方には、そういう志をくじかせる思い、どうせ駄目だと諦めさせる思いがある。そういう思い、信仰の弱さを指して、「肉体は弱い」と言われたのだと思います。
 私も自分のことを省みて思いますが、自分が置かれた苦しみ、悩みの中で、神さまを信じて“よし、がんばろう”と自分を励まします。でも、何かにぶつかると“やっぱりだめだ”と諦めそうになる。その繰り返しです。そういう私たちの心の動きを、主イエスは「心は燃えても、肉体は弱い」という言葉で言われているのではないでしょうか。
 「苦しみの時」という現実は、私たちを「誘惑」へと陥らせます。神さまを信頼させず、もう駄目だと人生を諦めさせようとします。そして、もう一つの「誘惑」があります。ある意味で、神さまを信頼しているのです。けれども、神さまを信頼して、「わたしが願うこと」を通そうとするのです。神さまは私の味方のはずだ。ならば、神さまは私を苦しみの中に放っておくはずがない。必ず取りのけてくださる。その思いを押し通すのです。そして、その願いどおりにならないと、苦しみの中で、もう神も仏もあるものかと人生を諦める。神さまから離れてしまうのです。神さまとの信頼関係から切り離される。自分の人生を信じられなくなる。その時、私たちは「誘惑」に陥っています。

 その誘惑に打ち克って行くにはどうしたら良いのか? 祈る以外にないのです。今、自分は人生の誘惑に遭っている。その現実に目を覚まして祈り続ける他ないのです。
 今日の聖書箇所であまり注目されないことかも知れませんが、主イエスは、「御心に適うことが行われますように」との祈りを1度ではなく、続けて3度、同じ祈りをしておられるのです。それは、主イエスもまた、私たちと同じ「誘惑」にさらされ、私たちと同じ“弱さ”を感じておられるからに違いありません。1度の祈りでは確信できないのです。これが本当に神さまの御心だろうか? と揺れる気持があるのです。心のどこかで、自分の願いどおりになれば良いのに、と思っているのです。私たちは、神さまを信頼して苦しみを肯定し、受け入れるという信仰に、なかなかなれないのです。なっても、また引き戻されるのです。無理もありません。弱いからです。
 その弱さの繰り返しの中で、神さまを信頼して委ねる生き方へと、人生を諦めずに信じる道へと、私たちを立ち帰らせるものは何か。祈りなのです。繰り返し祈り続けることなのです。
 弟子たちは何度言われても眠りこけ、祈ることをしませんでした。そして、主イエスを否定し、見捨てるという「誘惑」に陥って行きました。
 他方、主イエスは3度繰り返して祈ることによって、「苦しみの時」を父なる神の御心が行われることとして、受け入れて行きました。御心に従って歩む覚悟をされました。それが、「時が来た」(42節)という最後の言葉に現われています。
 人生とはある意味で、絶えず“誘惑の時”です。信じて委ねるか、それとも諦めるかの岐路に立たされます。自分の人生に刮目し、誘惑に陥らないように、祈り続けましょう。“祈れない私をおゆるしください”と主に祈ることから始めましょう。




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