2009年2月15日 講壇交換礼拝説教
  聖  書  マルコによる福音書6章6b〜13節
  説教者  山岡 創

「 旅には杖一本で 」

 私は今、日本基督教団の伝道委員の働きをさせていただいています。1期2年を務めまして、もう1期続けて務めることになりました。明日から2日間、早稲田の教団本部で今期の第1回目の委員会が行われます。
 とは言っても、伝道委員会は教団本部でばかり会議をしている委員会ではありません。全国の教会の現場に出て行って、その教会の労苦や課題を伺いながら、その教会の牧師先生、信徒の皆さんと共に祈り、またその教会を会場に伝道講演会等を催しています。私にとっては個人的にも、日本全国の教会の現場を見ることができる、またとない機会で、良い経験をさせていただいております。
 ところで、主イエスは、12人の弟子たちを遣わすにあたり、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず‥‥」(8節)と言われましたが、私は、いささか大き過ぎるぐらいのカバンに、たくさんの荷物を入れて旅に出ます。1泊あるいは2泊、普通に宿泊するのに必要な服よりも多く、Tシャツやジャージなど持って行きます。運動靴も持って行きます。こう言えば、皆さん、なぜだか想像がつくことでしょう。それは、ちょっと早起きして、行った先の町をジョギングしながら、町の様子を見たいからなのです。もちろんお金も持って行きます。
 主イエスのお言葉とはずいぶん違います。もちろん、主イエスの言葉を文字通りに、真に受ける必要はないでしょう。けれども、主イエスが弟子たちを遣わすにあたり、「旅には杖一本のほか何も持たず」と命じられた言葉の本当の意味は何でしょうか? 私たちは、現代に生きる弟子の一人として、この言葉を受け取ることが必大切です。

「その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(8〜9節)
 12弟子の中には、なぜ主イエスはこのような無理を言うのだろう、パンがなければ食べていけないし、袋がなければ必要なものを入れて持っていけないし、金がなければ食べ物を買うことも宿に泊まることもできないではないか‥‥と疑問に思った者がいたかも知れません。
確かに、そのとおりです。けれども、注意すべきは、主イエスはここで、パンや袋や金は“必要ない”と言われたわけではないということです。そうではなくて、“持って行くな”と言われたのです。つまり、それらの物に“頼るな”と言われたのです。持って行けば、それらを当てにし、頼ることになる。けれども、本当に頼みとすべきものはパンでも、袋でも、金でもない。ただ神さまだけを頼みとして旅をせよ、と教えられたのだと思います。
 主イエスは、ご自分が福音伝道の旅を始められる前に、荒れ野で過ごされました。マルコ福音書1章12節以下に記されています。荒れ野で主イエスは修業をされたのだという説もあります。ともかく、主イエスはそこでサタンの誘惑に遭いました。マルコ福音書には、どんな誘惑であったかは書かれていませんが、マタイによる福音書4章にはその誘惑の内容が出てまいります。
 主イエスは荒れ野で断食の修業をなさいました。すると、そこにサタンが現れて、空腹を感じている主イエスに対して、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(4章3節)とささやいたと言います。しかし、主イエスは次のようにお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4章4節)。
 私たちはパンがなければ生きられません。パンに象徴される食物や物、お金がなければ生きられません。けれども、それならばパンさえあれば私たちは生きることができるのでしょうか。生命を維持するとか肉体的な面で、あるいは目に見える生活という面では、パンさえあれば生きられるという答えになるでしょう。けれども、パンを手に入れるということから欲望の問題が起こって来ます。その欲望がエゴを生み、人と人との間に争いを生じさせます。また、パンが思うように手に入らない場合もあるわけで、その時、私たちは落胆し、ともすれば絶望したり、人生をあきらめたりしてしまうことも起こり得るのです。そのような人生の問題と私たちはどのように取り組めば良いのでしょうか。パンがすべてだと思っていたら、物がすべて、金がすべてだと考えていたら、このような生き方に関わる問題には対処することができません。確かにパンは必要です。私たちはパンなしには生きられません。しかし、パンに左右されてはならないのです。パンに心まで支配されてはならないのです。すなわち、パンを人生最大の頼みとしてはならないのです。頼るべきものは、神の言葉です。聖書を通して語りかけられる命の真理です。“人が生きるとは、こういうことだよ”と教える命の真理によって、私たちを“生かしてくださる”神の恵みを心に留めることです。必要なパンも、煎じ詰めれば神が与えてくださる恵みだと知ることです。この神の言葉に教えられ、導かれ、支えられて生きていく。すなわち、神さまを頼みとして生きる時、私たちは自分自身の内側にある問題を省みることができるし、生きる希望と勇気を失わずに進むことができるのではないでしょうか。

 「旅には杖一本のほか何も持たず」と命じられた主イエスは、パンではなく神さまを頼みとし、第一として生きることの大切さを、弟子たちに、そして私たちに教えようとしたに違いありません。
 自分自身を省みて、私たちはどうでしょうか?
 我が家には5人の子供がいます。これから皆、ますます食べるようになっていくでしょうし、また高校や大学、専門学校と進学すれば、どれほど教育費が必要になるのか、想像もつきません。今年、長女が高校受験でした。5番目の娘が小学校に上がったこともあり、将来的なことを考えて、昨年4月から妻が川越の幼稚園で働き始めました。とは言え、余裕があるわけではありません。私は、“長女が私立高校に行くことになったら、どうしようか? 妻の働きだけでは間に合わない。私もアルバイトをするようかな? でも、牧師の務めをして、家事をして、子供の世話をして、その上アルバイトもしたら、死ぬなあ‥‥”などと、正直不安を抱いていました。客観的には、もっともな不安だと思います。
 けれども、その一方で、そういう自分のことを小さいなあ、情けないなあと思う気持がありました。“必要なものは神さまが備えてくださる”と思いながら、しかし神さまを信頼して委ね切れないのです。
今日の聖書の語りかけを聞きながら、私自身の中に、パンや袋や金を頼る思いが、それを第一とする気持が心のどこかになかっただろうか、パンに左右され、支配されていないだろうかと自分自身を省みさせられました。パンは必要、袋も金も必要です。けれども、それがすべて、それが第一とならないように、生きる上で大切なものを見失わないように歩みたいと思いました。

 「旅には杖一本のほか何も持たず」と弟子たちを諭された主イエスは、更に言われました。
「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようとしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」(10〜12節)
 つまり、伝道の旅に出たら、その旅先で迎え入れてくれる家に“居候”をしなさい、と言われているのです。そんなことをしたら、その家の人に大きな迷惑をかけることにならないだろうか、と思います。実際、後の教会では、この主イエスの言葉に反するかのように、“人の家に厄介になる時は二日に限りなさい”と教えられたそうです。その方がもっともだと私たちも思うかも知れません。なぜ主イエスはこのように命じられたのでしょうか。
 私は、これもまた、神さまを頼みとして生きる信仰を学ぶためではなかっただろうか、と思うのです。パンや袋や金を持って行けば、それらに頼って生活します。けれども、持って行かないのですから、旅先で誰かに頼る以外にありません。そこで迎え入れてくれる人がある。その人の親切とお世話に感謝する。けれども、そのようにして人に支えられることを通して、その人を通して神さまに支えられ、生かされていることを学ぶのです。生きるということが、自分のパン、自分の力だけで営まれるものと驕るのではなく、究極的には“神さまに生かされてあるもの”と深くわきまえ知るためではないかと思うのです。
 そして、その家にとどまりながら神の恵みを宣(の)べ伝える。けれども、うまく行かないこともしばしばある。相手が神の言葉を受け入れてくれない。神さまを信じてくれない。そんなことがいくらでもあったことでしょう。私たちも、そういう経験があるかも知れません。その時、神の言葉を受け入れず、信じなかった人に対する「証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」と言われる。
 足の裏の埃を払い落とすというのは元々、ユダヤ人が異邦人の土地へ旅をして、そこからユダヤの地に帰って来た時に、異邦の地で受けた汚れを払い落とすという意味で行われた行為です。それが転用されて、弟子たちの伝える神の恵みが受け入れられなかった際、不信仰という相手の埃を払い落とすという意味で、そう命じられたのでしょうか。
 けれども、この言葉をそのように受け取ると、何だか冷たい感じがします。“あなたたちが信じなかったのは、あなたたちの責任だよ。私には関係ない”と突き放しているような気がします。すべての人を、神の恵みによって忍耐強く救おうとされた主イエスの愛の心には、何だかそぐわない感じがします。
 これはそのような意味で受け取るのではなく、これもまた神さまを頼みとして生きる信仰の心を学ぶためではないだろうかと思います。伝道がうまくいかない。信じてもらえない。教会に来てもらえない。その時、私たちは意気消沈することがあります。責任を感じることがあります。自分の伝え方が悪いのではないかと思います。真面目な、信仰に誠実な人ほど、そのために苦しみ悩みます。
 けれども、主イエスは“それはあなたのせいではないのだよ”と、私たちを慰め、励ましてくださっている。そのために、伝道の失敗は自分のせいだと自分を責め、落ち込んでしまう自責の気持は払い落としてよいのだよ、と語りかけてくださっている。そんなふうに受け取ってはいけないでしょうか。
伝道もまた、自分の力ですることではありません。できることではありません。神さまを頼みとして、自分も受けた恵みを、喜びをもって人に伝えていく。ただ、その志さえあれば、あとは神さまにお委ねすべきことでありましょう。

 主イエスに遣わされた弟子たちは、「出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」(12節)とあります。悔い改める、とはどういうことでしょう。単に反省したり、後悔したりすることとは違います。私は、パンや袋や金を第一としたり、自分の力を頼りにして生きている生き方から、神さまを第一とし、神さまを頼みとし、神さまにお委ねして生きる生き方へと転換することだと思います。
 主イエスは、旅をするのに「杖一本」をお許しになりました。それは、神さまを頼りとする“信仰”という名の杖ではないでしょうか。私たちも、人生という旅を歩むために、信仰という杖を支えとして歩んで生きましょう。信仰という杖によって人生を歩む姿、その姿こそ何よりの宣教、伝道になるのです。




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