2009年2月22日 大人と子供の礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書11章11〜13節
  説教者  山岡 創

「 天の父 」

 “にちようのかて(い)”って何だろう? 子供の頃、教会の礼拝で〈主の祈り〉を祈っていて、そう思ったことがあります。
 私が子供だった頃、教会で祈っていた主の祈りは、今と言葉が少し違いました。“わたしたちに今日もこの日のかてをお与え下さい”と祈るところを、“我らの日用の糧を、今日も与えたまえ”と祈っていました。古い言葉だったんだね。それで、小学生だった私は、“にちようのかて(い)”って何だろう? 本当は日用の“かて”なのに、言葉まで勘違いして、“にちようのかてい”って何だろう?と思っていました。そして、自分で考えたことは、“にちようのかてい”というのは、日曜日の家庭、日曜日のお家・家族ということだ!ということでした。全然意味が違う!
 “かて”というのは食糧の“糧”という字を書きます。食べ物のことです。だから、“にちようのかて”というのは、“その日の食べ物、今日の食べ物”ということです。でも、間違えて祈っていました。
 もしかしたら、みんなの中にも、〈主の祈り〉の意味を知らずに、〈主の祈り〉を間違えて、祈っている人がいるかも知れません。
 そこで、今日からしばらくの間、大人と子供が共に守る礼拝の時に、〈主の祈り〉のことをシリーズでお話ししようと思います。

 “天の父よ”。〈主の祈り〉の最初に、私たちはそのように祈ります。お祈りは独り言ではありません。私たちのお祈りを聞いてくださる相手がいます。それは神さまです。祈りを聞いてくださる神さまに向かって、私たちは“天の父よ” “天のお父さま”と呼びかけるのです。“天のお父さま、これからお話ししますから聞いてください”ということでしょう。
 おかしい?! と思ったことがありませんか? 神さまのことを“お父さん”と呼ぶなんて。だって、自分のお父さんはちゃんといる。もしかしたら、お父さんと会えない人、お父さんが死んでしまった人もいるかも知れないけれど、でも、自分のお父さんはちゃんといた。それなのに、神さまのことをお父さんと呼ぶなんて、お父さんが二人いるっていうことなの?
その通りです。私たち、神さまを信じる者には、お父さんが二人いる。一人は、人間のお父さん。そして、もう一人は、目には見えないけれど、天の上からいつも私たちのことを見守り、助けてくださるお父さん、“心のお父さん”である神さま。私たちには、この二人のお父さんがいるのです。
 イエスさまは、神さまのことを“お父さん”と呼びました。神さまをお父さんと呼んだのは、ユダヤ人の中でイエスさまが最初だということです。小さな子供が“お父ちゃん”と呼ぶように、イエスさまも神さまを“お父さん”と呼びました。それは、ご自分のことを“神さまの子”だと信じていたからだね。そして、イエスさまは、あなたがたも神さまの子供だよ、だから神さまを“お父さん”と呼ぶことができる、と教えてくださいました。神さまは赤の他人じゃない。迷惑をかけたら悪い相手ではない。親しみをもって、困った時、苦しい時には頼ることができる、そういうお父さんのような、親のような方だよ、とイエスさまが私たちに教えてくださったのです。だから、私たちは神さまを“天のお父さま” “天の父よ”と呼ぶのです。

 イエスさまにも、自分のお父さんがいました。ヨセフさんです。いや、イエスさまは聖霊によってマリアさんが身ごもったと聖書に書かれているから、ちょっと違うのかも知れません。けれども、子供の頃のイエスさまにとって、ヨセフさんがお父さんであることに変わりはなかったでしょう。
 イエスさまにとって、ヨセフさんは、とても愛情の深いお父さんだったのではないかと思います。今日読んだ聖書にあるとおり、「自分の子供には良い物を与える」(13節)お父さんだったのではないでしょうか。でも、反対に、世の中には自分の子供に良い物を与えない父親もいます。そんな時、子供は自分の父親を好きになることができません、信頼することができません。そういう心の傷があると、神さまをお父さんとは呼べない、呼びたくないと思うこともあります。そういう人の気持も、私たちは忘れてはならないでしょう。
 イエスさまにとって、ヨセフさんは、とても愛情の深いお父さんだったのでしょう。でも、ヨセフさんは早くに亡くなってしまったようです。イエスさまも子供心に、ずいぶんさびしい思いをしたのかも知れません。隠れて泣いたこともあったかも知れません。“自分にはもうお父さんがいない。お父さんがいてくれたら‥‥”。そのようにさびしく、つらい思いをしていた時に、神さまの聖霊がイエスさまの心に語りかけたのではないでしょうか。“あなたにはもう一人、お父さんがいる。それは、天にいらっしゃる神さまだ。神さまのことをお父さんと思って、お父さんと呼んで良いのだよ”。
その聖霊の声を聞いて、ユダヤ人の中でイエスさまが初めて、神さまを“お父さん”と呼ぶようになった。それまでユダヤ人は、神さまをお父さんなんて呼んだことがなかった。神さまは、そんなに親しみのない、自分から離れた、もっと遠くにいるような方だった。それが、イエスさまによって、近くにいて、すぐそばにいて、助けてくれる、愛してくれる、そういう方、お父さんのような方になったのです。

「このようにあなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。
 子供が魚をほしがるのに、蛇を与えるお父さんはいない。卵を欲しがるのに、さそりを与えるお父さんはいない。父親は自分の子供には「良い物」を与える。そうイエスさまはおっしゃいます。
 でも、子供が欲しがるものをそのまま与えるとは限りません。例えば、子供がお菓子ばかりほしがっているから、お菓子ばかり与える親はいません。ゲームをほしがったら、いつもすぐにゲームを買ってくれる親はいません。そんなことしたら、子供の体も心もダメになってしまいます。小さな幼児が、デパートやスーパーで、このおもちゃ買って!、このお菓子買って!と泣き叫んでいるのを見たことがあるかも知れませんね。でも、その子の親は買ってくれない。たぶん、その願いを聞いたら、子供が我慢のできない、我がままな人間になってしまうと思うから、買って与えないのです。そのように、子供のためを思うからこそ、反対に欲しがるものを与えない時もあります。それが「良い物」です。親の“愛情”です。
 「天の父」、天のお父さんも、求める者に「良い物」をくださいます。私たちのためを考えて、「良い物」をくださいます。私たちが、神さまのことを信じて、信頼して、親しみを込めて、“お父さん”と呼べるように、「聖霊」をくださいます。「聖霊」によって信じる心をくださいます。
 目には見えないけれど、「聖霊」が私たちの心に働く時、私たちは神さまを「お父さん」と呼ぶことができるようになります。神さまのことを心から“お父さん”と呼ぶことができたら、私たちは、どんな時も安心です。





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