2009年3月8日 受難節レント第2主日礼拝説教
  聖  書  マルコによる福音書14章53〜65節
  説教者  山岡 創

「 偽れないもの 」

 当時、ユダヤ人社会の中に「最高法院」(55節)というものがありました。「祭司長、長老、律法学者たち」(53節)70人の議員に、議長である「大祭司」(60節)を加え、71名で構成されていました。
 これはユダヤ人社会の中で最高の権力を持つ会議であり、ユダヤ人社会の行政と司法を司っていました。日本で言えば、まあ、国会と行政府と最高裁判所が一つになったようなところだと考えていただければ、良いかと思います。
 そこに主イエスは連れて行かれました。時はユダヤ人最大の祭りである過越の祭りが祝われている時であり、主イエスもまた、この祭りに参加するためにエルサレムに上京しておられました。そして、毎日エルサレム神殿の境内で教え、夜になると郊外のオリーブ山で祈っておられたようです。しかし、弟子の一人イスカリオテのユダの裏切りと手引きによって捕えられ、最高法院に連れて行かれました。そしてそこで、ユダヤ人の信仰と生活の掟である律法に違反する者として裁かれることになったのです。
 しかし、この裁判は異常でした。今日読みました14章に続く15章1節を見ますと、そこに「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは‥‥‥イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した」とあります。つまり、この裁判は夜中に行われたということです。
当時、最高法院はエルサレム神殿内の一角、ソロモンの廊と言われる場所で行われたそうです。けれども、夜の神殿には鍵がかけられている。では、一体どこで会議をしたのか。普段通り、ソロモンの廊でしたのだろうか。聖書学者の中には、そこではできなかったので、議長である「大祭司の屋敷」(54節)で行ったのではないかと言う人もいます。とすれば極めて異例です。しかも、神殿が閉まっていますから、通常、夜中に最高法院が招集されることはない。にもかかわらず、ここでは夜中に、「祭司長、長老、律法学者たち」すなわち議員たちが緊急招集されている。そういうことから考えても、異常事態なのです。
 そこから見えて来るのは、早いところ主イエスを裁いてしまおう。余計な邪魔が入る前に、この裁判を早急に終わらせようという最高法院の意図です。それもまた異常です。

 けれども、そのような異常さの中で、この裁判が最も異常だと思わしめられるのは、55節の言葉です。「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」。つまり、最高法院は最初から、主イエスを死刑にするためにこの裁判を行っているということです。
 裁判とはもちろん、最初から判決が決まっているわけではありません。被告人の罪が証言され、証拠が挙げられ、また反対に弁護され、それらを考え合わせて有罪無罪の判決が下されます。有罪ならば、どの程度の刑罰となるかが判断されます。つまり、判決と刑罰とは、裁判の“結果”に過ぎないのです。
 ところが、この裁判は最初から結果が見えている。死刑です。否、死刑にするために、その目的で裁判が開かれているのです。被告人・主イエスの弁護は一切なされない。あり得ないこと、極めて異常な裁判です。
 なぜ、それほどまでに最高法院は主イエスを死刑にしようとしたのでしょうか。
 それは、自分たち最高法院の教えと主イエスの教えとが、余りにも違っていたからです。しかも、民衆は主イエスの教えに打たれ、主イエスを支持していました。だから、主イエスの教えを認めてしまったら、自分たちの権威が全くなくなってしまうからです。
今までの自分たちの教えが間違っていたことを認めなければならない。そして変わらなければならない。それは、彼らにとって我慢のならないことだったからです。
 主イエスが地方のガリラヤで教え、活動している頃から、一部の律法学者は主イエスに反感を抱き、殺意すら抱いていました。それは、主イエスが神の掟である律法に違反して行動しているように、彼らの目には見えたからです。
 要は、律法に対する彼らと主イエスの受け取り方の違いなのです。彼らは律法の一つ一つの条項を文字どおりに受け取り、守ろうとしました。しかし、そのために民衆の中には彼らの教えに締め付けられ、守り切れずに苦しむ者が出て来たのです。そういう民衆の姿、特に疎外された人々の姿を見ながら、主イエスは律法を文字どおりに、ではなく、律法の“心”を大切にしようとされたのです。すなわち主イエスは、律法の“心”は“愛する”ことにあると受け取って、神を愛することと隣人を愛することを最も大切なこととして教え、活動なさったのです。病人や障がいを持った人々を癒し、律法によって“罪人”と見なされ、社会の中で疎外されている人々と付き合われたのです。その行動は、文字どおりに考えれば、例えば安息日の掟に違反している面もあったと言えます。しかし、主イエスは律法を文字どおりに守るよりも、“愛する”ことを、人を“生かす”ことを大切になさったのです。けれども、そのような教えと行動は、律法学者には受け入れられませんでした。彼らは主イエスを律法の違反者、つまり“罪人”と見なしたのです。
 そのような彼らの反感と殺意が決定的になったのは、主イエスが過越の祭りで上京された時でした。神殿に詣でた主イエスは、境内で商売がなされている様子と、それを許している祭司長たちを見て、“ここは強盗の巣だ。あなたがたが祈りの家を強盗の巣にしてしまった”と非難して、商売人たちの机をひっくり返して大暴れをしたのです。祭司長たちの目には、もちろんその行為は、神殿に対する暴挙、延(ひ)いては神さまに対する冒涜と映りました。そのために彼らは主イエスを殺そうと謀り、イスカリオテのユダを抱き込んで、ついに主イエスを捕えることに成功し、最高法院に連行したのです。
 彼らは何としても主イエスを死刑にしたかったのです。それは、神さまのためと言うよりも、自分たちのためでした。表面的には、律法に違反し、神殿を冒涜したから、神さまのために裁くということですが、本当は自分たちの面子や利益を守るためだったと言えます。なぜなら、主イエスの教えを認めたら、自分たちの権威はがた落ちになるからです。同時に、自分たちは間違っていたと認めることにもなるからです。
 人は何かを失いそうになる時、それを必死で守ろうとします。自分の利益を、自分の体面を失いたくないからです。そして、それを守るためには、何が正しいことなのか、自分は正しい人間なのか、という問題は脇にどかして考えようとしない。自分が間違っていても認めない。悪いことを行っていても正そうとしない。偽るのです。偽装するのです。それが最高法院の人々の姿でした。しかし、自分自身を省みれば、それは私たち自身の姿でもあることがあるのではないでしょうか。

 自分を偽る。自分の間違いを偽装する。その姿は最高法院での裁判にも、くっきりと現われました。彼らは「偽証」(56節)をしました。主イエスを死刑に陥れるために、「偽証」(57節)を繰り返しました。もはやそこには“神”はおられません。信仰はありません。そこにいるのは“自分”だけです。自分の考え方や立場を正しいと正当化し、自分の体面や利益を守ろうとする自己中心な自分です。
 けれども、「多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていた」(56節)と言います。被告人の罪を確定するためには、その人の罪について2人以上の人が証言し、それが合っていなければならない、という律法がありました。しかし、証言者たちの偽証は食い違いました。主イエスを有罪とする確かな証言は得られませんでした。
 苛立った大祭司は、主イエスに向かって、「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」(60節)と言って、発言を促しました。しかし、主イエスが「黙り続け何もお答えにならなかった」(61節)ので、本人の口から言葉尻を捕えることもできません。そこで大祭司は最後の切り札を出しました。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」(61節)。
 すると、それまで沈黙を守り続けて来た主イエスが、その問いに対してだけは、はっきりとお答えになったのです。
「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(62節)。
 主イエスは、ご自分が神の子であり、メシアすなわち神のもとから遣わされた救い主であると、はっきりとお答えになったのです。62節の主イエスの言葉は、旧約聖書の詩編110編とダニエル書7章に出て来るもので、神の子、メシアの姿を表した言葉を主イエスが引用したものです。
 この一言で、主イエスの冒瀆罪、そして死刑判決が下されました。
 どうして主イエスは沈黙を守り続けて来たのに、その時だけはお答えになったのでしょうか。それが大祭司の罠であり、自分を神の子、メシアだと言えば、自分を神と等しい者とする冒涜だと断罪されることは分かっていたでしょう。自分が命を失うことになることを承知していたでしょう。このまま沈黙を守れば、証言はかみ合わず、彼らは死刑判決を下せないことを見通しておられたと思うのです。しかし、その問いにだけは、まるでスイッチが入ったかのように、はっきりとお答えになりました。なぜでしょう。
 それは、主イエスにとって、そのことだけは偽れなかったのだと思います。沈黙し、あるいは、そうではないと否定して、ごまかすことはできなかったのです。自分のことを神と等しいなどと思っているわけではない。けれども、ユダヤの民衆の、自分の身近な人々の苦しみを目の当たりにしながら、これこそ神の御心だと信じたことを伝える。神の愛を、そして隣人愛を伝える。そのために自分は神に遣わされたのだという使命感だけは偽れなかったのです。その意味で、自分は神の子であり、メシアであるとの思いを主イエスは偽れなかったのです。それを偽ったら、神を裏切ることになるからです。自分を裏切ることになるからです。
 ふと、亡くなったキリスト教作家・遠藤周作氏の小説『沈黙』を思い起こします。キリスト教禁止の江戸時代、九州で生きるポルトガル宣教師と隠れキリシタンたちの姿を描いた作品です。役人たちは隠れキリシタンを探し出すために、踏み絵を用いました。キリストの顔が彫られた銅の板を、村々のすべての住人に踏ませました。形だけ踏むだけでいい。心の中までは問わない。そんな甘い言葉で、彼らは踏み絵を勧めました。踏んでしまえば、形だけでは済まず、良心に苛まれ、いつか尻尾を出すか、それとも本当に信仰を捨てるかすることを彼らは知っていたのです。
 形だけと思って、あるいは自分の命を守るために踏んだ人もたくさんいたでしょう。しかし、踏まない人もいました。踏めない人も少なからずいました。それはキリストを裏切ることになる、自分を裏切ることになるからです。そこで自分を偽れないからです。
 遠藤周作氏は、『沈黙』の最後で、キリストの言葉として、“踏めばいい。‥‥わたしはお前たちの痛さと苦しみを分かち合う。そのために私はいるのだから”と書き記しています。弱い者に対する、キリストの愛があふれ出るような、慰めの言葉です。
 だから踏んでいい。それも人生の真理です。それでもいいと思う。しかし、だからこそ踏めない人もいるのです。偽れないこともあるのです。キリストの愛を、真実を知っているからこそ、偽れない。自分が損をしても、体面を失っても、命を捨てても、キリストのように愛と真実に生きようと志すことがあるのです。そして、私たちもまた、日常生活の中で、何を偽らずに生きているか、そのことが問われていると思うのです。

 裁判の席での偽証の中に、「わたしは人間の手で造った神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を立ててみせる」(58節)と言ったという偽証がありました。しかし、それはある意味で、主イエス・キリストの真実だと思います。建物としての神殿を建て直すのではなく、人の心の中に神の住むところを建て直すという意味です。神の前に自分を偽らない。そういう道を示すことで、そういう信仰を人の内に伝えることで、人の心の内に、目には見えない真実なる神殿を建て直すのです。
 私たちも主イエスの姿に導かれ、心の神殿を造り上げていきましょう。






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