2009年3月15日 受難節レント第3主日礼拝説教
  聖  書  マルコによる福音書14章66〜72節
  説教者  山岡 創

「 愛と保身の間で 」

 「あなたの神である主を愛しなさい」(12章30節)、「隣人を自分のように愛しなさい」(12章31節)。この二つこそ、神の掟である律法の真髄であると教えて、革新的な宣教活動をして来た主イエスが、ついに捕えられました。主イエスに反感と殺意を抱く祭司長、長老、律法学者たちは、主イエスの弟子であるイスカリオテのユダを抱き込み、彼の手引きによって、真夜中のオリーブ山で主イエスを捕えました。そして、夜中の内に最高法院を招集し、主イエスの裁判を始めたのです(53節〜)。先週もお話ししたように最高法院とはユダヤ人の立法、行政、司法の最高機関ですが、それが夜中に召集されるというのは異常事態です。けれども、そうまでして彼らは、早急に、主イエスを裁き、この問題を片付けてしまいたかったのです。それほどに、主イエスとは彼らにとって邪魔な存在だったということです。

 ところで、主イエスが真夜中の最高法院で裁かれている時、弟子たちは一体どうしていたのでしょう。
 オリーブ山のゲッセマネの園と呼ばれる場所で主イエスが捕えられた時、弟子たちもその場に居合わせました。そして、祭司長らの部下たちが主イエスを捕えようとした時、彼らに剣で切りかかった弟子もいたのです(47節)。しかし、主イエスが抵抗もせず、あっさりと捕えられるや、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(50節)と言います。中には、服をつかまれたので、服を脱ぎ捨て裸で逃げた者もいたと記されています(51節)。
 弟子たちは皆、逃げました。捕縛者たちの手から逃げ切れたのでしょうか。
 不思議なことに、1度逃げたはずのペトロが戻って来ています。そして、主イエスの裁判が行われている最中、「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた」(54節)と、直前の54節に記されています。
 通常、最高法院は神殿の一角で行われますが、夜中で神殿が閉まっていたため、この時は大祭司の屋敷で行われたと言われています。ペトロは一旦は逃げましたが、主イエスがどうなるかと心配になって、成り行きを見に、大祭司の屋敷に潜入したのでしょう。
 「ペトロは遠く離れて主イエスに従い」という言葉が、その時のペトロの姿勢を象徴的に物語っています。主イエスに従ってはいるのです。しかし、近くにはいない。遠く離れているのです。近くにいると、とばっちりを食うからです。主イエスの裁きに自分も巻き込まれるからです。だから近づかない。自分は巻き込まれない、関わらない、痛まない、損をしない。そういう程良い距離を取って、でも、主イエスには従っている。前の晩の食事の席で、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31節)と豪語した言葉はどこえやら、ペトロは「遠く離れて」主イエスに従おうとしたのです。
 けれども、それは何かが違う。何かずるいと言うか、偽りの匂いがします。主イエスが以前に、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8章34節)と教えられた言葉とは違うと思います。自分の十字架を背負ってはいない。
 別の言い方をすれば、そこには“愛”がないのです。隣人を愛する愛、主イエスを愛する愛がないのです。この人の重荷を一緒に負おう、主イエスと苦しみを共にしようという愛がないのです。巻き込まれないように、痛まないように、傷つかないように、損をしないように、自分のことだけを考えて、ほど良い距離を取っている。それが、この時のペトロの姿でした。
 省みて私たちも、自分自身の中に、このペトロの姿を見つけることがないでしょうか。私たちもまた主イエスに従って信仰生活を歩んでいます。あるいは主イエスを信じて、信仰の道に入ろうとしています。けれども、もう一つ煮え切らない自分を感じることがないでしょうか。もう一歩踏み込まず、距離を取っている自分を感じることがないでしょうか。
 新訳聖書の一番最後に、ヨハネの黙示録という書があります。その3章に、ラオディキアの教会に語りかけられた神の言葉、主イエスの言葉が記されています。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(3章15〜16節)。
 生ぬるい。それは、遠くに離れて従っているということです。痛まず、損せず、自分の思うように、という距離です。
 もちろん、その時の事情や状況で、できないこともあるのです。しかし、自分の内に何かハッと感じるものがあるならば、1歩踏み出すことです。1歩だけ踏みこんでみることです。礼拝や夕礼拝、祈り会等に出席することも、学ぶことも、祈ることも、献げることも、奉仕することも、1歩踏み込んでみることです。そのようにして初めて分かる、信仰の恵み、奥行きというものがあるのです。
 隣人、他者との関わりもそうです。面倒に巻き込まれないように、傷つかないように、損をしないように距離を取っている自分を感じることがないでしょうか。もちろん、人間関係は冷静になるために距離を取ることが必要な場合もあります。けれども、それは冷たさからくるものではなく、やはり愛から出るものだと思います。1歩踏み込んで、関わって、何かを一緒に担ってみると、そこに心満たされる信頼関係が生まれて来るのです。

 遠く離れて従う。それは、すなわち自己中心な距離感です。しかし、その自己中心さが暴かれ、裁かれる時が、ペトロにやって来ました。
 中庭で火に当たっていたペトロを見て、大祭司に仕える女中が、「あなたも、あのナザレの人イエスと一緒にいた」(67節)と言い出したのです。ペトロは、遠く離れて保っていた自分の安全が脅かされている焦りと恐怖を感じたでしょう。このことが発覚すれば、自分も主イエスと同じ場所に連れて行かれ、裁かれ、処刑されるかも知れない。ペトロの心臓は早鐘のようにドキドキと鳴ったことでしょう。
身の危険を感じたペトロは、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」(68節)と、女中の言葉を打ち消しました。このペトロの答えは、原文のギリシア語では、文法が滅茶苦茶で、何を言っているのか分かりにくい文章だそうです。それは、この時のペトロが焦りと恐怖で上がってしまい、変な言い方をしたということでしょう。
 これはまずい。そう感じたペトロは、出口の方へ逃げ出しました。けれども、先の女中が追いすがって、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」(69節)と、またも言い訴えました。ペトロは、再びその言葉を打ち消します。
 けれども、今度は居合わせた人々が、「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」(70節)と言い始めました。もはやなりふり構ってはいられない。ペトロは、「呪いの言葉さえ口に」(71節)したと言います。
 「呪いの言葉」というのは諸説ありますが、例えば、もし自分の言っていることが嘘なら、自分は神に呪われてもいい、罰されてもいい、ということだそうです。一種の誓いの言葉です。あるいは、主イエスを呪ったのだという説もあります。主イエスなんて、神に呪われてしまえばいい。そう言えば、自分を疑っている人々に、自分はイエスの仲間ではないと信用させられる。そう考えて主イエスを呪ったのだというのです。
 しかも、ペトロは誓ったと言います。誓うということは、神に向かって誓うということです。神の前に私は嘘偽りは申しません、と誓ったということです。そう言ってペトロは嘘をついたのです。自分を偽ったのです。「あなたの言っているそんな人は知らない」(71節)と。

 その時、鶏が鳴きました。その鳴き声に、ペトロはハッとします。前の晩の食事の席で、主イエスが言われた言葉を思い起こしたからです。
「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(72節)。
 あなたと一緒に死んでも良い。そう豪語したペトロでした。そのペトロに、主イエスは静かに、こう語られたのです。そして、まさにその通りになりました。
 この鶏の鳴き声を聞いて、主イエスの言葉を思い出すまで、ペトロは我が身の保身、自分を守ることしか考えていなかったでしょう。もちろん、自分も捕えられ、裁かれる。下手をすれば処刑されて命を失うかも知れない、というギリギリの状況なのですから、我が身の保身を考えるのは無理もない、という面はあります。
 けれども、その時ペトロがしようとしたことは何であったか。主イエスとの距離を取ろうとしたということです。遠く離れて従おうとした、ということです。自分は巻き込まれないように、関わらないように、痛まないように、傷つかないように、損をしないように、失わないように、上手に立ち回ろうとしたということです。
 それがどんなに愛にもとる、自分を偽る行為であるか、相手を傷つけ、主イエスを悲しませる行為であるか、ペトロは気づいていませんでした。自分のことだけを考えていたからです。
 しかし、そういうペトロの自己中心さを、あの鶏の声が貫き、打ち破りました。その鳴き声に、ペトロはハッとして主イエスの言葉を思い出し、自分の姿に打ちのめされたのです。偽りの自分が見えたからです。自己中心な自分が見えたからです。自分の醜さが、すなわち自分の“罪”が見えたからです。そして、そういう自分がどんなに相手を傷つけているか、主イエスを苦しませ、悲しませているかが見えたからです。その時、ペトロは「いきなり泣き出した」(72節)と言います。自分の罪に気づき、悔いの思いが込み上げて、泣く以外になかったのです。

 ペトロにとって鶏の鳴き声がきっかけとなったように、私たちも何かをきっかけとして自分の姿が見えることがあります。自分の偽りが、自己中心さが、自分の醜さが、自分の罪が見えて、打ちのめされることがあります。主イエスの言葉、聖書の言葉が思い出され、身に染みて迫って来ることがあります。そして、私たちはそんな自分に泣くのです。けれども、この涙は、私たちの人生に、私たちの信仰に、必要な涙、なのではないでしょうか。
 聖書は、私たちにこう語っています。
「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51編19節)
 自分に泣く。それは、私たちが打ち砕かれ、悔いているということです。そして、打ち砕かれた私たちを、神は見捨てないのです。侮らないのです。打ち砕かれ悔いる私たちを求めておられるのです。
 なぜなら、それによって私たちは変わるからです。主イエスが十字架へと歩む意味を知るようになるからです。自分の力で生きているとおごるのではなく、神の恵みに生かされて在ることを感謝するようになるからです。そして、そこから、愛することに1歩踏み出した、新しい人生が始まるからです。





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