2009年3月29日 受難節レント第5主日礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書18章9〜14節
  説教者  山岡 創

「 神さまを大きく、自分を小さく 」

今、皆さんがパッと思い浮かべる、一番すごいなあ、と思う人はだれでしょう?
 私は“イチロー”。
 この前、野球で世界一を競うWBCという大会がありました。日本は4年前の第1回大会で優勝。今回も優勝を目指して戦いました。そのチームの中心選手がイチロー。ところが、大会の途中は調子が悪くて、あまりヒットが打てなかった。でも、韓国チームとの決勝戦。息が詰まるような試合で3対3の同点のまま延長戦になった。その10回、勝負を決める2点をもたらしたのは、イチロー選手のヒットでした。試合は5対3で日本チームの優勝。大事な場面で打ったイチロー選手は、やってくれた、やっぱりすごい選手だなあ、と思いました。
 ところで、私たち、神さまを信じるクリスチャンが、イチロー選手よりも、もっと思い出しても良い名前があります。それは一体だれでしょう?
 それは、“神さま”だよ。なぜなら、神さまは、この天地をお造りになったからです。それは何を造るよりも、すごいことです。また、私たち一人一人に命を与えてくださいました。命を与えることができるのは、神さまだけです。そして、私たち一人一人を見守り、愛してくださる。助けてくださる。私たちはそのことを信じています。こんなにすごい人、こんなにすばらしい方は、他にいないんだよ。

 さて、今日は、〈主の祈り〉について2回目のお話をします。今日、皆さんと一緒に考えてみたのは、主の祈りの中の“み名があがめられますように”という祈りです。
 この祈りって、どういう意味だろう? 小学生の子供たちはよく分からないまま、お祈りしているかも知れないね。いや、大人の人たちにも分かりにくいかも知れない。言葉の意味を言えば、神さまのお名前が尊敬され、ほめたたえられますように。私たちによって、たくさんの人々によって、世界中の人々によって、ほめられ、尊敬されますように、ということです。“イチローはすごいなあ、良い選手だなあ”とほめられ、尊敬されるように、いや、それ以上に“神さまはすごいなあ、すばらしい方だなあ”とほめられ、尊敬されますように、だれよりも何よりも私たち自身がそう信じられるように‥‥そのことを願う祈りです。
 でも、よくよく考えてみると、私たちは神さまの名前を知らない。私の名前は山岡創と皆さんが知っています。○○くん、○○さんの名前をみんなが知っています。でも、私たちは神さまの名前を知らない。聖書も神さまの名前を教えてくれない。それは、旧約聖書の中に十戒という、人間と神さまの10個の約束、決まりがありますが、その10番目に、神さまの名前を、むやみやたらに口にしてはならない、という約束、決まりがあるからでしょう。たぶん、神さまの名前を口に出して言うことは、おっかない、畏れ多いとイスラエルの人たちは思っていたんだね。だから、聖書も神さまの名前を教えてくれない。正確に言うと、聖書の中に神さまの名前は出て来るんだけど(ヘブライ語で4文字)、でも、それは発音することができない名前なのです。
 それでも、やっぱり神さまの名前が分からないと困るなあ、と考えて、尋ねた人がいました。それは、モーセさんです。2月に子どもチャペルで〈プリンス・オブ・エジプト〉という、イスラエルの先祖が奴隷の国エジプトを脱出するアニメ映画を見ましたね。あのエジプト脱出のリーダーだったモーセさんです。
 モーセさんは、エジプトで奴隷にされているみんなを助けなさいと神さまから命じられた時、“そういうあなたのお名前は何と言うのですか?”と聞いたんだ。みんなから、神さまの名前は?と聞かれたら、答えられないと困ると思ったんだね。そうしたら、神さまは「わたしはある」(出エジプト記3章14節)という名前だ、と答えたんだ。何じゃ、そりゃあ?と思うでしょう。変な名前だねえ。でも、それは名前と言うよりは、神さまはどういう方なのかを教える言葉だったのです。
 わたしは確かに、いる。しかも、ただ、いるだけではない。あなたと一緒にいるよ。○○くん、○○さんと一緒にいるよ。目には見えないけれど、いつもあなたと一緒にいて、あなたを導き、あなたを愛し、あなたを助けるよ。それが、神さまだということがその時、分かったんだね、
 その神さまが、ご自分の独り子イエスさまを、イスラエルの人々のもとに送ってくださった。神さまがいつも一緒にいて、愛して、助けてくださることを忘れかけていたイスラエルの人々に思い出させるために。そして、私たちも神さまを信じることができるようになるために。そして、イエスさまは十字架の上で命を懸けて、私たちの罪をお赦しになる神さまの愛を表してくださったのです。
 結局、神さまの名前は分からない。でも、神さまがどんな方か、ということは分かる。どんな時でも私たちと一緒にいてくださる方、愛してくださる方、赦してくださる方。助けてくださる方。この神さまはほんとうにすばらしい!感謝します、と心から尊敬し、ほめられるようにしてください。それが、〈み名があがめられますように〉という祈りの心なのです。

 そのように、心から神さまを尊敬し、ほめたたえられるようになるには、どうすれば良いのでしょう。それはね、自分を小さくすることです。
 み名があがめられますように、という祈りの“あがめる”という言葉(ギリシア語)には元々、“大きくする”という意味があるそうです。つまり、神さまを大きくするということです。
 でも、神さまを大きくするとは、どういうことでしょう? それはもちろん、大きくて高いビルのように神さまを大きくするという意味ではありません。自分の心の中で、神さまを大きくする。それは、聖書の御言葉によって神さまの大きさを知ること、神さまの偉大さ、すばらしさを知ること、信じることです。
 でも、それだけではない。神さまを大きくするということは、裏を返せば、私たちが自分のことを小さくすることだと思います。心の中で自分のことを大きくしていたら、神さまの大きさが分かりません。ぼく(わたし)って、すごいなあ、偉いなあと自慢したり、威張ったりしていたら、神さまがあがめられますように、ではなく、“私”があがめられたい、ほめられたい、という気持になってしまうでしょう。
 今日読んだ聖書の中で、ファリサイ派の人は、自分のことを大きく大きくしていました。神さまに向かってお祈りしながら、私はこんなことができます、あんなこともしています、と自分の自慢ばかりしていましたね。あれだと、神さまに愛されて、赦されている。助けられているという感謝の気持になれません。
 でも、もう一人の徴税人は、うつむいて、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)と祈りました。自分には、神さまに自慢できるようなことは何もない。それどころか、心の中に罪をいっぱい持った人間です。そんな気持で本当に小さくなっていたでしょう。けれども、自分が小さくなる時、私たちは初めて、神さまの大きさが分かるのです。私たちを赦してくださる神さまの愛の大きさが分かるのです。

 み名があがめられますように。この次から、この祈りを祈る時は、心の中で“神さまを大きく、自分を小さく”ということを、ぜひ思い出して祈ってください。





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