2009年4月5日 受難節レント第6主日礼拝説教
  聖  書  マルコによる福音書15章16〜41節
  説教者  山岡 創

「 本当にこの人は神の子であった 」

今日の聖書の御言葉を黙想しながら、私の心に二つの言葉が響いて来ました。一つは、主イエスが十字架の上で叫ばれた言葉、
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(34節)。
という言葉です。
 そして、もう一つは、この主イエスの叫びに呼応するかのように告白された百人隊長の言葉、
「本当に、この人は神の子だった」(39節)
という言葉です。
 しかも、この二つの言葉は、私の心に、ある問いかけを投げかけて来ます。主イエスの叫びは、主イエスほどのお方がどうして父なる神を疑うような、神への信頼を失ったような言葉を叫んでいるのだろうか、という疑問を引き起こします。
 そして、百人隊長の言葉は、彼が主イエスの“何に”感動して「神の子だった」と告白したのだろうか、という思いを抱かせます。彼はユダヤ人を支配していたローマ帝国の兵士です。元々、神さまに対する信仰など持っていなかったはずです。彼と同じローマの兵士たちは、16節以下にあるように、主イエスに「紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ」(17節)、王様になぞらえた格好をさせて、散々に侮辱しているのです。そのような中で、百人隊長一人、一体何に感動したのでしょうか。
 しかも、先ほど百人隊長の言葉は主イエスの言葉に呼応していると言いましたが、一読一見したところ、実は呼応など全くしていない。主イエスが十字架に架けられながらも、なお神さまを信頼した、立派な信仰の言葉を語っているのなら、百人隊長がその言葉に感動して、「神の子だった」と言うのなら分かります。それならば、呼応していると言えるでしょう。けれども、主イエスは反対に、疑いと不信頼の言葉を叫んでいるのです。そのような主イエスの一体何に、百人隊長は感動したのか、不思議に思うのです。
 この二つの疑問を解くことが、今日、私たちを神の恵みへと導くでしょう。「本当に、この人は神の子であった」との信仰へと導くでしょう。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。しかし、よくよく考えてみれば、主イエスがこのように叫んだとしても、決して不思議ではありません。無理もないと思われます。と言うのは、主イエスほど神の御心を深く思い、教えて来た方が、神の御心に忠実に従って来た方が、最後には人々の悪意によって十字架刑に処せられるという、最も苦しく、悲惨な現実を味わわされているのですから、“自分は神さまに見捨てられた。なぜ?”と感じても不思議ではない、無理もないと思うのです。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。主イエスもまた、十字架刑という、神さまに見捨てられたかのような、最も苦しく、悲惨な現実を味わわれた。しかし、この事実が、私たちと主イエスとの関係をグッと近づかせてくれます。主イエスが私たちと同じところにいてくださる。私のすぐそばに、共にいてくださる。私の苦しみ悲しみを分かっていてくださる。そんな主イエスとの親近感、連帯感を抱かせるのです。
 私たちも、人生において苦しみ、悩みを味わいます。一つばかりではありません。“泣きっ面に蜂”という諺がありますけれども、それどころではない、苦しみの上に、更に別の苦しみが襲いかかって来るような、そんな二重苦、三重苦に見舞われることさえあります。絶望に打ちひしがれる。人生を投げ出したくなる。“なぜ?”“自分ばかりがなぜ?”と、ぶつけようのない疑問と怒りを、それでも誰かに、何かにぶつけたくなる。神さまへの信仰を持つ人であれば、“神さまを信じているのに、なぜ?”と、神さまに向かって叫ばずにはいられないような、グチャグチャな気持になるのです。そうなっても不思議ではない、無理もありません。
 そういう気持を、私たちと同じような苦しみを、主イエスもまた、既に味わっておられる。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。主イエスのこの叫びは、私たち自身の叫びでもあるのです。
けれども、だからこそ私たちは主イエスを信じることができる。もし主イエスが何の苦しみも、悲惨も味わったことのない方であったなら、私たちは、主イエスとの間に、ものすごい隔たりを感じたでしょう。何の関わりもない、と失望したでしょう。主イエスが私たちのように、人生の苦しみ、悲惨、その気持を味わわれたからこそ、私たちの苦しみと気持を分かってくださり、支えてくださり、そこから救い出してくださると信じることができるのです。

 そして実は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との主イエスの叫びは、このままでは終わりません。疑いと不信頼、怒りと絶望のままでは終わらないのです。
 主イエスのこの叫びは、旧約聖書の詩編22編を歌おうとしたのではないか、と言われています。詩編22編は、十字架の上での主イエスのこの叫びとまさに同じ言葉、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」で始まるのです。そして、詩編22編は疑いと嘆きで終わるのではありません。苦しみと悲惨の中で、なお神さまへの賛美と信頼を告白しているのです。
 詩編22編について、余り詳しく語る時間はありませんが、この詩編の作者もまた、神さまに見捨てられたと言わざるを得ないような苦しみ、悲惨な現実を味わったのでしょう。その苦しみと気持とが綿々とつづられています。人間、一旦はそのような疑いと嘆きを感じるのも、当然のことでありましょう。けれども、詩編22編の作者は、そのまま絶望にうずくまり、人生をあきらめてしまうのではありません。神が必ず自分を救ってくださる、救いの道を示してくださるという信頼と賛美を取り戻しているのです。苦しみと悲惨の中で、彼はなお、人の力を超越して、人生を支え導く神を信じて、勇気と希望を持って生きる心を失わないのです。
 主イエスもまた、十字架の上で、この信頼と賛美の信仰を言い表そうとしたのではないでしょうか。十字架刑という苦しみと悲惨に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という絶望と嘆きを感じたというのも嘘ではない、主イエスの本心だったと思います。けれども、そのままでは終わらない。十字架の上で、たとえ自分が苦しみと悲惨の中に果てようとも、それでも神の救いが自分にとどいていることを信じている。苦しみと悲惨の現実に心を支配されるのではなく、神の愛と力を信頼して、自分を委ねている。その信仰によって、人生を生きる、苦しみを担う勇気と希望を失わない。そのような信仰を主イエスは言い表そうとされたのではないでしょうか。もしかしたら、痛みと疲労のために、その言葉は最初の一言で途切れたのかも知れませんが、私はきっとそうに違いないと信じたい。そして、主イエスは、苦しみと悲惨の人生の中にも、なお神さまを信じて生きる救いの道があることを、私たちに示してくださっているのではないでしょうか。

 ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に、一人の患者が残した、次のような詩があるそうです。

  大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求め
  たのに、
    謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。
  より偉大なことができるように健康を求めたのに、
    より良きことができるようにと病弱を与えられた。
  幸せになろうとして富を求めたのに
    賢明であるようにと貧困を授かった。
  世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、
    得意にならないようにと失敗を授かった。
  人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
    あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。
  求めたものは一つとして与えられなかったが、
    願いはすべて聞き届けられた。
  神の意に沿わぬものであるにもかかわらず、
    心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。
  私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。
                     (J・ロジャー・ルーシー)
 弱さ、病弱、貧困、失敗‥‥‥そういう苦しみと悲惨の中で、最初はこの人も“なぜ”と疑い、嘆いたかも知れません。しかし、その中に、やがて彼は神の祝福を、神の救いを見いだしたのです。生きる勇気と希望を取り戻したのです。
 そういう信仰を、十字架に架けられた主イエスの中に見たからこそ、本来信仰のない百人隊長が感動したのではないでしょうか。心を打たれて、「本当に、この人は神の子であった」と告白したのではないでしょうか。
 祭司長や律法学者たちは、十字架から降りて自分を救うことができたら、信じてやろう(32節)とののしりました。十字架から降りるという奇跡を見せたら、つまり神さまがお前を助けたという“しるし”を見たら、お前が何の苦しみも悲惨もない、神に救われた姿を見たら、「神の子」と信じてやろうというのです。つまり、祭司長や律法学者たちにとっては、病気や苦しみや悲惨な出来事もなく、人生がうまく行っていることが、神に救われていることだと思い込んでいるのです。
けれども、百人隊長は、苦しみも悲惨もない神の祝福、神の救いを受けているから、主イエスを「神の子」と感じたのではありません。十字架という、最大の苦しみと悲惨の中で果てて行く。それでもなお、神さまを信頼して、勇気と希望を失わない信仰に、救いを見いだすことのできる心に感動して、「神の子」と告白したのです。
 主イエスが示してくださった信仰の道。この救いの道を私たちも進むことは、もちろん容易ではありません。しかし、主イエスは、悲惨な現実を味わい、苦しみ悩む私たちを、この救いの道に招いてくださいました。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8章34節)。
 主イエスが教えてくださった信仰の道を、たどたどしくても進もうと志す私たちを、主イエスがきっと助け、導いてくださると信じて祈りましょう。





   ウィンドウを閉じる