2009年4月26日 礼拝説教
  聖  書  ヨハネによる福音書8章31〜38節
  説教者  山岡 創

「 聖書の言葉にとどまる 」

 今日は、この礼拝の後で教会総会を行います。この総会において、私たちは昨年度の教会の営みをまとめ、その営みを導き支えてくださった神さまに感謝します。そして、今年度の方針や計画、予算などを協議し、定めて、神さまの恵みを祈りながら、この1年へと踏み出していきます。そのように、教会にとって1年に1度の、とても大切な機会、重要な会議です。
 ところで、今年度の方針や計画を一言で言い表す言葉として、私たちは、〈主の家を整えよう〜信仰と教会を学ぶ〉という標語を掲げました。正式には、この後の教会総会で承認決定されるわけですが、聖書の御言葉によって信仰を養われ、教会のあり方をしっかりと学び、それを一人一人の教会生活に生かして、教会の営みを整えて行こう、という願いが込められています。詳しいことは、また後でお話しいたしますが、この標語に伴う御言葉として、皆さまからも候補を寄せていただき、その中から選ばれたのがヨハネによる福音書8章31節です。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(31節)。
 この御言葉と標語が、礼拝堂の正面、皆さんの方から見て右側に掲げられています。この1年、礼拝の度にこれを見て、繰り返し意識していただければと思います。

さて、本日は、この標語に伴う御言葉に聞き、神さまの御心を汲み取るために、ヨハネによる福音書8章31〜38節を取り上げました。その中で、主イエスが「ご自分を信じたユダヤ人たちに」(31節)語られたのが、先の言葉です。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(31節)。
 主イエスは、ユダヤ人社会の中に、ユダヤ教を信じる人々の間に、革新的な教師、預言者として現れました。主イエスの語る言葉は、それまでの聖書の教師(律法学者)たちが語る教えとは全く違っていて、人々は、主イエスの言葉に、今までにはなかった新しい権威、神の力を感じたのです。
しかし、それによってユダヤ人社会に大きな波紋が広がりました。主イエスを信じる人々と信じない人々と、ユダヤ人が二つに分かれたのです。そして、主イエスはご自分を信じた人々に、31節のように語りました。“あなたたちはわたしの言葉を聞いて信じた。しかし、それだけではまだ弟子とは言えない。わたしの言葉に引き続きとどまってこそ、本当にわたしの弟子だ”。そう言われたのです。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」。
 この御言葉を黙想しながら、おもしろいなあと注意を惹かれるのは、「とどまる」という言葉です。普通、「言葉にとどまる」とは言いません。言葉を聞く、とか、言葉(命令)に従う、とか、言葉(教え)を行う、などと言います。「とどまる」と言えばむしろ、家にとどまる、とか、会社にとどまる、とか、ある人のそばにとどまる、とか、そういう使い方をします。
 そこで私が思い起こしたのは、主イエスがなさった〈羊飼いと羊〉のたとえです。ある人が百匹の羊を持っていて、そのうちの1匹が迷い出て、いなくなってしまったら、99匹を野原に残して、いなくなってしまった1匹の羊を一生懸命に捜す羊飼いのたとえ話です。このたとえでは、羊飼いは主イエスを、羊は弟子たち、信じる人たち、私たちのことを現わしています。
 このたとえを思い起こしながら、私は、主イエスの言葉に「とどまる」ということを、羊が羊の囲いの中に、牧場の柵の中にとどまるような、羊飼いである主イエスのもとにとどまるような、そんなイメージを連想しました。主イエスの言葉という柵の中で、囲いの中で生きるのです。
 けれども、それでは囲いの中から出られなくて不自由ではないか、「自由」などないではないか、と思われた方もいらっしゃるかも知れません。と言うのは、「わたしの言葉にとどまるならば‥」との御言葉の後の32節に、次のような言葉が続いています。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(32節)。
 「自由にする」とあるけれど、主イエスの言葉の囲いの中にとどまったら、その囲いの中でしか生きられないのだから、むしろ不自由ではないかと思われるかも知れません。
しかし、そうではないと私は思います。何ものにも縛られない、どんなルールや枠にも規定されない生き方の方は、自由であるように思われます。けれども、何ものにも属さず、どんな柵も設けないということは一見自由なようですが、それはともすれば糸の切れた凧のような、嵐の中で寄港する港を持たない船のような不安定さ、行き当たりばったりの不自由さを感じるのではないでしょうか。特に、精神の世界、心の世界はそうだと思います。何ものかに属することによって、生き方の枠を定めることで、それ以外のすべてのものに縛られず、解放されて、自由になれる。そういう生き方ができるようになるのです。
 例えば、いつも自分と他人を比べて“この人は良いなあ、あの人はできる。でも、自分は‥”と劣等感を持っているとします。人はだれしも、多かれ少なかれ、この比較の価値観から逃れることはできません。それは、他人に縛られ、比較という価値観に縛られて、不自由になっているということでしょう。
けれども、自分が掛け替えのない一人の人間として神さまから愛され、この世に命を与えられて、生かされている、と信じる。それが、神さまに属することであり、主イエスの言葉にとどまるということなのですが、そのことを信じると、自分は神さまにとって大切なオンリー・ワンなのだ、という喜びの心が生まれて来ます。すると、人と比べてナンバー・ワンにならなければ‥‥という比較の価値観から少しずつ解放されます。自分は自分で良い、と納得して生きることができるようになって行きます。それが、自由になるということです。主イエスの言葉によって教えられる真理が、私たちを自由にするということです。

 主イエスの言葉にとどまることで自由にされる、という一つの例を挙げました。それでは、主イエスの言葉、主イエスの教えの中で、これが最も重要、これが主の教えの真髄だというものを挙げるとすれば、それは何でしょうか?
 それは、ヨハネによる福音書で言えば、13章34節の御言葉だと思います。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
 主イエスに愛されている、神さまに愛されていることを知って、互いに愛し合う時、私たちは縛られた不自由な状態から解放され、自由になる。その自由の道に立ち続け、とどまり続け、たどたどしくても歩み続けることが、本当の弟子だということでしょう。
 では、何から解放され、自由になるのでしょうか? 34節にこう書かれていました。
「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。‥‥もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になれる」(34節)。
 当時のユダヤ人も、そして私たちも、人として生きる者はすべて、ある意味で「罪の奴隷」なのかも知れません。神さまに愛されていることを知らず、気づかず、他人ばかりを見て、劣等感を抱いたり、非難したりして、自分を愛することも、他人を愛することもできなくなっている。それが、「罪の奴隷」ということなのかも知れません。
 今日の聖書の御言葉に先立つ8章のはじめに、〈わたしもあなたを罪に定めない〉という小見出しの付いた箇所があります。律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えた女性を主イエスのもとに連れて来て、掟(律法)によれば、姦通の罪を犯した女は石で打ち殺せと命じられているが‥‥と主イエスを問い詰めるのです。彼らは、今日の聖書の38節に書かれているとおり、まさに「父から聞いたことを行っている」(38節)のです。もちろん姦通はよろしくありません。しかし、彼らは先祖から言い伝えられた掟にこだわり、いつの間にか愛を失い、この女性をただ、裁こうとしているのです。自分は正しいと思い込み、古い掟に縛られて不自由になっていることに気づいていないのです。
 そういう彼らに、主イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)と言われました。そして、こう言われた人々は、ハッと感じるものがあったのでしょう、一人去り、二人去り、皆去ってしまったと言います。彼らが、神の掟において大切なのは、正義ではなく愛だと気づいたかどうかは分かりません。ただ、彼らは自分たちが正しいと信じる掟にこだわる余り、それに縛られ、「罪の奴隷」になっていたのではないでしょうか。そして、私たちにも同じような面があることでしょう。

 神の愛を失ったこだわりは、人を不自由な「罪の奴隷」にします。しかし、愛は私たちを自由にします。愛する自由へと導きます。
 一昨日、天に召されたMさんの納骨式を行いました。越生町にある地産霊園の教会墓地に次いで、午後は八王子の上川霊園で分骨しました。その途中、昼食の席でご遺族の方々と歓談している会話の中で、こんな質問が出ました。“クリスチャンは、仏式の葬儀の際にはお焼香はどうするのですか?”。
 クリスチャンであっても、具体的な行動は人それぞれです。仏式の葬儀に参列して、お焼香は仏教の作法だからと言って、なさらない人もいるでしょう。それを、私は間違っているとは思いません。けれども、自分はお焼香はしないと言ったら、悲しんでいる人を傷つけるかも知れません。そこでお焼香をすることが、愛する人を失って悲しんでいる人の悲しみを、ほんの少しでも共にし、慰めることになるならば、私はお焼香します。それが、愛だと思うからです。
 そうお答えしました。私は、それもまた私たちが自由にされるということの一つだと思います。主イエスの言葉、愛の教えによって、キリスト教的な作法にもこだわらず、自由にされている。その自由が、むしろ私はキリスト教らしいのではないだろうか、と思っています。

 最後の38節に、「行う」という言葉がありました。主イエスの言葉にとどまるということは、今までの話からもお気づきになられたかと思いますが、それは、主イエスの言葉を行うことだと言っても良いでしょう。教会生活において、日常生活において、人との交わりにおいて、主イエスの言葉を咀嚼(そしゃく)して、具体的に行うことです。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」。
 この1年、この御言葉を私たちの胸にとどめて、否、私たちがこの言葉にとどまって、歩んでまいりたいと願います。






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