2009年5月17日 礼拝説教
  聖  書  マルコによる福音書16章14〜20節
  説教者  山岡 創

「 信じる者は救われる 」

 今日読んだ聖書箇所に、“信じる”という言葉が、“信じない”という否定の形も含めて4回出て来ました。“信じる”ということは、クリスチャンの初めの1歩です。当然のことながら、信じなければ信仰生活も教会も始まりません。
 けれども、私たちが当たり前のように口にし、使っている“信じる”ということ、それはどういうことでしょうか。“何を”信じるのでしょうか。今日の聖書箇所を黙想しながら、改めて“信じる”ということを考えさせられました。

「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現われ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(14節)。
と最初の14節にあります。ペトロら、主イエスの最も身近にいた11人の弟子たちが信じなかったのは、心がかたくなだったからだということは、先週の礼拝でお話ししました。彼らは何を信じなかったのでしょうか。「復活されたイエスを見た人々の言うこと」です。と言うことは、逆に言えば、“信じる”とは、「復活されたイエスを見た人々の言うこと」を信じる、ということになります。
 主イエスが復活したその姿を、自分の目で見たわけではない。けれども、見た人々がいる。その人々が、“主イエスは復活した。私は復活した主イエスを見た”と言う言葉、証言の言葉を信じるのです。
 「人々の言うこと」は、やがて書き留められ、記録として残されるようになります。そのように書き残された記録がまとめられたものが、今、私たちの手元にある聖書です。だから、「復活されたイエスを見た人々の言うこと」を信じるということは、広い意味では、否、後の時代の人々にとっては、私たちにとっては、聖書に書き残された人々の言葉を信じることだと言って良いでしょう。
 “信じる”とは、神を信じることです。神の救いを信じることです。神の救いは主イエスの教えや行いによって示されましたから、主イエスを信じることだと言っても良い。それが、一言で言えば私たちのキリスト教信仰です。その信仰を少し丁寧に言い表したものが、使徒信条や日本基督教団信仰告白であるわけです。
 けれども、私たちは神を見たわけではありません。また、当時の弟子たちや人々のように、主イエスを見たわけでもありません。主イエスから直接教えを聞いたわけでも、主イエスに病を癒されたわけでも、主イエスに罪を赦されたわけでも、主イエスに直接愛されたわけでもありません。主イエスの十字架刑の現場に居合わせたわけでも、復活した主イエスを見たわけでもないのです。私たちの信仰はただ、「復活されたイエスを見た人々の言うこと」を信じるだけなのです。「人々の言うこと」が書き残された聖書の言葉を信じる以外にないのです。「見ないのに信じる」(ヨハネ20章29節)以外にないのです。
 復活した主イエスとトマスの出会いの話は、ほとんどの方がご存知でしょう。ヨハネによる福音書20章にあります。復活した主イエスが11人の弟子たちのところに現われてくださった時、トマスはそこに居合わせませんでした。仲間の弟子たちから、主イエスは復活した、私たちは主を見た、と言われても、トマスは信じませんでした。かえって、彼は意固地になり、たとえ主が現われても、十字架に架けられた釘の跡と脇腹を槍で刺された跡を見なければ信じない、と啖呵を切ってしまいました。1週間後、復活した主イエスが再び弟子たちのもとに来て下さり、トマスに向かって、釘の跡、槍の跡を見せて、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言葉をかけてくださいました。それでトマスは信じるようになるのですが、その時、主イエスが言われたのが、
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」(20章29節)
との言葉でした。
 「見ないのに信じる人は幸いである」。この言葉は、トマスに向かって、と言うよりも、むしろ後の時代に信仰を求める人々に向かって、私たちに向かって言われた言葉だと言えます。トマスや直弟子たち、当時の人々は、主イエスを見て、確かめることができたかも知れない。けれども、私たちは見ることができません。見ないのに信じるほかはない。見ないのに、見た人々の言うことを信じる以外にないのです。
 信仰とは見て確かめることのできないものです。神の救いとは保証の付くものではないのです。だから、フォーサイスというイギリスの神学者であり、牧師であった人は、
  信仰とは、キリストが幻ではなく、神のリアリティであるという確信に、我らの魂と未来のすべてをゆだねる大冒険である。(『フォーサイスと現代』6頁)
と語っています。ちょっと難しい表現だったかも知れませんが、要するに信仰とは、自分の人生を賭けた、「見ないのに信じる」大冒険なのです。そして、私たちは、この大冒険の旅に、主イエス・キリストから招かれている。出発するように、1歩踏み出すように求められている。いや、既に旅を進んでいるのです。

 そして、この信仰の旅の途上で、私たちは、もはや主イエスを直接見ることはできませんが、しかし、主イエスと直接出会った人々の体験と重なり合うような信仰の体験を味わうことはできるのです。それは、聖書の物語が、聖書の言葉が、自分の人生にピッタリのものとして感じられる時です。聖書の物語を、“これは私の物語です”と言える時、聖書の言葉を、“これは私の確信する真理です”と言えるようになる時です。
 例えば、主イエスによって病を癒される人の物語が深い意味で、自分の物語として体験させられることがあります。主イエスに罪を赦された人の物語に、自分の心が深い感動に包まれ、自分が赦されたと感じることがあります。主イエスに招かれたザアカイの物語が、自分への優しさのように心温まる思いをすることがあります。だれが一番偉いかと争っている弟子たちの姿に、自分の愚かさを目の当たりにし、反省させられることがあります。放蕩息子を待ち続け、一切責めずに迎え入れる父親の譬え話に、こんなにも罪深い自分に対して、こんなにも神さまは意を注いでくださるのかと涙の止まらないことがあります。主イエスを十字架に架けた祭司長や律法学者の罪を、裏切った弟子たちの情けなさを自分の中に見て、心を砕かれることがあります。十字架の上で、主イエスに赦された罪人は、この私だとしみじみと感謝することがあります。そして、復活した主イエス・キリストを見た人々、マグダラのマリアやトマスや弟子たちのことを、まさに自分だと深い感動を持って感じずにはいられないことがあります。
 松木治三郎という方(牧師)が“聖書一句の信仰”ということを言われたそうです。私たちは、聖書の真理のすべてが分かるわけではありません。いや、分からない部分の方が圧倒的に多いのです。けれども、たった一つ、その聖書の言葉との出会いによって、それまでの人生とその後の人生とが全く変わったと言えるような言葉があれば、それで良い。聖書全体を知る必要も、正しい解釈の必要もない、と言われたそうです。
 “聖書一句の信仰”、今日の話の内容で言えば、“この聖書の話は、まさに私自身の物語です”“この聖書の言葉は、私自身の人生の言葉です”と言えるような聖書の一つの物語、一つの言葉との出会いとそれに裏打ちされた信仰です。
 そのような聖書の言葉との出会い、信仰の体験が一つでもあるでしょうか。きっと、そのような信仰の体験をしたことのある方が、皆さんの中にも少なからずいらっしゃると思います。
 そして、そのような信仰の体験は、「イエスを見た人々」の体験に優るとも劣らないものだと思います。自分自身の中では、“私は主イエスを見た、主イエスに出会った”と言っても良いほどのリアリティ、実感だと思います。
 そのリアリティ、実感は、今日の聖書の17節で、「信じる者には次のようなしるしが伴う」と言われているところの「しるし」だと、信仰のしるしだと言って良いでしょう。17〜18節に書かれていることは、信じた私たちが、そこに書かれているような奇跡まがいのことを文字通りに体験するという意味ではなく、私たちが聖書の物語、聖書の言葉を、自分の物語、自分の真理として感じ、確信できる信仰の体験、リアリティ、実感のことを「しるし」と言うのだと、私はそういう意味に受け止めています。
「イエスを見た人々」の体験に優るとも劣らない、そのような信仰の体験を、私たちの人生においてもできるからこそ、私たちは、「イエスを見た人々の言うこと」を信じることができるのです。

 そして、この信仰の体験、救いの体験に裏打ちされているからこそ、私たちは福音を宣(の)べ伝えていくことができるのです。知っているからこそ、信じているからこそ、味わっているからこそ、私たちは、本当のこととして伝えていくことができるのです。
 主イエスは弟子たちにお命じになりました。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣(の)べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(15〜16節)。
 後半の「信じる者は‥‥、信じない者は‥‥」という言い方は、両者をはっきりと分けて、決めつけて、何だかちょっと厳しい、冷たい、何となく感じの悪いような気がしないでもありません。日本の社会の中で、私たちがストレートにこのような言い方、このようなやり方で行ったら、かえって反感を持たれて、伝わるものも伝わらないように思います。
 けれども、この言葉を、人間を信じる者と信じない者とにバッサリと分けて、自分を信じて救われる者の側に置き、信じない人を裁くような、そんなニュアンスで受け取ってはならないでしょう。私たちも、「信じない者」の側にいたのです。信じて洗礼を受けていても、信じられないような疑いと不信仰に傾くこともあるのです。
 何より、この宣教を命じられた弟子たちが、最初は信じなかったのです。「復活されたイエスを見た人々の言うこと」を何度も聞いたのに、その度に信じなかったことが、9節から3回続けて書き記されています。彼らもまた信じなかった。何度言われても、何度証言されも、宣(の)べ伝えられても、信じなかったのです。
 そういう不信仰極まりない者が、信じる者とされた。弟子たちは、その事実を忘れて宣教はできなかったでしょう。私たちも同じことです。だから、1度や2度や3度、相手が信じなかったからと言って、否、たとえ何度信じなかったとしても、“この人は信じないで滅びる人だ”と決めつけないで、“この人も、いつかきっと信じて救われる人だ”と信じて、たとえこの世で救われなくても天国で救われる人だと信じて、神の救いの福音を伝えることが大切だと思うのです。

 「すべての造られたものに」と主イエスは言われました。私たちは皆、「造られたもの」なのです。旧約聖書・創世記の初めの天地創造物語によって示されているように、私たちは皆、神さまの手によって「造られたもの」なのです。神さまによって造られ、生かされて在る者なのです。神さまによって造られた当初の世界には、神さまの愛の下に生かされて在る平和がありました。しかし、人は「造られたもの」との慎みを忘れ、我意を述べる罪のために、この平和な世界から離れて行きました。失いました。
 福音を宣(の)べ伝え、それを信じることは、この「造られたもの」であるとの思いを回復することです。生かされて在る者としての感謝と慎みを回復させることです。人間として、平和に生きる命を回復することなのです。





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