2009年5月31日 聖霊降臨祭ペンテコステ礼拝説教
  聖  書  使徒言行録2章37〜42節
  説教者  山岡 創

「 大いに心を打たれ 」

 ペトロさんの語る説教、御言葉を聞いた人々は、「大いに心を打たれた」(37節)、と言います。心を打たれる。イメージで言うと、心をバシンと打たれるとか、心にゴロゴロと雷が落ちるような、そんな感じだけど、心を打たれる、とはどういうことでしょう?
 一つは、“感動する”という意味です。本を読んで、そのお話しをすばらしいと感じたり、映画やドラマを見て涙を流したり、スポーツの試合や競技を見て、自分もあの選手のようになりたいと思ったりすることです。
 そして、もう一つの意味は、自分の間違いに気づく、ということです。自分の間違いに気付いて、“どうしよう”と後悔し、“謝ろう”“間違いを直そう”と思うことです。

 ペトロの説教を聞いて心を打たれた人々は、今話した後の方、自分たちの間違いに気づいたのです。
 人々は皆、ローマの兵隊たちに苦しめられながら、神さまが自分たちを救うために“救い主”を送ってくれるのを待ち望んでいました。ペトロさんは語りました。“イエスさまこそ、神さまが送ってくれた救い主だ”と。“それなのに、あなたがたは救い主イエスさまを、神の掟を破る罪人だと勘違いして、十字架に架けて殺してしまった!”ペトロさんから、そう言われた時、人々の心は後悔で張り裂けそうになったに違いありません。
 今日は、大人と子供が共に守る礼拝なので、子供たちも〈悔い改めと赦しの交読〉を一緒にしました。小さいお友だちにはちょっと難しいかも知れないけれど、あの中に、“「打ち砕かれ悔いる心」をお与えください”とありましたね。
 ペトロさんの説教を聞いた人々は、その心がまさに「打ち砕かれ悔いる心」になっているのです。ペトロさんの言葉に心を打ち砕かれ、自分は間違っていた、罪を犯したと悔いる心になっているのです。「打ち砕かれ悔いる心」とは、そういう心です。

 大いに心を打たれた人々は、「わたしたちはどうしたらよいのですか」(37節)と真剣に尋ねました。間違っていた、罪を犯した、そういう自分を改めないと、と思ったんだね。特に、神さまがせっかく送ってくれた救い主イエスさまを十字架に架けて殺してしまったということは、簡単に言えば、神さまとけんかしている、ということだ。これはまずい! このままではいけないと人々は思ったのです。
 すると、ペトロさんは、神さまと仲直りする方法があると教えてくれました。どうするのでしょう? それは、心を入れ替えて、洗礼を受け、神さまに罪を赦していただくことです。今までの自分を赦していただいて、「聖霊」(38節)によって新しく生まれ変わることです。ペトロさんは、そう教えてくれました。
 1年ちょっと前のイースターに、この教会でYちゃんが洗礼を受けました。それを見て、覚えている子供たちも多いと思います。ここで、みんなの前で、天の上から見ている神さまの前で、“わたしは神さまを信じます。イエスさまを救い主と信じます。教会の一員として生きていきます”と誓った。そして、頭に聖なる水を注がれて、今までの自分、心の中の罪を聖なる水で洗い流していただいて、神さまの子供に生まれ変わった。それが、洗礼というものです。
 洗礼は、だれでも受けられます。ペトロさんが、「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(39節)と言っているように、ここにいる誰でも受けることができるものです。みんなは、“私、神さまから招かれている。洗礼を受けて、神さまの子供、教会の一員になるように招かれている”と心に感じますか? 自分が招かれていると思うなら、大人でも子供でも、だれでも、洗礼を受けることができるのです。自分を変えたい。罪を赦されたい。新しい心にされたい。神さまにそう願う人はだれでも、洗礼を受けることができるのです。

 このペトロの言葉を受け入れて洗礼を受けた人々が、この日一日で、何人いたと思いますか? 何と「三千人」(41節)もいたと聖書に記されています。これが、教会で〈ペンテコステ〉と呼ばれる記念日の出来事です。弟子たちと三千人の人々によって最初の教会が生まれた、“教会の誕生日”です。
三千人の人々は皆、「ペトロ(さん)の言葉を受け入れた人々」(41節)でした。私は、神さまの御言葉の力って、すごいなあと驚きます。お話ししたのはペトロさんだけど、それはペトロさんの口を通して、神さまがお話しになった、ということだと思うのです。神さまの御言葉は、一度に三千人もの人の心を打ち、悔い改めさせ、その人を全く変えてしまうほどの、大きな力があるのです。
 この御言葉の力を、先週の日曜日に坂戸いずみ教会に来てくださったN先生もお話ししてくれました。子供たちは、こどもチャペルでちょっと会っただけだけど、おもしろい先生でね、大人の礼拝で説教をお話しになっている時、何をしたと思う? 袋の中からクッキーを取り出して、おいしそうに食べながら、“クッキーをおいしく味わうように、神さまの御言葉の味を味わいましょう”って、ニコニコお話しされたんだ。
 もちろん、それだけじゃない。ロビーに、大きな手を書いた紙が貼ってあって、指と手のひらに何か書かれていたでしょう? あれを使って、N先生が、聖書の御言葉を聞きましょう、読みましょう、学びましょう、覚えましょう、黙想しましょう、行い(適用し)ましょう、と教えてくださったのです。それが、御言葉の味を味わうということです。「受け入れる」ということです。
 そして、それができたら、ぼくたち私たちも変わることができる。神さまの言葉によって、どんな時も希望と元気と愛を持って生きることができる人に変えられる。
 でも、ぼくらは御言葉の味がなかなか分からない。なかなか読まないし、覚えられないし、黙想できないし、行うことができない。だから! 本気で祈るんだよ。“神さま、わたしは御言葉を味わい、受け入れ、行うことができません。弱い私に神さまの聖霊を働かせ、御言葉を味わい、行う力を与えてください”って、祈るんだよ。

 この時、洗礼を受けた人々も、きっとそうだった。いや、お弟子さんたちもきっとそうだった。最後の42節に、「祈ることに熱心であった」とあります。自分の力では、できない。だからこそ、この後もずっと、御言葉と聖霊の力をください、と祈り続けたのだと思います。
 この礼拝の後で、私たちも、大人も子供も一緒に、一つになって、熱心に祈りを合わせようと考えています。本気で祈るなら、きっと私たちの心の中にも、聖霊の風が吹きます。そして、私たちを、御言葉を受け入れ、行う人に変えてくれます。神さまの子供に、愛と元気の人に変えてくれます。





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