2009年6月7日 礼拝説教
  聖  書  コロサイの信徒への手紙1章1〜8節
  説教者  山岡 創

「 真に悟った日から 」

 先週、遠くに住んでいるお二人の教会員からお便りをいただきました。一人は東京・国立のSさん、もう一人は伊豆のYさんです。
 Sさんは、かつて松山女子高校に通っておられ、私の長女が同じ松山女子高校にこの春から入学したこともあって、長女の安否を気遣うお手紙をくださいました。
 Yさんは、伊豆での生活にすっかり慣れたご様子で、私たちに夏みかんを送ってくださいました。お好きな方は、後で受付から自由に持って帰ってください。ただし、そのままガブッといったらすっぱいそうで、マーマレードなどにするとおいしいということです。
遠くに離れて暮らしている教会員の方や、かつて礼拝を共にした方々からお便りをいただくことは、本当に嬉しいですね。それらの方々のご様子を知り、まさに3節にあるように、神さまに感謝します。そして、それらの方々のために祈ります。離れていても、神さまの恵みの下に結ばれている交わりに感謝です。

 さて、本日の礼拝からコロサイの信徒への手紙を通してみ言葉の恵みをいただきたいと思います。
 コロサイは、今日で言うトルコの内陸部にあった町で、エーゲ海に臨む重要な港町エフェソに通じる街道沿いにありました。ただ、近隣では、ヒエラポリスや、この手紙の2章1節に記されているラオディキアの方がよく知られた、大きな町だったようで、コロサイはどちらかと言えば、地味な町だったようです。地理を確認したい方は、聖書巻末にある地図の9番〈パウロのローマへの旅〉をご覧ください。
 このコロサイの町にも、主イエス・キリストの「福音」が伝えられました。この福音を信じて受け入れ、洗礼を受ける人々が起こりました。そして、洗礼を受けた信徒たちが共に集まって礼拝と祈りを共にする交わりが生まれました。それが、コロサイの教会です。
 コロサイの人々に福音を最初に伝えたのはパウロ自身ではなく、7節にあるように「エパフラス」という人でした。彼は、「わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラス」(7節)と紹介されています。
 パウロのことはご存知の方も少なくないと思います。パウロはかつて、バリバリのユダヤ教徒であり、主イエスの教えに反対し、教会とクリスチャンを迫害していました。そのパウロが劇的な回心を体験し、クリスチャンとなります。更に、福音伝道の先頭に立って、アンティオキア教会から海外へ、数回に渡る伝道旅行をし、だれよりもキリストの福音を宣べ伝える人になるのです。そのようなパウロの回心と伝道活動については、使徒言行録の後半に記されていますので、どうぞ別の機会に読んでみてください。
エパフラスは、このパウロの伝道によって主イエス・キリストを信じるようになった異邦人クリスチャンと考えられます。その後、パウロと共に伝道し、パウロによってコロサイへの伝道に遣わされたのでしょう。
 エパフラスの伝道によってコロサイに教会が生まれました。そして、コロサイの信徒たちの信仰生活の様子は、8節にあるようにエパフラスの便りによってパウロの知るところとなりました。そこで、パウロも主に感謝して返信を書き送りました。それが、このコロサイの信徒への手紙です。
「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです」(3節)
 パウロは、実に多くの教会に手紙を書きました。新約聖書の中にも、パウロの手紙が数多くあります。省みて、私は自分のことを本当に筆不精だなあと感じます。なかなか返信が書けない。今も、ある方から手紙をいただいて、書かなきゃ、書かなきゃ、と思いながら、もう2ヶ月近く書けずにいる返信があります。SさんやYさんに対しても、たぶんサクッとは書けないので、まず電話でお礼を申し上げようと考えています。もし神さまが何でも願いを一つ叶えてくれるとしたら、私は1番には、食べても食べても太らない体がほしいと思っているのですが、神さまがもう一つ多く願いを叶えてくれるなら、手紙をいただいたらすぐに返信を書くことができる力というのも、いいですね。

 エパフラスの手紙によってコロサイの信徒たちの「信仰」と「愛」を知ったパウロは、感謝と祈りの返信を書きました。信仰と愛、それは「福音という真理の言葉」によって示された「希望」に基づくものだとパウロは言います。
「それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」(5節)
 コロサイの信徒のために、そして私たちのためにも、天に希望が蓄えられている。神さまが私たちのために蓄えてくださっている希望を信じるからこそ、信仰が生まれ、愛が生まれるのです。
 子を持つ親の立場になると経験することですが、親は子供の将来のために、少しでもお金を蓄えておいてやろうと考えます。汗水垂らして働いて、子供を育てながら、同時に子供の将来のために少しでも節約して蓄えておこうと、涙ぐましい努力をします。けれども、子供は親が自分のために蓄えてくれていることを知らない。まして、それがどれぐらい蓄えられているかなど、知りません。子は後になってそれを知り、感謝する。
 もちろん、それは子供に“蓄えてるんだよ、蓄えてるんだよ”と言いながら蓄えるものではありませんけれど、親が子供の将来のために蓄えてくれるように、天の父でいらっしゃる神さまも、神の子である私たちの将来のために、天に「希望」を蓄えてくださっているのです。恵みを蓄えてくださっているのです。そして、私たちはそのことを、「福音という真理の言葉」すなわち御言葉を通して知った方が良い。なぜなら、それを知ることで信仰と愛が生まれるからです。私たちの人生が「希望」によって生き生きとするからです。
 神さまが私たちのために、天に蓄えてくださっている「希望」はきっと、私たちが考えているよりも遙かに絶大です。
 先週4〜5日に関東教区総会が開催されました。その総会の開会礼拝の説教者は、先日、私たちの教会の創立記念礼拝と研修会にお迎えしたN先生でした。N先生、またおもしろい、味わい深い話をしてくださいまして、それは“伝道戦略あいうえお”という話でした。全部お話しする時間がありませんけれども、その中の1つ、“伝道戦略「え」”は“Lサイズの教会”ということです。要は、自分で自分の恵み、賜物のサイズを決めずに、神さまがくださる恵みのサイズで生きよう、ということなのですが、ある人が天国に行った時、“これがあなたのために神さまが与えようと計画していた恵みを蓄えていた蔵です”と示されました。その人は、自分のために神さまがどれほど蓄えてくださっていたのか、見たくてたまらなくなった。管理人の天使から“いいんですか?後悔するかも知れませんよ”と注意されましたが、どうしても見たいと言って見せてもらった。どうなったと思いますか? その蔵の中を見て、彼は愕然とし、がっかりした。蓄えが少なかったからではありません。そこにはド偉い量の恵みと賜物が蓄えられていたのに、自分が地上でいただいた恵みは、はるかに少なかったからです。なぜ、そんなちょっとしかいただけなかったのか? 神さまが自分にくださる恵みは、希望はこれぐらい、と自分で決めつけてしまっていたからだと言うのです。
 だから、自分サイズではなく、神さまサイズ、Lサイズの信仰で生きようということなのですが、そのように、神さまが私たちのために天に蓄えてくださっている恵みは、希望はきっと、私たちの思いを越えて、はるかに大きいのです。私たちは、私たちのために天に蓄えられた希望の絶大さを、自分の小さな考えで測るのではなく、「福音という真理の言葉」を聞いて、「神の恵みを聞いて、真に悟る」ことによって、驚きと喜びをもって知る必要があります。

「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」(6節)
 神の恵みを聞いて真に悟るとは、どのようになることでしょうか。先日の創立記念礼拝で、N先生が御言葉を味わうことを教えて下さいました。御言葉を聞く、読む、学ぶ、覚える、黙想する、そして適用する。み言葉を自分に適用する。自分の生活の中で御言葉を行う。そのようにして生きることに、感謝と喜び、慰めと励ましを感じることができるようになったら、私たちは、真に悟った、と言えるのかも知れません。否、御言葉によって神の恵みを悟るということは、その時1回限りのことではなくて、「実を結んで成長しています」とあるように、進行形なのです。何度も悟り、味わうことで、私たちの信仰と愛は成長し続けるのです。私たちの人生は変えられ続けるのです。
 私はふと、主イエスとの出会い、その御言葉によって変えられたザアカイの物語を思い起こします。ユダヤ人を支配するローマ帝国のために税金を集め続け、自分もしこたま儲けていたザアカイ。そのために、人々から嫌われ、罪人と蔑(さげす)まれ続けたザアカイ。そんなザアカイの住むエリコの町に主イエスがやって来た。好奇心で、木の上から主イエスを見下ろすザアカイに、なんと主イエスは、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19章5節)と声をかけられた。この御言葉に、ザアカイは“神の愛”を感じたのです。自分が赦され、受け入れられている神との和解を悟ったのです。
 後で食事の席で、ザアカイは言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19章8節)。私は、そこを読むたびに思うのです。“ザアカイ、お前、そんなことをしたら、財産なくなっちゃうだろう?”と。けれども、それでも惜しくないと思えるほどに、ザアカイの心は、御言葉によって喜びと感謝、慰めと励ましに満たされているのです。御言葉が生活の中で行いとなって実を結ぶ、愛の実を結んで成長しているのです。
 「福音という真理の言葉」を悟って成長するコロサイの信徒たちもきっと、ザアカイと同じようだったのではないかと思います。今日の聖書の御言葉の最後、8節に「“霊”に基づくあなたがたの愛」(8節)とありました。これは、つまり“聖霊”による愛の行いということです。
 聖霊による愛とは、どんなものでしょう? 一つには、ザアカイのように損を損とは思わず、聖霊が心に働いて、喜びを感じることができる愛だと思います。そして、もう一つの意味は、聖霊の力によって人を愛することができる愛だと思います。自分のように隣人を愛する、ということを、私たちはできないのです。その力がないのです。しかし、諦めてしまうんではなく、祈る。“聖霊が私の内に働いて、愛せるようにしてください”と信じて、本気で祈る。そこに聖霊が働いて、小さな愛からでもできるようになっていくのです。
 私たちも、御言葉から神の恵みを悟って、祈って生活するなら、きっと聖霊ができるように力をくださいます。神さまが成長させてくださいます。信じましょう。





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