2009年6月14日 礼拝説教
  聖  書  コロサイの信徒への手紙1章9〜21節
  説教者  山岡 創

「 キリストという光の中に 」

 コロサイの信徒たちの信仰生活の様子、その信仰と愛を知らされたパウロは、彼らのために、「絶えずあなたがたのために祈り、願っています」(9節)と手紙で書き送りました。
パウロはコロサイから離れたところ、違う場所で伝道活動をしていました。コロサイの信徒たちに直接福音を語ったり、教えたり、彼らの話を聞いたり、援助したりすることができない。けれども、彼らのために何もできないわけではない。だからこそ、パウロは彼らのために祈ったのです。手紙を書いたのです。手紙の中に、「絶えずあなたがたのために祈り、願っています」と書いて送ったのです。主の聖霊が、神の力が、コロサイの信徒たちに及ぶことを祈り願ったのです。
 だれかのために祈る祈りを“とりなしの祈り”と言います。私も、一人の伝道者として、牧師として、皆さんのために祈っています。坂戸いずみ教会の信徒たちのために祈っています。私はパウロとは違って、ここにいないわけではない、皆さんと一緒にいます。でも、皆さんのために祈ります。離れているからではなく、一緒にいても祈ります。
 それは、一緒にいても四六時中、一緒にいられるわけではない。限られた短い時間しか会うことができない。語れることも、教えられることも、話を聞くことも、援助できることも限られているからです。私が皆さんのためにできることは多くはない、少ないのです。もっとできればと思いますが、体は一つ、時間は24時間という枠の中で、やはり限りがあります。だからこそ、神さまに祈ります。皆さんと四六時中、共にいてくださる神さまが働いてくださるように。神さまが一人一人に語り、教え、話を聞き、援助してくださるようにと祈るのです。
 祈るという行為を、現実的には無駄な、無意味な行為と感じこともあるかも知れません。けれども、その時、私たちは信じる者の心、キリスト者の心を失っています。
 私たちが祈るのは、自分の“ちっぽけさ”を知っているからです。自分の力の小ささ、自分の弱さ、我がままさを知っているからです。しかし、自分のちっぽけさの中で、神さまの力と愛の絶大さを御言葉によって知らされたのがキリスト者です。この絶大な神の力と愛を、聖霊の働きを信じて委ねることに目覚めたのがキリスト者です。だからこそ、自分のちっぽけさにうずくまって、あきらめて、あるいは開き直って終わり‥‥ではない。自分はだめでも、自分にはできなくても、自分には限りがあっても、神さまの絶大な愛と力を、聖霊を信じて、心から“どうぞよろしくお願いします”と自分を神さまにゆだねるのです。自分だけではなく、人のことも神さまにゆだねるのです。
 英語で“さようなら”のことを“Good−by”と言いますね。この別れの言葉、元々は“God−by”だったと言われています。“神があなたのそばに(いますように)”という祈りです。外国語には他にも、これと同じように“神さまがあなたと共にいますように”という意味の言葉が別れの挨拶になっているものがあります。今、目の前にいる親しい人と別れる。自分の言葉も、自分の助けもその人に及ばなくなる。だからこそ、その人を神さまにゆだねたのです。ゆだねる祈りの心で別れたのです。
 そういう心を、そういう祈りの行為を、私は、無駄で無意味な行為だとは思いません。それに、だれかのために祈るということは、その人のことを心に留める、ということです。それは、無関心ではいない、その人に関心を持つということです。人に関心を持つということは“愛”の始まりではないでしょうか。その愛の心は、決して無駄ではないのです。
 そして、このゆだねる祈り、愛の祈りは、きっと神さまに届きます。神さまの御心に適っているからです。そして、神さまの聖霊が働いて、何かが動き出す。何かが、と言うよりも、自分が動き出すことがあるのです。祈ることによって考えさせられ、神さまの御心が示されます。できなかったことが、不思議とできるようにされることもあります。祈りは、そんな愛の行い、「善い業」(10節)の起爆剤になるのです。祈るだけで決して無駄ではない。大いなる愛の業です。そして、祈りは更に、小さくても愛の行為になる可能性を秘めているのです。祈りを通して、私たちの心に聖霊が働くからです。
 もちろん、祈りはパウロや牧師の専売特許ではありません。ぜひ皆さんも祈ってください。だれかのために、とりなしの祈りをしてください。絶えず祈り、毎日祈る生活をしてほしい。祈りは信仰の心であり、愛の心の現れです。それは、人を神さまによる救いへと導きます。私たち自身も成長させるのです。

 パウロはコロサイの信徒たちのために祈りました。
「どうか“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように」(9〜10節)。
 私はふと、自分がだれかのために、皆さんのために祈る時、どんなことを祈っているかを考えさせられました。大体、こんなふうに祈っていますね。その人の今日一日の生活が支えられるように。その人の健康が守られるように。病を患っていたら、その病が回復し、癒されるように。抱えている問題や悩みがあったら、解決の方向に向かうように、悩みの中で心が支えられるように。一人一人の生活や抱えている問題、悩み、病を思い浮かべながら、具体的に祈ります。そのように祈ることはもちろん、間違ってはいない。そのように祈って良いと思うのです。
けれども、パウロのとりなしの祈りと比べてみると、ずいぶん違うなあ、と思うのですね。一体何が、どう違うのでしょうか。
パウロはおそらく、コロサイの信徒たちに直接会ったことはありません。だから、一人一人の生活ぶりや、その人が抱えている問題や悩みを知らなかったでしょう。だから、一人一人の生活を思い浮かべて、具体的に祈ることはできなかったでしょう。
 けれども、仮にパウロがコロサイの信徒一人一人のことを知っていたとしても、そのように祈っただろうか、と思うのです。いや、一人一人のことを思い浮かべ、その人の生活の支えや問題の解決、病の癒しのために、具体的に祈ったかも知れません。けれども、一人一人のためにパウロが究極的に祈り願うことは、聖霊によって神の御心を悟ること、主に従って歩み、善い業を行うこと、神をますます深く知ること、そして耐え忍び、感謝することだったのではないかと思うのです。つまり、一人一人が神さまと深く結びついて、しっかりと信仰によって生きるということです。
 私はふと、主イエスが弟子たちに祈りを教えられた時の言葉を思い起こしました。あの時、主イエスは弟子たちに、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(マタイ6章8節)と言われ、だから自分の願いをくどくど祈るのではなく、〈主の祈り〉と呼ばれる、神の御心を求める簡潔な祈りを教えてくださいました。また、別の個所でも、何を食べようか、飲もうか、着ようかと生活のことで思い煩うな。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ6章32節)、だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(33節)と教えられました。
 ここから、私たちが祈り願うべき第一のことも見えて来ます。とりなしの祈りをする時、その人の生活や問題や病を思い浮かべ、そのために具体的に祈って良いと思います。悪くはない。その方が心が通います。
 けれども、そのような具体的な一人一人の必要を、もう既に神さまは十分ご存知なのだということを見落としてはならないでしょう。そして、神さまが、こう祈りなさいと
私たちに教え、求めていることを忘れてはならないでしょう。
 だから、だれかのために具体的に祈った後で、パウロが祈っているように、こう祈ることを忘れずに、最も大切なとりなしとして加えたいと思うのです。その人の内に聖霊が働くように、御言葉によって神の御心を十分に、ますます深く悟ることができるように、信仰によって御心に従って生活できるように。この祈りを、その人のために、一番大切な、必要な祈りとしてささげたいと思うのです。
 祈りの中で私たちが具体的に願うことは、ある意味で、私たち自身の一方的な願いです。その願いは、そのようになることもあれば、ならないことも数多くあります。願いが叶ったから、“ありがとう。感謝します。信じます”、でも願いが叶わなかったら、“神さま、だめです。信じられません”では、気持はよく分かりますが、それでは私たちはいつも目の前の現実に右往左往させられるだけの主体性のない生き方になるでしょう。どんな時にも、聖霊が働いて、神の御心を悟らせ、プラス思考で耐え忍び、喜び、感謝できるように。それが、私たちに最も必要なことであり、だれかのためにも一番に祈るべきことではないでしょうか。この祈りを、私たちは自分の祈りの根本にしっかりと持っていたいと思うのです。

 どんな時にも、聖霊が働いて、神の御心を悟らせ、プラス思考で耐え忍び、喜び、感謝できる。それがつまり、「愛する御子の支配下」(13節)に移されている、ということです。神の独り子イエス・キリストという「光の中」(12節)に入れられているということです。
「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」(13節)。
 「闇の力」を感じることが、しばしばあると思います。「闇の力」というのは、現実の悩みや問題、病等の苦しみを通して、私たちを落ち込ませ、マイナス思考にし、ついには絶望へと陥らせるように働く力です。私たちの心を支配します。信じさせまいとします。祈らせまいとします。
 そのような闇の支配から私たちを救い出して、励まし、プラス思考にし、耐え忍ぶ力を与え、感謝させ、希望に生きるようにさせてくださるものは、キリストの支配下に、光の中に歩ませてくださるものは、神の御言葉と聖霊の働きなのです。
 9節に、「“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分に悟り」とありました。神の御言葉を、心を開いて真剣に聞く時、私たちの内に聖霊が働きます。御言葉を通して、聖霊の働きによって御心が示された時、人間的な思いに勝って、御心に従おうとの信仰が与えられます。自分の生活の中で、御心に従い、行なう生き方へと導かれます(10節)。そうすることで、「ますます深く」神の御心を知ることができるようになっていく。ここでは、“悟る”という言葉と“知る”という言葉には同じ原語(ギリシア語)が使われています。御心を悟り、それに従い行うことで、私たちは更に深く御心を悟るのです。
 どんなことでもそうだと思いますが、例えば、水泳をマスターしようと思ったら、泳ぎ方が説明された本を読んだり、スイミングのコーチの指導を受けたりします。けれども、それだけでは身につかない。水の中を、自分で泳いでみて初めて、“あー、この説明は、あの指導はこういうことだったのか”と分かって来ることがあります。それによって、段々と泳ぐことが身についていきます。
 信仰も同じです。御言葉によって示された神の御心を実生活の中で行うことで初めて、分かって来ること、深まって行くものがあります。そのようにして私たちは、キリストの支配の下で、光の中で、確かに生きることができるようにされていくのです。





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