2009年6月21日 礼拝説教
  聖  書  コロサイの信徒への手紙1章21〜23節
  説教者  山岡 創

「 揺るぐことなく 」

 「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(21節)
 パウロはコロサイの信徒たちに、このように語りかけました。あなたがたは、以前は神から離れていた。神に敵対していた、と。
そのように語りかけられると、私たちもかつての自分のことを思い出して感じるのではないでしょうか。“そうだった。以前の自分は神さまから離れていたなあ。神さまに敵対していたなあ”と。
けれども、それは今だからこそ感じられる。「今や」神さまと「和解」させていただいているからこそ、そのように思える。しかし、その時その当座というのは、自分が神さまから離れ、神さまに敵対し、「闇」の中を歩んでいるということに、なかなか気づかないのではないでしょうか。赦されて、認められて、愛されて、初めて、かつての自分を振り返ることができるようになります。愛と希望に満ちた「今」があるからです。

 この21節の御言葉から、私は、ルカによる福音書15章で主イエスがなさった〈放蕩息子のたとえ〉を思い起こします。
 ある父親の息子が、本当に性(しょう)もない奴ですよ、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」(15章12節)と財産の生前贈与をさせて、これ、お父さんの気持を考えたら到底言えないですよ。つまり、既に父親から離れ、敵対している自分に気づいていないんですね。この息子が父親の財産を生前贈与させて、それを全部お金に変えて、遠い国に旅立つ。父親から離れて行くわけです。そして、離れたところでやりたい放題、放蕩の限りを尽くすんですね。
 ところが、財産をすべて使い果たしてしまって、そういう時に“泣きっ面に蜂”というか、人生、不幸に不幸が重なって、その国に飢饉が起こるんですね。彼はその日の食べ物にも困る生活に転落した。そうしたら、羽振りの良い時は周りにたくさん友達がいたでしょうに、そういう金の縁でできたような友達というのは、いざという時は助けてはくれないんですね。そこで彼は地方に行って、ある人に身を寄せます。すると、その人は彼に豚の世話をさせました。豚って、ユダヤ人が律法の掟で、汚れたものとして忌み嫌う動物です。それでも、彼は嫌とは言えない。そんな汚れた豚の世話をして、何とかその日のパンを得ようとしながら、彼は豚のえさを食べたいと思うほど、ひもじかったのです。
 そんな惨めな生活の中で、彼は我に返ります。父親のところへ帰ろう。そして、頭を下げてこう言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。
 そのように、悔い改めて帰って来る息子を父親が見つけます。その時の息子と父親の距離感を、聖書はこう語ります。「まだ遠く離れていたのに‥」(20節)。
 今日のコロサイ1章21節の「神から離れ」という言葉から、この「遠く離れていた」を連想して、私は〈放蕩息子のたとえ〉を思い起したのですが、息子が我に返り、悔い改めて帰って来ても、それでも息子と父親の距離は、「まだ遠く離れていた」のです。その意味では、息子が生前贈与をさせて、放蕩の限りを尽くしていた時は、どれだけ遠く離れていたんだ、ということなのですが、彼と父親との関係は、彼が短絡的に考えているほど、彼が自分の罪を認めて謝り、これからは雇い人で良いと言えば済むほど簡単ではないと聖書は見ているのです。本来ならば赦されない、埋めることのできない遠く離れた距離だと聖書は見えているのです。それは、私たち人間と神さまとの間の距離なのです。
 今、聖書日課に沿った『信徒の友』の〈日毎の糧〉のコーナーを使いながら、聖書を黙想し、祈っていますが、最近、聖書の箇所がエゼキエル書になりました。読んでいて、私は正直、希望とか愛とか言うよりも、暗い、重い気持になって来ます。そこには、イスラエルの人々がどれほど神さまに従わず、背いて歩んでいるかということ、そしてそのようなイスラエルの人々に対して、神さまがどれほど厳しい裁きをなさり、罰をお与えになるか、ということが描かれています。読んでいるのが辛くなります。けれども、それが神さまと私たちの関係、遠く離れた、埋められない距離なのだと聖書から示されます。
 遠く離れた距離、それは私たちの反省とか、悔い改めとか、償いとか、努力とか、そうしたことでは決して埋められない距離だと聖書は見えています。それこそ“奇跡”が起きない限り、埋まらない距離です。
 ところが、その“奇跡”が起こる。神さまが起こしてくださったのです。そのことを、〈放蕩息子のたとえ〉は、こう記しています。
「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15章20節)。
 まだ遠く離れていた距離を、父親自身が、神さまご自身が埋めてくださったのです。その要因は、人の悔い改めとか償いとかではなく、父親の憐れみ、神さまの憐れみ、つまり“愛”の心によるものです。本来ならば、“貴様、どの面下げて帰って来たか! もう我が家の敷居はまたがせないぞ!”と怒鳴られ、突き放され、厳しく裁かれても不思議ではないところです。けれども、父親はそんな怒りなど、どこかに置き忘れたかのように、息子を憐れに思い、抱きしめて、接吻するのです。私は、この1句を読んで、神さまの愛を感じるたびに、その有り難さに涙がこぼれそうになります。

 この神さまの憐れみ、愛の心は、今日の聖書の22節の御言葉に表わされています。
「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」
 「神の御子」は主イエス・キリスト、そのキリストの「肉の体において」和解が成立した、とはどういうことでしょうか。
 先週の礼拝の御言葉として取り上げながら、お話しすることのできなかった1章15〜20節に、“肉の体ではないキリスト”が語られています。その内容を一言で言うならば、16節に「万物は御子において造られた」とあるように、御子キリストは、父である神さまによって天地が造られる際の、天地創造の原理であり、この世界を支える真理だということです。何だか話がでかすぎて、私など、ついていけないように感じるところもあるのですが、御子キリストがこのように言われるのは、当時のギリシア哲学の影響であるとか、旧約聖書の箴言8章辺りが背景にある等と言われます。キリスト教信仰が段々と世界に広がり、進化成長していく過程で、よりキリストを神格化した、宇宙規模にした教説が加えられて来たのでしょう。
 そのような天地創造の原理、世界を支える真理である御子キリストが、肉の体となった、人間の姿になったのがイエス様だということです。その人となったキリスト・イエスが、私たちと神さまとの和解のために何をしてくださったか。それが、直前の20節に記されています。
「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」。
 「十字架の血によって」、御子イエス・キリストは、ユダヤ人指導者たちの頑なな罪によって、群衆の身勝手によって、そして弟子たちの裏切りによって、十字架刑に処せられ、死なれました。それは、彼らすべての罪を御子イエス・キリストがその身に負って、彼らの代わりにその命を償いとして、父なる神さまに罪の赦しをお願いした、彼ら人間との和解をお願いした救いの業であったと聖書は証しします。それは、彼ら人間に対する憐れみ、愛の心以外の何ものでもありません。そして、今日のキリスト者である私たちも、イエス・キリストが十字架の上で償いとされた命と流された血によって、父なる神さまと和解させていただいたと信じるのです。
 別の言い方をすれば、父なる神さまが放蕩息子である人間を憐れんで和解してくださる、その大きな憐(あわれ)み、深い愛の心を、御子イエス・キリストが、御自分が犠牲となって十字架にお架かりになるという姿で見せてくださったということです。1章15節に、「御子は見えない神の姿であり」とありますが、見えない神さまの、見えない憐みを、人間となったキリスト・イエスが、見えるものとして、十字架というもので見せてくださったのです。だからこそ、キリスト・イエスは、「見えない神の姿」、すなわち見えない神を見せてくださった方と言われるのです。

 キリストの十字架によって、神の憐れみによって、神さまと和解した。皆さんは、だれかに抱きしめられた経験はありますか? あるいは、だれかを抱きしめたことはありますか? 神さまと和解したということは、帰って来た放蕩息子が父親に抱きしめられたように、神さまに無条件に抱きしめられている、というイメージです。だれかから無条件に抱きしめられた時、心が溶けて安らぐ、あの感覚です。
 そして、無条件に抱きしめるということは、もはやその罪を問わないということです。放蕩息子は雇い人にしてもらおうと帰って来たのに、父親は、最上の着物を着せ、指輪をつけ、履物をはかせて、宴会を開き、彼を再び息子として遇してくださいました。走り寄って、抱きしめて、接吻して、だけど、自分の罪を償うために雇い人として働きなさい、と言うのではありません。無条件で息子と認めてくれた。神の子に復帰させてくれた。それが、今日の聖書の御言葉、「御自身の前に聖なる者、きず のない者、とがめるところのない者としてくださいました」という言葉の意味でしょう。
 昨年の『こころの友』7月号で、上原令子さんという方の証しが掲載されていたのを思い出します。沖縄出身で、米軍兵士と日本人の母の間に生まれ、生まれてすぐに育ての親に引き取られた。5歳の時、自分が本当の子供でないことを知る。その時から、親の愛を疑い、小さな胸に深い闇が広がっていった。“自分は望まれて生まれたのではない、無価値な存在だ”。以来、親に反抗し、素行不良に振舞い、やがては絶望のどん底に落ちて行った。しかし、その時、アメリカン・スクール時代、自分を心配してくれたシスターを思い出し、その人の教会に行って、礼拝で賛美を歌った時、涙が止まらなかったと言います。そして、そのシスターと祈った時、無条件に神さまから愛されているという喜びが湧き上がってきたと証ししておられました。以来、上原さんはコンサート活動を通して、信仰の喜びを伝えているとのことです。

 パウロは言います。あなたがたは、神さまと和解させていただいた。神さまに無条件で抱きしめられたのだ。そして今も抱きしめられている、と。だからこそ、
「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。
 神の憐れみ、キリストの愛は揺らぐことはありません。けれども、私たち自身が、現実という名の嵐に翻弄され、人生が揺さぶられることが少なからずあります。揺るがない神の憐れみ、キリストの愛を土台として、私たちの人生を信仰によって築き上げていきたい。そのために、私たちは繰り返し、たゆまず、毎日、この希望の福音を御言葉から聞き続け、“揺るぎない信仰をお与えください”と祈り続ける生活を送ることが大切だと思います。





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