2009年7月5日 礼拝説教
  聖  書  コロサイの信徒への手紙1章24〜29節
  説教者  山岡 創

「 キリストのための労苦 」

中学・高校は、1学期の期末試験のシーズンに入っています。子供の勉強の様子を見ながら、ふと自分が中学・高校生だった頃を思い出します。あの頃は、部活動、サッカーに燃えていました。でも、試験1週間前になると勉強のために部活が休みになります。普段は全く、時間的にも体力的にも勉強する余裕はありません。そこで、この1週間で何とかカバーしようと、私はいつも“1週間計画”を立てました。何曜日の何時から、何の教科を勉強するか、1週間分の時間割を自分で立てたのです。そうすると、穴が空かなくなる。
 もしかしたら、神さまも“救いの時間割”を立てておられるのかも知れません。

 神さまは場当たり的に行動される方ではありません。非常に計画的だと言って良いでしょう。目標を達成するために計画を立てておられる。神さまの目標とは、私たち人間を救うことです。否、もっと大きく言えば、この世界を救うことです。そのために計画を立てておられるのです。
 聖書を読んでいると、しばしば「計画」という言葉にお目にかかります。今日の御言葉にも出て来ました。一体、何回「計画」という言葉が出て来るか、数えてみようかと思うほどです。
 そのように、聖書を読んでいると、しばしばお目にかかる神さまのご計画、それが一体どんな計画なのか、皆さん、聖書的に理解しておられるでしょうか? 改めて、そのように問われると、案外、はて?と考え込んでしまうのではないでしょうか。
 今日の聖書の御言葉で言うならば、この計画とは“栄光の希望計画”とでも呼ぶことのできるものです。27節に、「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」とあるからです。
 神さまは私たちに「栄光」を与えようとされているのです。もう少し言えば、栄光が与えられると「希望」を持って、私たちがそれぞれの人生を生きられるようにしようとしていると言ってもよいでしょう。
 この手紙を書いたパウロは、ローマの信徒への手紙3章23節で、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と語っています。私たちは、罪のために神の栄光を受けられなくなってしまった。そのような、神さまと私たちの断絶関係を象徴するものが、旧約聖書の創世記3章にある〈エデンの園〉の物語です。
 創世記の初めには、神さまが天地をお造りになった様子が描かれています。そして、すべてを造り終えた時、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1章31節)と記されています。神さまがお造りになったこの世界は、すべてが「極めて良かった」のです。それは、言葉を変えて言えば、「神の栄光」に満ち溢れていた、ということではないでしょうか。神さまがお造りになった世界は本来、「栄光」に満ち溢れていたのです。その時、最初に造られた人間であるアダムとエバは、エデンの園に置かれていました。
 ところが、この極めて良い世界、神の栄光に満ちたエデンの園を打ち壊す出来事が起こります。蛇がアダムとエバをだまし、二人は、神さまから食べることを禁じられていた果実を食べてしまうのです。そして、神さまとの約束を破ったために、二人は神さまと向かい合って生きることができなくなってしまうのです。そこで神さまは二人をエデンの園から追放します。否、神さまと向かい合えなくなってしまったということ自体が、エデンの園からの転落、極めて良かった栄光からの転落状態を表しているのでしょう。
 これらの創世記の物語は、皆さんもそうお考えになっているかと思いますが、文字どおりに理解する必要はありません。これらは、私たちに、ある一つの世界観、人間観を啓示する象徴物語なのです。
つまり、この世界は偶然に生まれたのではない。この世界をお造りになった方がいる。その意志がある。しかし、私たち人間は、その方と向かい合うことのできない、この世界の根底にある大きな意志に反する人間になってしまった。私たちは、そのような存在として生きている。と、創世記は私たちに示したいのです。先ほどのローマの信徒への手紙の言葉で言えば、「罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」状態です。私たち人間は、文明を発展させ、進化しながら生きていると思っていますが、その驕(おご)りと自己中心のために、社会において、また人間関係において、様々なところで破綻しながら生きているのかも知れません。
 そのような転落状態から栄光を回復させようと、神さまは「計画」をお立てになったのです。まず、人類の中から、神さまと向かい合う関係を回復したモデルとなる人間を一人、選び出しました。それが、アブラハムです。
 やがて、このアブラハムから生まれた子孫たち、個人から一つの民族を、神さまとの関係を回復した民族として立てようとなさいました。それが、神の民と呼ばれたイスラエルです。
 神さまは、このイスラエル民族に、御自分との約束を与え、掟を与え、その約束と掟に歩ませようとなさいました。けれども、長い歴史の中で、イスラエル民族は約束と掟をしばしば破り、神さまと向かい合う関係を回復した栄光あるモデルになることができませんでした。それだけでなく、彼らは、自分たちイスラエルだけが、神さまに選ばれた特別な人間だと誇り、他民族を差別するようになっていったのです。
 そのようなイスラエル社会に遣わされたのが、神の子イエス・キリストでした。キリストは、社会の中で罪ある者とみなされた人々に近づき、約束と掟を守ることのできない哀れな罪人を、神は御自分の憐れみの故に救われる方だと宣(の)べ伝えました。そして、そのご生涯の最後に、御自分に害をなす人々の罪をそのまま引き受けて、罪の犠牲となって十字架に架かり、神さまが人間の罪を裁くのではなく、赦してくださることによって、もう一度私たちと向かい合ってくださる方なのだということを示されたのです。
 先ほどからローマの信徒への手紙の御言葉を引用していますが、この御言葉には続きがあります。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(3章23節)。
 キリストの犠牲のお陰で、キリストの命の故に、私たちは無償で、神さまと向かい合う関係を回復できる。あのエデンの園での栄光を回復できる。それが、神さまの“栄光の希望計画”です。「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と言われるものです。
 そして、27節で「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるか‥」と言われるのは、キリストを信じて、「栄光の希望」を胸に宿した人々、すなわち“弟子”たちがイスラエル民族だけではなく、異邦人にもこの信仰を伝えたために、異邦人の中にもキリストを信じて、「キリストの体である教会」(24節)に結びつく人々が現れたからです。別の言い方をすれば、神さまの“栄光の希望計画”はイスラエル民族のためだけではなく、異邦人のためでもある、すべての人間を救う計画だったのです。
だから、神さまと向かい合って生きる関係を回復したモデルは、イスラエル民族ではなく、キリストを信じる人々の群れ、教会が、新しいモデルとされたのです。
 私たち教会は、神さまと向かい合って生きる関係を回復した救いのモデルである、という信仰の意識を失ってはなりません。栄光を与えられるその時まで、胸に希望を抱いて今を生きていく。そして、キリストを宣べ伝え、“栄光の希望計画”に人々を招きいれ、「キリストの体である教会」に結びつけていくのです。その務めを、私たち一人一人もまた託されているのです。
 重要なことは、この神さまの“栄光の希望計画”を、私たちが自分の人生の中に確かに見ることができるか、ということです。聖書の御言葉が私たちの胸に届かず、神さまのご計画の中に“私の人生”もある、と信じることができなければ、ここで言われていることには何の意味もありません。神さまが、この私の人生をも救いに導いてくださる。悩み苦しみ、迷いだらけの私の人生も、栄光へと招き入れようと計画してくださっている。御言葉により、そう信じて生きるならば、私たちの人生は、今までの人間中心の価値観や考え方とは全く違う、新しい希望を、「栄光の希望」を胸に抱いて生きていくことができるようになるのです。

 パウロは、「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)と語っています。そして、「伝えるという務め」を果たし、「キリストの体である教会」を造り上げていくために、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(24節)と述べています。
 「キリストの苦しみ」に「欠けたところ」などあるのでしょうか? キリストが十字架にお架かりになったという救いの業が、私たちが神さまと向かい合って生きる関係を回復するために不完全であった、ということではありません。そうではなくて、十字架の上で死に、しかし復活されて天に昇られたためにキリストが、この地上でできなかったこと、神さまのご計画を語る御言葉を宣べ伝えること、宣べ伝えて救いのモデルである教会を形造ること、それが「キリストの苦しみの欠けたところ」です。
 この「伝えるという務め」を与えられているのは、パウロだけでしょうか? 現代で言えば、牧師だけでしょうか? そうではありません。自分も神さまの救いと栄光のご計画の中に生かされていると信じる信徒の皆さんもまた、この務めに召されているのです。
 5月の創立記念礼拝にお招きしたN先生が、午後の研修会の中で、〈今までの教会〉 と 〈これからの教会〉の在り方を対象にしながら、伝道の主体はだれか、ということについて、今までの教会は、献身者、訓練を受けた牧師任せであったと言われました。しかし、これからの教会は、信徒は皆、主イエスの復活の証人として伝道する。そのための訓練も辞さない。“羊を生むのは(羊飼いではなく)、羊である”とお語りになりました。ここにおいでになる皆さん、キリストによる救いを信じて洗礼をお受けになった皆さんは皆、“私の計画をあなたがたに託したよ”と神さまから「伝えるという務め」を託された者なのです。
 しかし、キリストを伝えるということは、ある意味でまさにパウロが言っているように、「苦しむこと」であり「労苦」(29節)です。家族に、友人に伝えることがどんなに難しいことであるか、地域の方々を教会に迎え入れることがどんなに労力を要することであるか、私たちは肌で知っているでしょう。
 だからこそ、これを自分の力でやろうとしたら、だめです。意気消沈します。続きません。そうではなくて、パウロが言うように、「わたしの内に力強く働く、キリストの力」(29節)によってこの務めをさせていただく以外にありません。御言葉に聞き、祈り、キリストの力を与えられて、伝える務めを果たしていく。もし、一人でも伝えることができたなら、その「労苦」は大きな「喜び」に変わるのです。





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