2009年7月12日 礼拝説教
  聖  書  コロサイの信徒への手紙2章1〜5節
  説教者  山岡 創

「 キリストを悟るために 」

「分かってほしい」とパウロは語りかけます。
「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して戦っているか、分かってほしい」(1節)。
 パウロは何を分かってほしいのでしょう? 自分がコロサイとラオディキアにある教会の信徒たちのために労苦して戦っていることを、彼らに分かってほしいのです。
 コロサイの信徒の手紙は、パウロが牢獄の中から書いた手紙だと言われています。新約聖書の使徒言行録やパウロが書いた他の手紙からも分かるように、パウロはしばしば迫害され、投獄されました。ユダヤ人からは信仰の教えが間違っていると非難されて迫害され、異邦人からは伝統的な慣習や社会の秩序を乱すと言って迫害されました。コリントの信徒への手紙(二)11章23節でパウロはこう語っています。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした」。キリストを宣(の)べ伝えるために、だれよりも労苦し、戦っていることを分かってほしいのです。

 「分かってほしい」。けれども、最初にこの御言葉を読んだ時、“ちょっと浅ましいのではないか?”と思いました。私たちも自分のしていることを分かってほしいと願うことがあります。自分はこんなに労苦している。がんばっている。人のために尽くしている。そのことに気づいてほしい。認めてほしい。分かってほしい。そんな気持になることがあります。それは、がんばっている自分をほめてほしい、評価してほしいからです。だれもほめてくれないのは、ちょっと寂しいのです。
 我が家も昨年から共働きになって、家事を分担するようになりました。洗濯をしたり、掃除をしたり、共働きになったのだから当たり前のことなのですけれども、例えばお米を研いでおいたということだけでも、“ありがとう”と言ってほしい。何も言われないと“気づいているのかな?”と不満を感じたりする。そんな思いが心のどこかにあるのです。
 それが必ずしも悪いことばかりとは思いません。人は褒められて、感謝されて、やる気を起こすものだからです。
 けれども、その気持が余りにも露骨に過ぎると、浅ましい感じがします。右の手のしていることを左の手に知らせるな、隠れたところで行いなさい、そうすれば父なる神さまが見ていて報いてくださると教えられた主イエスの言葉にももとるものです。
 「分かってほしい」。パウロは、自分の労苦をほめてほしくて、こう言っているのでしょうか。人間だから、そういう気持がどこかにあったとしても不思議ではありません。けれども、少なくともそれだけのためにパウロは「分かってほしい」と言っているのではありません。自分のためではないのです。コロサイの教会の信徒たちのためなのです。パウロの労苦が自分たちのためであることに気づくことによって、コロサイの信徒たちが自分たちの信仰や教会の問題に気を配るようになるからです。

 パウロが自分の伝道の労苦を分かってほしいと、敢えて語る目的が二つあります。その一つは、コロサイの信徒たちが「キリストを悟るようになるため」です。そして、も一つは、コロサイの信徒たちが「巧みな議論にだまされないようにするため」です。
「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです」(2節)。
 信仰の目指すところは、キリストを悟るようになることです。その悟りが、私たちの人生の希望となり、導きとなり、支えとなることです。そのためには3つの要素が必要だとパウロは言います。励ましと愛と理解力の3つです。
 キリストを悟るようになるために、私たちには“励まし”が必要です。私たちは、自分独りで信仰の道を歩むことができるでしょうか。信仰生活を送ることができるでしょうか。たぶん無理でしょう。独りで信仰の道を進もうとしても、様々な困難な現実に阻まれて、疑いと迷いの網に捕えられ、ともすれば信仰を失うことになってしまうかも知れません。そういう時に、信仰を同じくする友の励ましがあれば、私たちの信仰は支えられます。支えられながら成長していくことができます。
 旧約聖書・コヘレトの言葉4章9節以下に次のような御言葉があります。
「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」。
 私たちは信仰の友に励まされて、励まし合って、キリストを悟る道を進んでいくことができるのです。
 キリストを悟るために必要な要素の二つめは、「愛」です。とは言え、愛が観念のまま、机上のお説のままであってはなりません。愛とは形あるもの、具体化されてこそ愛の意味があるからです。だから、「愛によって結び合わされ」と言われています。人と人とが結び合わされる交わりこそ、愛の形です。
 私は、最近反省していることがあります。それは、私たちの教会に、この「愛によって結び合わされ」という交わりが欠けていたのではないか、ということです。もちろん、礼拝は神さまとの交わりという点において、教会の中心、信仰生活の中心です。けれども、礼拝だけでは教会員・信徒同士の横の交わりというのはできにくいのです。それが生まれて来るためには、礼拝以外に、様々な小さなグループによる交わりが必要だったのではないか。愚痴のこぼし合いや世間のうわさ話などをする交わりではありません。御言葉によって養われる信仰が、その交わりの土台にある。その土台の上に成り立つ信頼関係によって、お互いの悩みや苦しみを分かち合うことができる。そして、最後には祈り合って終わることができる。それは、先ほどお話しした“励まし”ということともつながっているのですが、そういう愛によって結ばれる具体的な交わりを、大きな交わりだとできにくいので、小さな交わりを幾つも作っていくことが必要だったのではないか、いや、過去形ではなく、これから必要なのではないか。そう考えています。まだ遅くはありません。
 キリストを悟るようになるために必要な3つ目は、「理解力」です。とは言え、学生時代の成績に関係するような、いわゆる“頭が良い”と言うような、知的理解力ではありません。それは、聖書の御言葉から、神さまが自分に何を語り、何をしてくださったかを受け取ることができる感応力です。別の言い方をすれば、自分の命が“生きている”のではなく“生かされてある”という恵みを感じ取る洞察力です。
 それは、磨かなければ身につかない力だと思います。このところ度々引用していますけれども、二宮めぐみ牧師がお話ししてくださったように、御言葉を、牧師の説教を聞くだけでは足りないのです。聞いた説教の95%は3日で忘れると言います。エブリデイ・クリスチャン、毎日、自分で聖書を読む。学ぶ。覚える。黙想する。そして、自分の生活に適用する。そのようなトレーニングを重ねてこそ、「理解力」は磨かれ、身について来ます。何もしないで御言葉の理解力が向上する。そんな、うまい話はありません。疲れている時もあります。心に憂いを抱えている時もあります。忙しく、時間が足りない時もあります。そのために、聖書を読んで黙想し、祈る気力の起こらない時が少なからずあるでしょう。
しかし、だからこそ逆に、御言葉を黙想し、祈ることが必要なのではないでしょうか。御言葉によって元気と勇気を、慰めと希望をいただくことが必要なのではないでしょうか。マルチン・ルターやスタンレー・ジョーンズ、そのようにすることが困難と思われる人ほど、御言葉を黙想し、祈る時間を設けています。そうしなければ心が折れてしまう。そうしなければ、立ち上がって歩いていくことができないことを知っているからです。

 励ましと愛と理解力によって、キリストを悟るようになっていく。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」(3節)と言われています。つまり、キリストを悟るとは、キリストの教えの言葉、キリストの生き方の中に、“私の宝物”と言うことのできる「宝」を発見することです。自分の人生をより良く生きていくことができるようになるために、キリストの中に、一番大切な「知恵と知識」、人生の真理を見つけることです。「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)でもいい。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8章34節)でもいい。「神の求めるいけにえ は打ち砕かれた霊」(詩編51編18節)でもいい。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケの信徒への手紙5章16節)でもいい。どんな真理でもいい。キリストの教えと生き様の中に、“これこそ私の人生で一番大切なもの”と思える「宝」を見つけ出すことです。
 その時、私たちは、この世の「巧みな議論」に惑わされない、この世の楽しみや価値観にとらわれないキリスト者として歩んでいるのではないでしょうか。パウロに喜ばれる、いや、神さまに喜ばれる信徒として、神の子として、自分の人生を歩んでいると言って良いのではないでしょうか。





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