2009年7月19日 初雁教会講壇交換礼拝説教
  聖  書  マタイによる福音書25章14〜30節
  説教者  山岡 創

「 忠実に生きる 」

 今日の聖書箇所で主イエスがなさっている〈タラントン〉のたとえは、「天の国はまた次のようにたとえられる」(14節)という語り出しで始まります。「天の国」の話です。そう考えると、ちょっと私たちの今現在の生活には関係がないような、死んだ後の話か、と思われるかも知れません。
 けれども、このたとえ、決して死んだ後の“天国”の話をしているわけではないのです。では、何が語られているのか。
「ある人が旅行に出かけるとき、僕(しもべ)たちを呼んで、自分の財産を預けた」(14節)。
 ここに描かれている「ある人」というのは神さまと言っても良し、イエス・キリストと言っても良し、また「僕たち」というのは、神さまを信じ、イエス・キリストを救い主と信じているキリスト者のことです。そして、この後、僕たちの働きぶりが、大きく言えば僕たちの人生がたとえ話で語られるわけですから、このたとえは、「天の国」の話どころか、僕たちの人生の話、更に言えば、現代において神さまを、イエス・キリストを信じている私たちの人生の話を語っているのです。
 それならば、なぜ「天の国は‥」と語られているのかと言えば、「天の国」とリンクした人の人生、ただの人生ではなく神を信じた者の人生はこういうことだと語りたいからでしょう。
 そして、神さまを信じて生きるということは、自分の人生を“預けられたもの”として生きることだということが14節の御言葉から分かります。主人が僕たちに自分の財産を預ける。それは、神さまが私たちに人生を預けておられる。命も時間も財産も能力も、すべてのものを預けておられる、ということを意味しています。私たちの人生は、神さまのものを預かって生きている、ということです。先ほども讃美歌で、“我らは主のもの”と歌いましたけれども、私たちの人生は神さまのもの、私たちはそれを預けられている。やがてそれをすべてお返しする時まで、預けられている。それが、聖書的な、信仰的な人生の正しい認識なのです。
 けれども、私たちはこの聖書的、信仰的認識を、たぶん余り持っていない。私たちは、自分の人生はやっぱり自分のものだと思っている。自分で自由に使って良いと思っている。そして、その自分のものの中から、時間でも、お金でも、労力でも、その一部を自分が神さまに献げているのだと考えているのではないでしょうか。
 そういう考えがまるっきり間違っているとは思いません。是非の問題ではない。けれども、私(自分)のものを神さまに献げているのだと考えると、つい“自分はこんなに献げた”と、自分をほめたいような、人と比べたいような気持になったりすることもあるでしょう。
 けれども、そうではないのです。クリスチャンにとって、人生は元々神さまのものなのです。私たちは預けられているだけです。だから、時間でもお金でも労力でも、それを献げる時、“私(自分)が人生の一部を献げている”と考えるよりも、“神さまが、人生の大半を私に預けて任せてくださっている”と考える方が正しいのです。
 例えば、聖書の中に収入の十分の一の献げ物を、私たちに命じる御言葉がありますが、それについてリック・ウォレンという人が、次のように言っています。
私たちが十分の一献金をするとき、それは10%を献げるというよりも、収入の90%を使わせていただくのだということです。すべてものは神のものです。ですから、神が私たちに90%を任せてくださっているのだと考えるのが聖書的な理解です。
(『霊的成長をもたらす4つの習慣』22頁より)   
 私たちの人生は主のもの、しかしその大半を、“あなたに任せよう。自由に使っていいよ”と預けられているのです。そう考えると、時間でもお金でも労力でも、献げたからと言って偉くも何でもなく、元々神さまのものであるものをお返ししただけなのです。そのように考えることで、私たちは自己中心名な思い上がりから解放され、謙遜にされます。
そのように“私”が人生の主人なのではなく、“神”が人生の主人であると、生き方を180度転換させるところに、信仰の味があります。別の言い方をすれば、“生きている”のではなく、“生かされている”ということです。“生かされている”とよく言いますけれど、それはこういう意識、こういう理解で生きることなのだと、私はごく最近、目を開かれました。それまでは私も、“人生は自分のもの”と当然のように思い、“こんなに献げて偉いなあ”と心のどこかで誇っていたのです。分かっていなかったのです。

 預けられた人生を生きる。それは今日のたとえ話においては、3人の僕が主人の財産を、それぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントン預けられて、そのタラントンをどのように生かしたかという内容で語られています。
 ところで、5タラントンと2タラントンを預けられた僕はなぜ、「忠実な良い僕だ」とほめられているのでしょう。そして、1タラントン預けられた僕はどうして、「怠け者の悪い僕だ」と叱られているのでしょう。
 たとえ話の内容を単純に考えれば、預けられた財産を活用して儲けた者がほめられ、財産を運用せず、儲けなかった者が叱られているように思われます。つまり、主人がほめたり、叱ったりする理由は、儲けがあったか無かったか、という結果によるということになります。
 けれども、果たして本当にそうでしょうか。もし5タラントンと2タラントンを預けられた僕たちが商売に失敗して、もうけが全く無かったら、主人は何と言ったでしょうか。「怠け者の悪い僕だ」と言ったでしょうか。そうではないと思うのです。主人はやはり、「忠実な良い僕だ。よくやった」とほめただろうと私は思うのです。
 また、もし1タラントンを預けられた僕が、その財産を何らかの形で生かそうと努めたのであれば、たとえ儲けが無かったとしても、いや、預けられた元手の1タラントンまで失ってしまったとしても、主人はやはり、「忠実な良い僕だ。よくやった」とほめてくださったに違いないと思うのです。
 つまり、主人は、儲けがあったか無かったかという結果で僕たちを評価しているのではなく、預けられた財産を生かそうとしたかどうか、その志、生き方を評価している。私はそう思うのです。
 私たちは何かをする時、事の結果を恐れがちです。できなかったらどうしよう、失敗したらどうしよう、と恐れ、そのために、やらない方がましだと考えたりします。1タラントンを預けられた僕も、「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり‥‥」(24節)と、まず結果に対する主人の目を恐れました。それは彼の誤解なのですが、そのために積極的に財産を活用することができなくなってしまったのです。
 けれども、私たちの人生に対する評価は、うまくいったか失敗したかという結果によるのではなく、その人がどのような志を持って、どのような姿勢で生きたかという生き方によるのではないでしょうか。
 私たちは、ともすれば結果で評価しがちです。勉強でも、運動でも、仕事でも、子育てでも、何についても結果で評価しがちなところがあります。信仰でさえも、目に見える結果で人を評価したりしてしまいます。あの牧師先生は、多くの人に洗礼を授け、教会を大きくしたから優秀だ、とか、あの信徒は毎週礼拝に出席し、奉仕も熱心に行い、献金もたくさん献げて、とても立派だ、というふうに考える。そして、結果が反対であれば、評価もひっくり返るのです。
 主イエスの時代のユダヤ人社会もそうでした。律法という神の掟をどれだけ実行したか、どれだけ守ることができたか、その結果によって評価が下されました。表面的に、律法を厳格に守り、実行していた律法学者やファリサイ派の人々は、神さまから祝福される人間として高く評価され、徴税人や遊女など、守れない者は、神さまから見捨てられ、呪われた人間として軽蔑されました。
 けれども、そこに登場し、徴税人や遊女たちと交流し、神さまの愛を伝えたのが主イエスでした。彼らも神さまから祝福される者だと認めて、神さまに対して悔い改めを忘れないこと、神さまの愛に感謝し、それに応えて生きることをお求めになったのです。
 主イエスは、律法を実行し、守ったかどうかという表面的な結果ではなく、神さまに対する悔い改めと、感謝と、応答を、すなわち神さまに対する忠実な姿勢をお求めになりました。その主イエスが、儲けがあったかなかったかという結果で、僕たちを、私たちを判断し、評価されるわけがありません。
 人生は結果ではない。ただ、自分にできることを精一杯、忠実になせば、それで良いのです。その志を心に持つことが大切なのです。たとえ失敗しようと、挫折しようと、神さまは常に、そのような私たちを、「忠実な良い僕だ。よくやった」と暖かいまなざしで見守っていてくださいます。この社会の中で、目に見える結果で判断し、評価することに毒されている私たちに、聖書は、そのように語りかけているのです。

 それなのに、私たちは、自分に預けられたものを生かそうとしないことがあります。預けられた人生に忠実でない時があります。それはどうしてでしょう?。
 それは、人と自分を比較するからではないでしょうか。私は、5タラントンではなく、2タラントンでもなく、なぜ“1タラントン”預けられた者が、それを地の中に埋めてしまったのだろうかと考えるのです。それは、その僕が他の僕をうらやんで、いじけたからではないか。そう思うのです。
 人と自分を比べて、自分の方が劣っていると、私たちは、何かを一生懸命することが馬鹿らしく、無駄であるかのように感じることがあります。そして、やる気を失い、人をうらやみ、妬み、いじけたりします。信仰で言えば、“神さまも不公平だ”などと考えたりする。けれども、そういう時、私たちは、神さまから授けられたタラントンを正しく見つめることができないでいるのです。
 タラントンとは当時のユダヤのお金の単位ですが、1タラントンというのは約20年分の給料、労働賃金に当たるものなのです。日本円で考えたら、いくらぐらいでしょうか。年収500万円と考えたら1億円です。だから、1タラントンというのは、2タラントンや5タラントンと比べれば少ないということになりますが、それ自体決して小さくはないのです。自分の人生に預けられたものは、他人と比較すれば小さく見えることもあるでしょうが、それ自体決して小さくはない、むしろ大きいのです。“あなたにも、これだけのタラントンを預けておくよ”。そのように言われる主イエスから預けられたものの大きさを信じれば、比較の問題は薄れ、自分は自分、自分らしく、精一杯生きれば良いのだという納得が心に生まれてくるでしょう。
 〈世界で一つだけの花〉というスマップの名曲がありました。
   小さい花や大きな花  一つとして同じものはないから
   ナンバー・ワンにならなくてもいい  
   もともと特別なオンリー・ワン
 自分は神さまから、これだけのタラントンを預けられた特別なオンリー・ワンだと自覚する。そして、自分らしく、特別なオンリー・ワンとして、自分の花を人生に咲かせる。神さまは、そういう思いで生きてほしい、と願って、私たちを励ましておられるのです。

 さて、最後にこのたとえ話の主人は、1タラントンを地の中に隠しておいた僕を外に追い出したと30節に記されています。いや、ちょっと厳しくないかい?と思います。主人は本気で、怠け者の僕を「外の暗闇」に追い出そうとしているのでしょうか。そして、それは私たちに対する神の裁きなのでしょうか。そうではないのです。
 我が家には5人の子供がおりますが、以前に高麗川縁のアパートに住んでいた頃、子供が何か悪さをして、どうしても聞き分けがないと、外へ出て行って反省しろと言って、玄関から外につまみ出すことがありました。普段は、暗くなっても外で遊んでいたい子供が、この時ばかりは、まだ明るくても、ごめんなさい、ごめんなさい、と、聖書に書いてあるように泣き喚きます。
 なぜ玄関の外に出すのか。ダメな子供を我が家から追放したいからなのか。そんなわけありません。自分の間違いに気づいてほしいからです。善悪をわきまえるようになってほしいからです。人として成長してほしいからです。愛しているからです。
 神さまが私たちを外に出すのは、私たちを愛しているしるしだと私は思います。預けられた人生に忠実に生きること、神さまはそれを望んでおられるのです。





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