2009年8月9日 平和聖日礼拝説教
  聖  書  コロサイの信徒への手紙3章12〜15節
  説教者  山岡 創

「 あなたがたの心に平和を 」

先日、ある方から一つの詩を紹介されました。詩と言うよりも、“祈り”と言った方が良いかも知れない。それは、松戸教会の石井錦一牧師がお書きになった〈戦争という人殺し〉という小見出しの付いた祈りの言葉でした。

  神さま
  戦争のただ中を生きて来た者として
 平和であることを心から祈り続けたいと思います。
  大空襲の中 まだ火が燃え続ける道を
 あちこちさまよいつづけたことが幾度かありました。
 ようやく人の姿をしている 無残に焼け焦げた死体の間を歩きました。
防空壕の中で蒸し焼きにされた女性や子供たちがまるで人形のようでした。
 呼びかければ起き上がってくるような死んだ人の面影は
 今も心の中に焼きついています。
 もはや人の形がなくなったような 内臓器官が飛び出していて腐ったごみのようになった死体。
 つい昨日まで生き、愛し、人間として語り、行動してきた人たちが汚い焼けただれた一個の物体となる。
 戦争という人殺しの恐ろしさを 少年の目でしっかりと見てきました。
 人間が人間として生きえない世界。
 かけがえのない存在である人間を虫けらのように殺して平然としている戦争、権力政治に対して
 生命をかけて抵抗しつづける信仰をあたえて下さい。
(石井錦一著『信じられない日の祈り』より)
 この祈りの言葉を繰り返し読みながら、戦争の痛みを知らない私の心にも、戦争の恐ろしさ、悲惨さが想像されました。それは、戦争を体験していない私にとって、貴重な、感謝すべきことです。
 それと同時に、一つ後悔をしました。と言うのは、本日の平和聖日礼拝に、戦争体験と平和の証し者を立てられなかったことです。今まで、証しのできそうな年配の方々にはほとんど、この証しをしていただいて、今回は人選が難しいという事情もありました。
けれども、先の石井錦一牧師の戦争体験に立った祈りの言葉を読みながら、戦争を体験した方の言葉を聞くことがどんなに大切かということを、本当に感じました。その意味で、数年前に証しをした方にお願いして、その証しの言葉を、もう一度聞いても良かったではないかと考えさせられました。生の戦争体験と平和への思いを聞いて、平和を、「キリストの平和」(15節)を共に考える機会を1度、皆さんから奪ってしまった。どうぞお許しください。


 石井錦一先生は、最後に、“かけがえのない存在である人間を虫けらのように殺して平然としている戦争、権力政治に対して、生命をかけて抵抗しつづける信仰をあたえて下さい”と祈っています。“信仰”を与えてください、と。
 私たちキリスト者にとって、戦争に反対し抵抗し続ける力は、信仰なのです。なぜなら、信仰には戦争とは反対のものがあるからです。赦しと愛があるからです。「キリストの平和」があるからです。
 平和を求める上で、戦争の痛みの体験に立つことはとても重要だと思います。けれども、痛みの体験は、一歩間違うと、もっと悲惨な痛みを生じさせる恐ろしい可能性を持っています。と言うのは、人間は痛みの体験をした時に、特に相手がいて、その相手から痛みを負わされた時、“こんなに苦しく、悲しい痛みを、だれにも負わせたくない”と考えることもできますが、その一方で、“こんなに苦しく、悲しい痛みを負わせた相手に、同じ痛みを味わわせてやろう”という復讐の思いを抱くこともあるからです。そのような復讐の思いが、戦争が繰り返される大きな原因の一つになっているのではないでしょうか。
 復讐の思いは、痛みを味わった人間にしか分からない感情であろうと思います。それを抱くな、と言う方が無理があると思います。人間は、そのままで“神さま”のようにはなれません。口で言うほど簡単ではないことを私たちは知っています。
 それでも、痛みの連鎖を断ち切るには、悲惨をなくすには、平和な世界を、平和な人間関係を造り上げていくには、愛と赦し以外にない。そこに私たち人間が、痛みを知っているからこその忍耐と勇気を持って立つ以外にないのではないでしょうか。
 そして、私たちキリスト者は、この愛と赦しを、聖書の御言葉から学び、身につけていくのです。

 今日聞きましたコロサイの信徒への手紙3章の御言葉の中に、次のようにありました。
「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(13節)
 この御言葉を読むと、主イエス・キリストがなさった一つの譬え話を思い起こします。マタイによる福音書18章にある〈仲間を赦さない家来〉の譬えです。
 あるところに、王様に仕える一人の家来がいました。彼は自分の仲間に百デナリオンの金を貸していました。その仲間は、彼にその借金を返すことができませんでした。そこで、彼はその仲間を、借金を返すまでと牢に入れて働かせることにしました。
 この部分だけを聞くと、この家来がそれほど理不尽なことをしているとは思われないのではないでしょうか。「どうか待ってくれ。返すから」(29節)と嘆願する仲間に対する友情はないの? という疑問も湧きますが、百デナリオンという金額は、当時1日働いた労賃が1デナリオンでしたから、百日分の労賃・給料に当たるわけですから、決して簡単に赦してしまえるような、小さな金額ではないのです。家来の取った処置は、多少冷たいとは言え、常識的には当然の行動だと言っても不思議ではありません。
 けれども、問題はここからです。多くの方がご存じのように、この話には前提があります。それは、この家来自身が王様から莫大な借金をしており、しかもその借金を赦され、帳消しにされたばかりだった、ということです。
 家来は王様から1万タラントンの借金をしていました。1タラントンは6千デナリオンに相当します。ですから、1万タラントンとは6千万デナリオンに当たるわけで、これはおよそ20万年分の給料労賃であり、彼が仲間に貸していた百デナリオンの60万倍になります。返済期日が来て、王様は家来に借金を返すように命じました。しかし、返すことができません。家来は、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」(26節)と必死に哀願しました。その家来の様子を、王様は憐れに思って、何と1万タラントンの借金を赦し、帳消しにしてやったというのです。信じられないことです。
 家来は1万タラントンという莫大な借金を赦されました。その足で、城から町に出た彼は、そこで百デナリオンの金を貸している仲間を見つけ、待たず、赦さず、牢に入れたのです。
 このように譬え話全体を聞くと、この家来が何と無慈悲な、愛のない人間かと思わずにはおられません。けれども、聖書は、キリストは、それが“私たち”自身の姿なのだ、と語りかけているのです。
 この譬え話に出て来た王様とは、神さまのことを表しています。そして、王様に莫大な借金をし、赦していただいた家来は私たちのことです。家来の仲間は、私たちの家族、兄弟、友人、同僚といった“隣人”です。また、借金とは、相手にかけている罪や迷惑、損害と考えれば良いでしょう。
 あの家来は、なぜ仲間を赦すことができなかったのでしょう? それは、自分が王から赦されたことが、どんなに有り難いことか、どんな大きな恵みなのか、分かっていなかったからです。あるいは、忘れてしまったからでしょう。
 家来と王様の関係は、私たち人間と神さまの関係です。目には見えない関係です。心の問題、人格に関わる、存在に関わる、目には見えない関係です。だから、気づくことが難しい。心に刻むことが難しい。忘れずにいることが難しい。
 目の前の人間関係で自分が迷惑や損害という痛みを負わされたことはよく分かっても、気づかぬところで自分が犯した罪や、人に与えた迷惑や損害、心に傷には鈍感なのが私たちです。一言で言えば、自己中心なのです。そういったものが人生の歩みの中で積もりに積もって、どれほど莫大な量になっているか、私たちはなかなか分からない。そして、そういう赦されない罪を、人に謝り償うタイミングを逸してしまった罪を、神さまに赦されるのでなければ生きていられない、神さまに赦されているからこそ私たちは生きられる存在なのです。
 私たちは、時々、何かの拍子に自分の罪、過ちにハッと気づかされます。愕然とします。その時、御言葉を通して、この神の赦しと出会うことができるか、気づくことができるか、思い出すことができるか、それが私たちキリスト者の生き方を分けます。赦されて、生かしていただいているのだから、自分も人を赦すという平和に生きる者となるかどうかを分けます。

 父なる神は、大きな痛みを負って、私たちの罪を赦してくださいました。ヨハネによる福音書15章13節に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、キリストの教えがありますが、キリストはご自分の命を十字架の上に捨てて、私たち人間の大きな罪の償い、犠牲として、私たちが赦されて生きる人生の道を切り開いてくださいました。それは、父なる神の立場からすれば、ご自分の独り子イエス・キリストを私たちの罪のために犠牲にされるという大きな痛みを負ってまでも、私たちを赦し、愛してくださったということになります。
「これらすべてに加えて愛を身につけなさい。愛はすべてを完成させるきずなです」(14節)と求められています。キリストに倣い、愛をほんの少しでも身につける。そのために御言葉に聞き続け、愛を与えてくださいと祈り続ける。その時、私たちは愛に裏打ちされた「キリストの平和」に一歩近づくことができるでしょう。





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