2009年8月16日 礼拝説教
  聖  書  コロサイの信徒への手紙2章16〜23節
  説教者  山岡 創

「 この世に属さず 」

「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、『手をつけるな。味わうな。触れるな』などという戒律に縛られているのですか」(20〜21節)。
 宗教はそのほとんどが、何かしら「戒律」を伴っていると言って良いでしょう。しかし、戒律は人を生かしもすれば、殺しもします。四角四面に受け取れば、柔軟性を欠き、人それぞれの事情やケースに行き届かず、その人の苦しみや悲しみを包むことができないという場合もあります。戒律の根本になっている精神的な考え方、その宗教の魂をしっかりとつかんで、人が生かされるように、包まれるように戒律を受け取ることが大切だと思います。
 キリスト教信仰の母体となったユダヤ教にも、“律法”という戒律がありました。イエスを救い主キリストと信じることによって救われるという福音が宣(の)べ伝えられた一世紀の当時、まだキリスト教はユダヤ教から独立し、はっきりとは分れていませんでしたから、キリストの福音と並行して、律法も宣べ伝えられました。キリストを信じると同時に、律法を守り行うことで救われる、と。キリスト者の中には、元・ユダヤ教徒も少なからずいたからです。
 そして、キリストを信じて救われる喜びよりも、戒律を守ること、守らせることに汲々とするような、守れない者を批判するような、まるでイエス・キリストが生きておられた当時のユダヤ人社会のような状況に、コロサイの教会も陥って行ったのでしょう。
 パウロは、そのようなコロサイの信徒たちの誤りを、「戒律に縛られている」と言いました。つまり、“あれはするな”“これを守れ”と戒律に圧迫されて、息苦しい信仰生活になっており、そこには信じる喜びがないのではないか、と注意しているのです。
 戒律を守る生活では、人は救われません。律法を守らされるところに喜びはないのです。パウロは、そのような戒律を守る信仰生活を次のように批判しました。
「これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです」
(23節)

 私はこの御言葉から、主イエス・キリストが、律法学者やファリサイ派といった、当時、敬虔と見なされていたユダヤ教徒たちの信仰生活を非難されたエピソードを思い起こします。彼らは戒律(律法)に従い、貧しい人への施し、祈り、断食をしました。それらは本来、隠れたところですべき、敬虔な行為です。けれども、彼らはそれらの行為を、人に見てもらい、ほめられようとして、街角や会堂で行い、断食をしていることを知られようと顔を見苦しくしました。だから、主イエスは彼らのことを「偽善者」と非難されました(マタイ6章)。つまり、その行為は「偽りの謙遜」だったのです。そして、そうすることで彼らは、人からほめられて快感を得るという「肉の欲望」を満足させていました。まさに、今日の御言葉の23節にある通りです。主イエスは、そのような偽りに走らず、人の目に隠れたところで、神に喜ばれるように行いなさいと教えられました。
 戒律を守る信仰生活というものは、救われている喜びから神さまにお応えするという気持がなければ、ともすれば「偽りの謙遜」になり、「肉の欲望を満足させるだけ」になり、「独り善がり」に陥ります。
 そのような誤った信仰生活の極みが、“戒律(律法)によって救われる”という信仰。戒律を守ることで、つまり自分の功績で、自分の努力で、“自分の力”で救われるという考え方に陥ることです。
 私たちは、何かを行うことを良いことと考え、何かを行った自分のことは認めたくなります。何もできない自分は嫌なのです。その気持、その考えは、私も自分自身の生活として、体験としてよく分かります。けれども、私たちは何かを行えるから神さまに認められ、救われるのではないのです。私たちの人生の行いには、これだけやったから完成とか、これだけやったから救いの条件を満たした、というようなゴールはありません。いや、神さまの救いには元々、条件などないのです。無条件、無償なのです。そんなうまい話が‥‥と思われるかも知れません。けれども、神さまは、ご自分が命を与えてお造りになったご自分の子供だからこそ、無条件、無償で私たちを愛して、救ってくださるのです。その無条件の愛、無償の救いのしるしが主イエス・キリストの十字架なのです。イエスを救い主キリストと信じて救われるとは、イエス・キリストが命がけで示してくださった、この神の無条件の愛、無償の救いを信じることに他なりません。人は自分の行いでは救われないのです。行いを突き詰めて行っても、「偽りの謙遜」と自己満足になるか、まだ足らない、まだ駄目だという無力感から絶望へと陥るだけです。
 救われるためには、戒律から、すなわち“行いによる救い”から脱出する必要があります。そこから脱出して、至らない自分、欠点の多い自分、罪深い自分を、神の無条件の愛、無償の救いに“よろしくお願いします”とゆだねるのです。ゆだねて、肩ひじ張って、気張って生きている力を抜くのです。戒律なんて関係ない、行いなんてどうでも良いと開き直るのではありません。ゆだねるのです。ゆだねた上で、神さまの御心の内で、自分にできることをさせていただくのです。この“ゆだねる”という心境が分かると、私たちは救われます。平安に満たされます。信仰生活とは、自分の力と行いで救いをゲットするのではなく、この平安を与えられるために歩む祈りの生活です。

 だから、コロサイの信徒たちは、そして私たちは、戒律に縛られる必要はないのです。何かを行って自慢したり、何かができずに落ち込んだり、人を非難したりする信仰生活から離れなければなりません。「手をつけるな。味わうな。触れるな」といった「食べ物や飲み物のこと」(16節)、また「祭りや新月や安息日」(16節)といった慣習などは、人が救われるということに一切関係がないのです。
 ここで私が思い出すのは、酒・たばことキリスト者の問題です。明治の頃からか、大正の頃からか、禁酒・禁煙を取り入れ、運動するキリスト教の宗派が少なからずありました。私が育った川越の初雁教会もそうでした。だから、私も、酒、たばこは罪深い行為で、神さまに喜ばれないもの、という信仰で育ちました。キリスト教と禁酒・禁煙が結びついた事情、理由があったと思います。それが分からないわけではありません。けれども、それはある意味で“現代の戒律”かな? と思わされます。
 話は変わりますが、先日8月12〜14日にかけて、埼玉地区中学生KKSキャンプが妙高高原で行われました。参加41名、当教会からも中学生2名、高校生2名、私は引率と全体の責任者として参加しました。無事に終わり、ホッとしています。
 ところで、このキャンプの主題は〈イエス・キリスト 〜 あなたが好きです〉でしたが、講師をしてくださったK先生(I教会)が、講演の中で、あるキリスト者の話をしてくださいました。その人は、あるクリスチャンの父親で、自分の息子が属している教会に行ったこともありましたが、その教会は酒・たばこを禁じる教会で、酒もたばこもやるその父親は、その教会に行くと、“お酒はいけません”“たばこはいけません”と言われるので、段々嫌になり、いつしか行かなくなっていました。ところが、その父親のところに、息子さんの計らいだったかと記憶していますが、別の宗派・別の教会の牧師(司祭)が訪ねて来ました。その牧師は、その父親の前で酒もたばこも平気でやりました。最初、父親は驚いていましたが、この牧師の教会でなら酒、たばこを咎められることはないと通い始めました。そして、やがて洗礼を受け、家族も不思議に思うほどの熱心なクリスチャンになった、天に召される時も平安に満たされて逝った、ということです。その父親はある意味で、戒律を守れないクリスチャンだったかも知れませんが、しかし行いではなく、信仰に生きた、キリストの無条件の愛という福音に生かされたクリスチャンであったと言って良いのではないでしょうか。
 私はもちろん、皆さんに酒、たばこを勧めているのではありません。私が申し上げたいのは、信仰の真髄は、そういった戒律的なことを守るところにはないと言いたいのです。自分がたとえどのような人間であろうと愛し、受け入れてくださる神の無条件の愛、無償の救いを信じて、“よろしくお願いします”とゆだねて生きるところに、クリスチャンの真髄、信仰生活の真髄はあります。
 キリストと共に死んで、この世に属さずに生きる。それは、この、ゆだねて生きる恵みを喜んで生きることにほかなりません。





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