2009年9月6日 礼拝説教
  聖  書  コロサイの信徒への手紙3章1〜11節
  説教者  山岡 創

「 古い人から新しい人へ 」

 「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」(5節)。
 今日の聖書の御言葉を黙想しながら、私は、主イエスがなさった一つのたとえ話を思い起こします。兄弟と遺産争いをする人に対して、主イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(ルカ12章15節)と言われ、次のような話をなさいました。
 ある金持ちの畑が豊作だった。けれども、それをしまっておく場所がない。金持ちは、どうしようかと考え、小さい倉を壊し、もっと大きな倉を建てて、そこに収穫のすべてをしまっておくことにしました。倉が完成し、収穫を倉入れした彼は、ホクホク顔で、「さあ、これから何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と心の中で思ったのです。ところが、その夜、神さまはこの金持ちに、「今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と告げた、という内容です。そして、最後に主イエスは言います。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(12章21節)。
 もちろん、自分のためだけに財産を蓄える貪欲な者は早死にし、神のため人のために富を用いる人は長生きする、というような教訓めいた話ではありません。現実には、貪欲でも長生きする人がおり、神と人のために生きても早死にする人もいます。主イエスが語ろうとしているのは、寿命とか長生きの問題ではなく、生き方の問題です。私たちの命を輝かすにはどうしたら良いか、ということです。そのためには貪欲になるな、と言うのです。富や財産を人生でいちばん価値あるものとするような生き方をするな、と言うのです。神の御心を考えて財産も運用、活用しなさい、と言うのです。

 このたとえ話、金持でも何でもない私たちには関係がないように思うかも知れません。どっこい、金持ちであろうとなかろうと、貪欲の問題に関係のない人などいないのです。
 皆さんは宝くじを買ったことがありますか? 私は、今まで1枚も買ったことがありません。いや、買ったことがないから私は貪欲ではない、と言うのではありません。
 昨日、事務用品を買いに入西(にっさい)のJマートに行きました。入口のところにロト・クイズの宝くじ売り場があります。ふと幟旗(のぼりばた)を見ると、累積4億円と書いてありました。当たりが出ないので、配当金がたまりにたまっているのです。おぉー!と一瞬思いましたが、どうせ買っても当たらないよ、と考え直して、通り過ぎました。
 4億円とは言いませんが、皆さん、もしも自分が1億円当たったらどうしますか? 私はその時、もし1億円当たったら‥‥と考えながら、1千万円は教会に献金しよう(そうすれば会堂建築の借金がなくなる)、1千万円は色々なところに寄付しよう、そして皆さんには現金を配るわけにはいかないから、一緒にちょっとおいしいものでも食べて楽しもう‥‥‥そして、残りの8千万円近くは自分のために貯蓄しておこう、我が家もこれから教育費とか何かと大変だからな、と、こう考えているのです。
 全部献げようとは思わない。いや、全部はおろか半分すら献げようとは思わない。こういう考えでいたら、これが実際に当たったら10分の1の1千万円すら惜しくなるに違いない。それが、この世の常識的レベルから見て貪欲に当たるかどうか分かりませんが、私の中では、明らかに貪欲だと思えるのです。少なくとも、以後このお金に縛られた人生になってしまうのではないでしょうか。
 聖書は、そのような貪欲を「偶像礼拝にほかならない」(5節)と注意しています。偶像礼拝と言うと、キリスト教以外の神さまを信じて拝むこと、例えば日本で言えば初詣に行ったり、自宅の神棚に向かって拍手(かしわで)を打ったり、仏壇で先祖を祭ったりすることを考えるかも知れません。けれども、単純にそういうことではないのです。
旧約聖書の戒め、十戒の第1戒に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20章3節)とありますが、主なる神のほかに神があることを偶像礼拝と言います。それは仏教とか神道とか他宗教との関わりの問題だけでなく、主なる神以外の何かを第一としていたら、それに縛られていたら、それが私たちにとっては“偶像”。ですから財産に囚われているような生き方も「偶像礼拝」になるのです。
 話が少し逸れましたが、そんなふうに、私たちはだれしも、自分の胸の内に富や財産に囚われる「貪欲」の問題を抱えていると思うのです。そういう貪欲さ故に、主イエスがこのたとえ話をなさった人と同じように、兄弟との間で遺産相続問題を起こしてしまうこともあるのです。「怒り、憤り、悪意、そしり」(8節)、争っている相手にそんな思いを抱き、「恥ずべき言葉」を口にしてしまうこともあるのです。
 いや、例えば遺産問題から全く手を引いて関わるな、受け継ぐな、そうすれば貪欲から解放されクリーンになる、と言っているのではありません。例えば遺産の処理を兄弟親族と一緒にしながら、そこに「キリストと共に復活させられた」(1節)クリスチャンとしての、「造り主の姿に倣う新しい人」(10節)としての心があるか、「上にあるものを求めながら」(1節)、兄弟親族と関わり、遺産処理をしているか、その生き方が問われているのです。

「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」(1節)。
 パウロは、コロサイ教会の信徒たちに、このように語りかけました。コロサイの信徒たちは、信仰によってキリストと共に、“既に復活させられた”と言うのです。コロサイの信徒たちが死んで生き返ったわけではありません。以前と同じく地上の命を生きているのです。そのことから、聖書が語る“復活”とは、生き返ることであるとか、単純に死後の別世界の事柄ではないことが分かります。復活とは、「上にあるものを求める」生き方を指しています。天におられる神さまに喜ばれるように、御心に適うように生きるということです。「あなたがたは死んだのであって」(3節)とありますが、それは「地上のものに心を引かれる」(2節)ような生き方を捨てた、ということです。貪欲に財産を蓄えたり、遺産相続争いをするような生き方から離れた、ということです。
 そのように、地上のものに引かれる生き方に死んで、上にあるものを求める生き方に復活する。それは、9節以下で、同じ意味で次のように言い換えられています。
「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされ(る)」(9〜10節)。
 「古い人」とは、地上のものに心を引かれる人であり、「新しい人」とは、上にあるものを求める人のことです。そして、「地上のもの」とは具体的には、5節にあるように「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」のこと、また8節以下にあるように、「怒り、憤り、悪意、そしり‥‥恥ずべき言葉‥‥(そして)うそ」のことを指しています。
 では、「上にあるもの」とは? 神さまの御心に適うもの、神さまに喜ばれるものとは何でしょうか? 実は、それは今日読んだ聖書箇所の後の12節以下に記されています。
「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容‥‥赦し合い‥‥愛‥‥平和‥‥感謝」。
 これらのものを求め、これらのものを実生活の中に、人間関係の中に具体的に映し出していくような生き方、それが、キリストと共に復活させられたクリスチャンの生き方、「新しい人」の生き方なのです。

 ところで、これらのことを考えながら自分自身の生活を省みる時、私たちは、恥ずかしくなりはしないでしょうか。「上にあるもの」と具体的に言われているものの中で、私たちが十分に身につけている、と言えるものが一つでもあるでしょうか。
 しかし、だからこそ、私たちは「古い人を‥‥脱ぎ捨て、‥‥新しい人を身に着け(なさい)」と語りかけられているのです。脱ぎ捨てて、着る。言わば、それは人生の“衣替え”です。
 衣替えとはどういうことでしょうか? 誤解を恐れずに言えば、私たちの“中身”は変わらない、ということです。私たちの地(じ)はそう簡単には変わらない。私たちは、自己中心で、弱く、愚かな罪人のままです。
 しかし、キリストはそのような私たちに、“赦し”という新しい服を着せてくださいます。“愛”という着物で包んでくださいます。それによって私たちは“赦された罪人” “愛された罪人”として生きることができるのです。





   ウィンドウを閉じる