2009年9月13日 高齢者を覚える礼拝
  聖  書  ヨシュア記23章1〜8節
  説教者  山岡 創

「 高齢者の経験と使命 」

 「主が周囲のすべての敵を退け、イスラエルに安住の地を与えてから長い年月が流れ、ヨシュアは多くの日を重ね、老人となった」(1節)。
 本日は〈高齢者を覚える礼拝〉を迎えました。私たちは皆、神さまによって生かされる命の恵みの中で、多くの日を重ね、老人となります。先日、テレビを見ておりましたら、日本は現在、100歳以上の方の人数が4万人を超えたと報道されていました。最高齢は114歳だそうです。超高齢化と言える社会になりました。ちなみに、私たちの教会ではMさんが98歳で最高齢、もうすぐ100歳に手が届きます。
 私たちの教会では、75歳以上の方々を心に留めて祈り、この礼拝の後でお祝いの〈慶老食事会〉を共にします。しかし、ただ単に長寿を祝うということではなく、信仰によって生きる私たちは、ご高齢の皆様が神の恵みによって生かされてきた人生を共に喜ぶ時としたい。そして、高齢者も熟年も若者も子供たちも共に生きる私たち、神の家族である教会に、神さまが聖書を通して何を語りかけ、お求めになるのか、しっかりと耳を傾けたいと思います。

 今日はヨシュア記23章から神の御言葉を聞きました。多くの日を重ね、老人となったヨシュアの言葉、イスラエルの民への遺言と言っても良い言葉です。
 ヨシュアのことは聖書を読んで知っている方も少なくないと思いますが、一言で言うなら、“モーセの後継者”という人物です。
 その昔、イスラエルの民はエジプトの国内に住み、奴隷として苦しめられていました。その苦境から彼らを救い、エジプトから国外へ脱出させたリーダーがモーセでした。モーセは民を率いて、シナイ山で神さまと祝福の契約を結び、契約の条件として守るべき十戒を授かります。そして、神さまが与えると約束された土地カナンを目指して、荒れ野を旅するのです。
 やがて、あとはヨルダン川を渡れば約束の土地というところまでたどり着きました。しかし、モーセは約束の土地を踏まずに、そこで果てます。そのモーセの後を継いだのが、モーセの従者であったヨシュアでした。
 偉大なる指導者モーセの後を託されたという責任。また、約束の地カナンにはだれも住んでいないわけではなく、多くの先住民が住む土地へ入って行って戦い、自分たちの土地を獲得しなければならない困難。ヨシュアの肩に、どれほどの重圧がかかったか分かりません。当初、ヨシュアは心細く、自信がなかったのではないかと思われます。ですから、ヨシュア記の初めに、神さまはこう言って、繰り返しヨシュアを励ましています。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせるものである」(1章5〜6節)。
 この神の御言葉に支えられて、ヨシュアはリーダーとしての使命と責任を果たして来ました。先住民との戦いを導き、カナンの地を獲得し、各12部族に住まう土地を割り当てました。その働き、その歩みが、ヨシュア記の最初から書きつづられています。そしてその後、多くの日を重ねて老人となったヨシュアが、その人生の歩み、人生の経験から語ったのが、今日読んだ聖書箇所の言葉です。

 ヨシュアは全イスラエルに語りかけました。
「わたしは年を重ね、老人となった。あなたたちの神、主があなたたちのために、これらすべての国々に行われたことを、ことごとく、あなたたちは見てきた」(2〜3節)。
 イスラエルの人々の中には、ヨシュアと共に戦い、ヨシュアと苦楽を共にし、ヨシュアと共に年を重ねた人々が少なからずいました。ヨシュアが見たことはヨシュア一人の経験ではなく、彼らも共に見てきた共通の経験です。ヨシュアは、彼らは、何を見てきたのでしょう。それは、「あなたたちの神、主は御自らあなたたちのために戦ってくださった」(3節)ということです。主なる神が共にいて戦い、勝利し、安住の地を与えてくださった恵みを見てきたのです。
 イスラエル民族は、現在ではパレスチナと呼ばれるカナンの地で、先住民との戦いを繰り広げて来ました。その歴史は、今もパレスチナ問題として続いています。その戦いが是か非かという問題については、聖書の御言葉の内容から逸れるので、今日は触れません。ただ、老人となったヨシュアがその戦いを振り返って語る言葉から、今日の信仰者である私たちが受け止めたいのは、主なる神自ら戦ってくださったと見る信仰、“私が”戦って勝ち取った、と言うのではなく、“主が”戦って与えてくださったと捉える人生の見方です。
 そこには、人生をどう見るか、人の命をどう見るかという答えがあります。一言で言うならば、人生は自分の力で“生きるもの”と見る見方か、それとも人生は“生かされてあるもの”と見る見方、生き方か、という答えです。理屈で答えが出るわけではないし、どちらかに割り切れるというものでもない、と思いますが、少なくとも人生は“生かされてあるもの”と感じている人の生き方には、感謝があり、謙遜があり、希望があります。自分の力、人の力だけに頼って生きていると、人生に思い上がるか、それとも人生に絶望するかに陥ることがあるのです。
 ヨシュアの見方はもちろん、人生は神に生かされてあるもの、という信仰による見方です。彼はそのことを、年を重ね、老人になるまで、味わい、経験し、見続けて来たのです。しかし、それはヨシュアが神の御言葉を聞き続けたからこそ、味わい、経験し、見ることのできた賜物だと言えるでしょう。ヨシュアは、神の御言葉によって励まされ、支えられてきました。神の御言葉に従って行動して来ました。神の御言葉を絶えず聞き続けたからこそ、神さまが自分たちのために戦ってくださった、神さまが働いてくださったと感じることができたのです。ヨシュアは、神の御言葉が真実であることを、実現することを、自分の人生において見てきたのです。
 私たちも、ただ年を重ねるだけでは、このように見ることはできません。共に礼拝を守り、御言葉に聞き続ける生活が必要です。日曜日だけでなく、毎日の生活の中で、神さまと1対1で向かい合う時間を作り、聖書を読んで、神さまが自分に何を求めておられるか心を開いて聞く。そして、祈る。そういう信仰生活があって初めて、自分の人生において神さまが戦ってくださった、働いてくださったと見ることができるようになります。いや、そのように礼拝を守り、聖書を読み祈る生活そのものが、自分の力だけではできないこと、神さまの助けなしには続かない、できないことなのです。
 それでも、若い時は、自分の力に自信があったり、仕事や子育てで忙し過ぎたりして、なかなか、神が働いてくださった、助けてくださったということが分からないものです。いや、教会にさえ、礼拝にさえ、行けなくなってしまうこともある。それが段々分かって来るのは、見えて来るのは、年を重ねるにつれてです。若い時には見えなかった恵みが、年を重ね、老人になって、しみじみと見えてくる。ああ感謝だなあ、ああ悔い改めなければ、と思うことが、理屈抜きに心に湧き上がってくる。それが、信仰によって年を重ねた人にしかない、信仰の円熟であり、神の恵みの経験だと思います。

 ヨシュアは、「主が‥‥行われたことを、ことごとく、あなたたちは見てきた」と語りました。しかし、その後でまた、味わい深いことを語ります。
「見よ、わたしはヨルダン川から、太陽の沈む大海に至る全域、すなわち未征服の国国も、征服した国々もことごとく、くじによってあなたたち各部族の嗣業の土地として分け与えた」(4節)。
 どこに注意を引かれるかと言うと、未征服の国々がある、という点です。神さまがカナンの地を与えると約束なさって、自らイスラエルの人々のために戦ってくださったのです。それでも、ヨシュアが老人に至ってもなお、征服できない国が残っているのです。つまり、不完全、いや未完成なのです。
 しかし、それが信仰によって生きる人生の事実だと思います。神さまを信じて、神さま自ら働いてくださる人生だからと言って、すべてがうまく行くわけではありません。うまく行かないことも少なからずあるのです。苦しんだり悲しんだりしなければならないこともあるのです。まだこれからも戦い続けて行かなければならない人生の課題もあるのです。人生、神さまを信じたら自分の思い通りに行くわけではありません。
 人生のすべてがうまく行ったから、神さま自ら戦い、働いてくださった、ありがとう、感謝、ではないのです。征服した国もあれば、征服できなかった国もある。人生、うまく行った成功や喜びもあれば、うまく行かなかった失敗や苦悩、課題もあるのです。けれども、それらすべて込みで、神さまが自分のために戦い、導いてくださったと信じて、感謝できるところに信仰があります。もちろん、苦しみや悲しみの当座に、すぐに感謝できるものではありません。けれども、この苦しみ悲しみの中にも、神さまが共にいて、慰め、導いてくださると、希望を失わずに生きられるところが信仰の良さです。「主の約束されたとおり、あなたたちは彼らの土地を占領するであろう」(5節)と、神の約束を信じて生きられるところが、救いの恵みです。

 年を重ね、老人となった信徒とは、そのような人生の苦楽の中に、神さまのお働きを見てきた人々です。だからこそ、自分が見てきた神のお働き、神の恵みを、次の世代へ伝える使命があります。若い世代へ証しする大切な務めがあります。
「今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ」(8節)
と命じられているように、これからも主なる神を固く信頼しつつ、そのように神を信頼して生きることが確かな生き方であることを、感謝と謙遜、希望と平安の人生であることを証しする務めがあります。それが、ご高齢の信徒の皆さんの大切な使命です。
 私は、75歳を超える信徒の皆様が、毎週喜んで礼拝に出席しておられる姿を、本当に嬉しく思っています。老人になって暇になったから毎週礼拝に来れるというのでは決してないと思います。毎週の礼拝に出席することを喜びとして、そのために健康を整え、祈りをもって出席される。それが何よりの証しです。次の世代、若い世代の方たちは、その姿にとても励まされていると思います。
 もちろん体調を崩し、体が不自由になって、礼拝に出席できない方もいらっしゃいます。皆、いつかそうなります。けれども、だからと言って、証しができないとか、信仰がだめになる、ということではありません。私はいつも、礼拝に出席できない高齢の方々の祈りと心の思いを感じながら、礼拝を守らせていただいています。離れていても、キリストの体なる教会に連なる私たちは、一つであると信じています。
 「今日までしてきたように」最後まで、「右にも左にもそれることなく」(6節)、主を固く信頼する人生の道を歩み続ける。私たちは皆、主に助けられて、そのように歩ませていただきましょう。






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