2009年9月20日 礼拝説教
  聖  書  コロサイの信徒への手紙3章18〜4章1節
  説教者  山岡 創

「 主に対してするように 」

 今日読んだ聖書箇所は、コロサイの信徒への手紙の中で〈家庭訓〉と呼ばれるまとまりです。夫婦関係、親子関係、そして主人と奴隷の関係、これら家庭を構成する3つの関係において、どのように関わることが「主を信じる者」(18節)、キリスト者としてふさわしいのか、ということが記されています。

 まず初めに出て来るのは夫婦の関わりについてです。
「妻たちよ、‥‥‥夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい」(18〜19節)。
 当然と言えば当然のことだと、現代人である私たちには聞こえるかも知れません。けれども、当時の男尊女卑の価値観や、一人の夫が何人もの妻を持つことが普通であった社会において、この教えは決して当たり前ではありませんでした。妻は、人格を持った人間としてではなく、夫の“所有物”として、“物”として扱われることが少なからずあったのです。それは、夫が“力”によって妻を支配する関係でした。
 そのような社会において、特に男性に対して、「夫たちよ、妻を愛しなさい」と言われるのはほとんどないことであったと思われます。
 しかも、「愛しなさい」というのは、ただの言葉ではないのです。私は、ちょっと関心を持ってギリシア語の原典を調べてみたのですが、この19節の“愛する”と訳された原語には、アガパオーという言葉が使われていました。ギリシア語には、愛とか、愛する、という言葉が幾つかありまして、エロースという言葉は皆さんもどこかで聞いたことがありでしょう。最も肉欲的な愛、自分の欲望で対象を見る愛です。それとは別に、人が人を、あるいは神を愛するという場合には、フィレオーという言葉が使われます。けれども、今日の箇所ではフィレオーではなくアガパオーという言葉が使われています。これは、“神の愛で愛する”という言葉です。
 「妻を愛しなさい」というのは、ただ愛しなさい、ということではない。神の愛をもって妻を愛しなさい、と言われているのです。では、神の愛とはどんな愛なのか。この手紙の中にも、主イエス・キリストが十字架に架かり、その命を代償にして私たちの罪を赦し、父なる神と和解させ、平和な関係に回復させてくださったと繰り返し語られています。それが、聖書が語る端的な神の愛です。つまり神の愛とは、命がけで赦すこと、命がけで愛することです。だから、キリストは弟子たちに、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)と教えられたのです。
 夫は、そのような愛で妻を愛しなさい、と命じられているのです。
 妻が夫に仕える、ということも、言葉は違いますが、本質的には同じことだと言って良いでしょう。互いに仕え、愛し合う。その根本には、キリストが命がけで自分たちを愛してくださったことを信じる信仰が土台としてあります。
 さて、皆さん。特に今日の礼拝にご夫婦でおいでになっておられる方々、後で家に帰ってから、“今日の説教の中で、夫に仕えなさい、と教えられたじゃないか”“妻を愛しなさい、って言ってたじゃないの”とやらないで下さいね。まず自分を見つめましょう。自分の胸の中の愛を、自分の愛は相手を思いやり、相手に仕える真実な愛なのか、そのことを静かに見つめましょう。
 「うちみたいな平社員は、安月給でしょう。だから大変よ」などという言葉を口に出す妻たちの何と多いことだろう。男にとって、平社員とか、安月給などという言葉が、どんなに傷つけられるものであるかを、妻たちは知らないのだろうか。その傷つける言葉を口にしながら、「愛している」とは、とても言えない。‥‥‥
  夫もまた、しばしば平気な顔で、「何を着たって、お前になんか似合いはしないよ」などと言う。この言葉がグサリと胸に刺さることに気づかぬほどに、男もまた冷酷なのだ。(三浦綾子著『光あるうちに』81頁)
 これは、既に天に召されたキリスト教作家・三浦綾子さんの『光あるうちに』という著書の一下りです。〈愛のさまざま〉という小見出しで、愛を問うているところです。
 命がけの愛、なんて言ったら、ちょっとオーバー、大袈裟かも知れません。けれども、その意味することは“自分を捨てる”ということです。自己中心な自分の愛を省みて、相手の気持や立場を思う、ということです。
 けれども、先ほどの三浦綾子さんの文章にもあったように、日常の夫婦関係において私たちは意外とこれができない、できていない。自分では愛しているつもりで、相手を傷つけていることに気づいていない。(私もこれと似たようなことをして失敗したことがあります)それは小さな傷かも知れないけれど、積もり積もれば大きな痛みになる。決定的に夫婦関係を破壊することもあるでしょう。
 愛するとか、仕えるというのは、大そうなことではなく、本当にちょっとしたことからなのだと思います。そのちょっとしたことに心を配る。信仰によって色付、肉づけする。夫婦なのだから、ちょっとぐらいのことは大目に見られ、許されて良いと思います。夫婦とはそうあってしかるべきでしょう。しかし、そういう関係に甘え過ぎないこと、油断しないこと。自分を省みながら、相手を思いやり、労わること。そのちょっとした愛が、きっと夫婦を円満にします。

 さて、夫婦関係に続いて親子の関わりについて教えられています。
「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。‥‥父親たち、子供をいらだたせてはならない」(20〜21節)。
 最近、子供をいらだたせているなあ、と反省することが時々あります。つまらないことを言ったり、からかったりして、子供をいらいらさせてしまう。小学生の頃までは受けたことが、中学、高校生になると通用しない、うざがられるものになってしまう。その見極めと切り替えをちゃんとしないと、と反省をしています。
 最近、我が家では図書館から〈大草原の小さな家〉というDVDを借りて来て、よく見ています。ご存じの方も少なくないでしょう。私たち夫婦も、自分たちが子供の頃に見て感動したものです。19世紀のアメリカを舞台に、夫婦と娘3人の家族が貧しくも愛し合って暮らす。その人間関係や信仰をドラマ化したものです。
 この家庭の父親チャールズ・インガルス、これが本当にすばらしいお父さんです。威厳があって、しかし優しく、子供たちからも尊敬され、信頼されている。こんなふうになりたいいなあ、でも、なかなかそうはいかないなあ、と思いながら、でも改めて感動させられています。
 親として子供を育てていくということは、本当に難しいことだと感じます。お話ししたいことはたくさんありますが、今日、私は子育てについて二つのことを申し上げたい。
 その一つは、子供たちを主に委ねて育てよう、ということです。もちろん親としての責任放棄という意味ではない。ただ、自分の力で育てられると変な自信を持たないことです。そう考えると、絶望したり、落ち込んだりします。子供は親の思うようには、なかなか育ってくれません。そのために親は責任を感じて、苦しむことがあります。子育てを全部自分の手に抱え込んだら潰れます。だからこそ、“神さま、よろしくお願いします”と委ねて祈り、心の余裕をもって育てることがとても大切だと思います。
 もう一つは、親の信念は子供に必ず伝わるということです。同じ道を進むにせよ、反発するにせよ、親が一番大切にしているものは、子供に伝わり、その成長に大きく影響します。信仰もそうです。もし親が信仰を、一番大切にして生きているなら、それを信念として守っているなら、それはきっと子供に伝わります。伝えたいものであるならば、良いものとして伝えること、そして自分に妥協しないことです。他人事ではありませんが、子供は親をよく見ています。ちょっとしたことから、これ(信仰)はお父さん、お母さんにとって、一番大切なものではないのだと見抜きます。お話ししたいことはいっぱいありますが、取りあえず一つだけ。礼拝を守ることです。ここを崩したら信仰は育たない。ここを守ることは戦いです。親の立場ではありませんが、ある教会の牧師夫婦が、教会に集まる若者たちに、“教会に来て何をしても良いけれど、礼拝だけは命懸けで守りなさい”と教えたということを、会報〈流れのほとり〉の巻頭言に書いたことがありました。やがて多くの若者たちが洗礼を受けたそうです。
 私たちにとって礼拝とは、信仰とは何なのか。親の信念は必ず子供に伝わります。
 しかし、子供にも反抗期があります。親の言うことを聞いてきた子供が、やがて思春期に至ると親に反抗するようになります。親から独立し、親を乗り越えようとする成長の過程であり、当然の行動です。むしろ反抗期がなかったら、ちょっと心配になります。
 私にも反抗期がありました。中学2年生ぐらいだったでしょうか。僅かに数か月ほどだったでしょうか、親父を殴り倒して終わりました。どんな理由だったか、もう覚えていませんが、ちょっとしたことで父親とけんかになった。口だけで終わらず、お互いに手が出た。勝てるなんて思っていませんでした。ところが、私の放った一発のパンチが父親の顔面にヒットして、親父がヨロヨロと後ろによろけたのです。瞬間、やばいと思いました。後ろでオロオロしながら父親を支え、ウル目で私を見上げている母親の顔を見て、私の反抗期は終わりました。自分が本気でやったら、父親の方がやばいのだ。そう感じた時、親は私にとって反抗の対象ではなく、労わりの対象になっていました。
 子供も親に従ってばかりではありません。反抗します。親子関係の色々な時期、段階があります。親としてできることは、「主を信じる者」として、キリスト者として誠実に生き続ける。その姿を見てもらう以外にないのだろうと思います。いや、それが最も大切な生き方の教育なのだと思います。

 主人と奴隷の関係とは、現代の私たちには縁遠いものです。クリスチャンなのに奴隷を使うのか、と思う方もいるかも知れません。ただ、当時の社会では奴隷制度が一般的でした。そして、奴隷が“物”として扱われていた当時としては、神の前に平等、奴隷は主人に「真心を込めて従い」(22節)、主人は奴隷を「正しく、公平に扱う」(1節)という教えはあり得ない、稀有(けう)のものであったと言うことができます。
 主人と奴隷の関係については時間の関係で多くは語れません。ただ、夫婦関係にしても親子関係にしても、主人と奴隷の関係にしても、その教えの核となっているのは、
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」(23節)という御言葉です。
 目の前にいる人を、主イエス・キリストだと思って対し、振る舞うのです。その心がけが少しでもできるなら、その人間関係は愛で潤います。
 私はこの御言葉からカトリックのシスターであったマザー・テレサのことを思い起こします。ほとんどの方がご存知かと思いますが、マザー・テレサは、インドのスラム街において活動し、貧しい人、行き倒れの人、病に苦しむ人を、その人の宗教に関係なくどんな信仰を持っている人でも助け、支える活動をしました。愛で包みました。そのマザーがいつも言っていたことは、目の前にいる人はキリストなのだ、小さなキリスト、苦しむキリストなのだ、ということでした。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)。
 このキリストの言葉を、マザー・テレサはいつも思っていたに違いありません。「人に対してではなく、主に対してするように」、私たちもこの御言葉を、どんな人との関係においても心に思いたいと願います。






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