2009年10月4日 礼拝説教
  聖  書  コロサイの信徒への手紙4章2〜6節
  説教者  山岡 創

「 塩味の言葉で語る 」

  パウロがコロサイの信徒に宛てて書いた手紙も、いよいよ結びの部分になりました。手紙の結びの部分では、このことだけはどうしても伝えておきたい、あるいはもう一度念を押しておきたい、と願う内容が語られることでしょう。そういう意味で、パウロがコロサイの信徒たちに伝えたかったことは何でしょうか? それは“祈りなさい”ということでした。2〜6節という短い部分に、「祈りなさい」「祈ってほしい」という言葉が3回も出て来る。そのことから、パウロがコロサイの信徒たちに、“祈りの生活”を強く勧めていることがよく分かるのです。

「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」(2節)。
 パウロはまず、こう言って信徒たちに祈りを勧めました。祈る上で大切なことは何か。「目を覚まして」「感謝を込め」「ひたすら」と三つのことが言われています。
 「目を覚まして」祈る、とはどういうことでしょう。皆さんの中には、布団の中で横になって祈る、という方もいると思います。私も夜、眠る前にそうすることがあります。でも、「目を覚まして」祈るというのは、布団の中で横になって祈ってはいけない、ということではありません。目を覚ましている、ということの意味が違います。
 ここで私は、主イエスがゲッセマネの園で祈られた時のことを思い起こします。捕えられ十字架に架けられる日の前夜、主イエスはいつも祈っていたオリーブ山のゲッセマネの園で、弟子たちと共に祈られました。その時、主イエスは弟子たちにこう言われました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(マルコ14章38節)。この主イエスの言葉から分かるのは、目を覚ましているということは、誘惑に陥らずに、ということです。どんな誘惑でしょう。それは、祈ることを妨げる誘惑です。弟子たちはこの時、眠気によって祈りを妨げられました。もちろん、私たちにとって祈りを妨げるものは、それだけではありません。
 祈りは、神を信じる者の生活の基本であることは、今更言うまでもありません。けれども私たちは、祈りの生活を様々な要素によって妨げられるのです。眠気や疲れが祈りを妨げます。忙しさが祈りを妨げます。この程度のことは祈らなくていいとか、こんなことは祈っても聞かれないといった不信仰が祈りを妨げます。祈っても無駄だという諦めが祈りを妨げます。祈らないことを仕方がない、と正当化し、自己弁護する理由はいくらでも付けることができます。「誘惑」という名の“悪魔”は、あらゆる要素を捉えて私たちを祈りから遠ざけようと心の中で働きます。
 そういう「誘惑」に打ち克って祈ることが、「目を覚まして」いるということなのです。誘惑に打ち克ってひたすら祈るためには、どうしたら良いのでしょう。私たちは、ゲッセマネでの弟子たちがそうであったように、自分の意志と力だけではできないと、つくづく思います。祈ることができるように、神さまに頼ること。まず“祈らせてください”“祈れるようにしてください”“祈る思いと力を与えてください”と心から願い、祈ることから始めることが必要なのではないでしょうか。

 次に「感謝を込めて」祈る、ということを考えてみましょう。神さまに救われて、支えられて生きている私たち、当たり前のことではないかと思われるかも知れません。けれども、祈りが「感謝」ではなく、“‥してください”という“願い”ばかりになることが、私たちの祈りには少なからずあるのではないでしょうか。
 “祈りを願いから救い出さなければなりません”と言った牧師がいました。そうだなあ、と思います。もちろん、お願いの祈りをしてはいけない、ということではありません。けれども、お願い中心の祈りは、つまり“自己中心”の祈りだ、ということです。自己中心の祈りと信仰は、叶った時は良いけれど、自分の願ったように行かなければ、神さまへの不満を心に生みます。その不満が祈りを妨げ、延いては信仰をだめにします。
 「感謝を込めて」祈るということは、そういう自己中心の信仰と祈りを脱する、ということです。それは別の言い方で言えば、自己中心から神中心の生活へと変わっていくということです。“自分にとってどうか”だけでなく、“神さまにとってどうか”と考えてみる。“自分の願いどおりに”ではなく、“神さまの御心のままに”と考えてみる。神さまが御心のままに、救いの「ご計画」に沿って、私を最善に導いてくださる。その信仰で自分の生活を、自分の人生を見直してみると、今まで気づかなかったことにも、マイナスだと思っていたことにも、「感謝」が生まれて来ます。そういう感謝を見つけることから始める時、私たちの祈りは、神中心の「感謝を込め」た 祈りに変えられて行きます。

 「ひたすら」祈る。信仰は、毎日の信仰生活の積み重ねであり、生涯をかけてその道を歩くものです。だから、ひたすら祈る。祈り続ける。俗に“継続は力なり”と言いますが、どうぞ毎日の祈りを継続し、積み重ねてください。祈りの積み重ねによって、神の聖霊が働き、私たちの人生を支える信仰の力が養われるのです。その際、ぜひ聖書の御言葉を読むことと祈ることをワン・セットにして、行うことをお勧めします。
 今朝、こどもチャペルの〈弟子組(4〜6年)〉の分級活動で、メモ・スタンドを配りました。昨日100円ショップに探しに行きましたら、うまい具合に、木彫りの羊の台の上に、メモを挟むクリップの付いたメモ・スタンドが売っていました。なぜ、そのようなものを子供たちに配ったか。こどもチャペルでは毎月初めに、その月の聖句カードを配って暗誦します。そのカードをメモ・スタンドに挟んで、テーブルの上や自分の机の上において、毎日その聖句(御言葉)を読んでほしい。そして、以前に朝の祈り、夜の祈り、食前の祈りというしおりを作りましたが、聖句を読んで、そのしおりを見てお祈りする生活を、子供たちにも毎日してほしいと願っているからです。
 御言葉と祈りの生活は、子供たちの胸の内にも、きっと信仰を生みます。養い育てます。皆さんもぜひ御言葉と祈りの生活をなさってください。御言葉に聞かずに祈ると、自己中心な、お願いばかりの祈りになりがちですが、御言葉を読んで祈れば、“その御言葉を通して、神さまは今日、何を私に求めているのだろう?”と考えて祈ることになるので、神中心の「感謝を込め」た 祈りをささげることができるのです。

 「祈りなさい」。パウロはコロサイの信徒たちに祈りの生活を勧めました。そして同時に、祈りにおいて、自分のためにも祈ってほしいと願っています。
「同時にわたしたちのためにも祈ってください」(3節)。
「わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください」(4節)。
 自分のためではなく、だれかのために、他者のために祈る祈りを“執(と)りなしの祈り”と言います。執り成しの祈りは、神と自分と他者の三つを結びつけ、その関係を深めます。だれかのために祈るということは、その人と無関係・無関心にならず、その人の生活を深く思う、ということです。その祈りが自分のためになされていることを知る時、私たちは励ましと慰めを与えられ、心が強められます。その心に神の聖霊が働き、私たちの信仰は強められ、成長させていただくのです。
キリストの福音を宣(の)べ伝えたために、社会騒乱罪で牢に捕えられていたパウロは、コロサイの信徒たちの、心からの執り成しの祈りを強く願っていました。「キリストの秘められた計画を語ることできるように」(3節)、つまり神の救いを宣べ伝えることができるようになるためです。
 私もまた、皆さんの執り成しの祈りを必要としています。どうか私がキリストの福音を伝道できるように、教会を治めることができるように祈ってください。心が弱まる時、必要なのは、祈られている、祈りによってつながっているという勇気です。
 先日28日(月)〜29日(火)にかけて、教団の伝道委員会の働きで北海道に行きました。2日目にO教会を訪れ、午前中、議案を協議し、その後で教会の方々と共に祈祷会を行いました。祈祷会に先立って、O牧師が教会の歩み、特に近年の会堂建築についてお話しくださいました。2008年、新会堂が完成し、喜びをもって新たなスタートを切った。ところが、1年後の今、思いがけない試練に遭っていることを話されました。教会員の召天、病気による入院、家族単位での転勤等が次々と起こって、会員と礼拝出席が激減してしまったと言うのです。O牧師は不安の内に非常にお悩みになった。しかし、先輩牧師の“3年我慢したら回復するよ”という言葉に励まされ、今はこの試練を信仰が養われる鍛錬の時と受け止めている、と語られました。そして、今この時、伝道委員会の皆さんがお訪ねくださり、共に祈ってくださるのは、時宜にかなった、大きな励ましであり感謝します、と言われました。
 私もO先生のお話、お気持、とてもよく分かる思いでした。私たちの教会も2005年に会堂建築を果たしました。順調に歩んで来たと思いますが、ここ1〜2年、やはり教会員の入院、召天、礼拝出席者の移動等が続き、激減とは言いませんが、似たような状況に陥っているからです。私も大きな不安を感じていました。N牧師から言われた“今は階段の踊り場にいるのよ”という言葉に慰められました。今も不安がないわけではありません。どうぞ皆さん、私のために祈ってください。私が力いっぱい、伝道ができるように、牧会ができるように祈ってください。

 パウロはコロサイの信徒たちに祈りの生活を勧めました。祈りは信仰を内から強めます。そして、福音を宣べ伝える伝道の意欲を一人一人の内に生み出します。
 パウロは、福音を語る時、証しをする際に、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」(6節)と勧めました。
 ユダヤ人は食事において非常に塩味を大事にしたと言われる民族です。塩味の言葉とは、どんな言葉なのでしょうか。私たちは“辛口”の言葉をイメージするかも知れません。確かに、人に対して辛口の言葉も時には必要でしょう。けれども、辛口の言葉ばかり語っていると、人の心を傷つけ、相手から“あの人の言うことは正しいのだけれど、きつい”と、うとまれる場合が少なからず出て来るでしょう。
 塩というのは、味の加減を調整する力を持っています。甘味を増し、酸味を和らげます。塩で味付けられた言葉というのは、その時々の相手の気持、状況、事情などを考えて加減した言葉、配慮した言葉を語るということではないかと思います。それによって、相手との関係も調整され、和らぎ、平和な信頼関係が築き上げられて行きます。クリスチャンとして生きている自分が、相手から受け入れられ、“クリスチャンって、こういう配慮と優しさを持っている人なんだ”と信頼されるようになります。それが何よりの伝道、証しではないでしょうか。
 主イエスもこう教えられました。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」(マルコ9章50節)。
 塩味、それは“愛の味付け”なのだと思います。愛をもって祈り、愛をもって語りましょう。





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