2009年11月15日 信徒証し礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書12章8〜12節
  説教者  山岡 創

「 イエスの仲間と言い表す 」

 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」(8節)。
 本日は信徒証し礼拝を迎えました。証し者として立てられた三井貞子さんを通して、その50年以上に渡る信仰の人生の中で、喜びと悲しみの中で、神さまから与えられた恵みを伺うことができ、感謝をします。
 信徒が神の恵みを証しする。それは、信徒が伝道する、ということです。そして、信徒が伝道するということはまず、自分がクリスチャンとして生き、クリスチャンであることを明らかにすることから始まると言っても良いでしょう。

 “わたしはクリスチャンです”。私の知り合いに、自己紹介等の際に、人前で必ずそのように言います、という人がいます。それは8節の御言葉にあったように、「自分をわたし(イエス)の仲間であると言い表す」ということだと言って良いでしょう。
 けれども、私たちは何となく、自分がクリスチャンであることを明らかにしたくない、人前で敢えて隠しているというようなことがないでしょうか。例えば、自分はクリスチャンです、と明らかにして、“あの人、あれでもクリスチャン?!”と思われたら恥ずかしい。胸を張れるような立派な信仰生活をしていないから言えない。‥‥そんなことを考えておられる方もいるかも知れません。あるいは、日曜日に友人から誘われて、“自分はクリスチャンだから失礼します”と言うべきところを、明らかにせずに遊びに行ってしまったということもあったかも知れません。いつでもどこでも言わねばならないというわけではないと思いますし、どうしても言えない事情がある場合もあるかも知れませんが、しかしクリスチャンであることを明らかにすべき時がきっとあります。
 先日、私も、自分がクリスチャンであることを明らかにする場面がありました。高麗川を渡ってすぐのところに畑を借りることにしまして、お世話をしてくださる人に伴われて、畑の地主さんのところに挨拶に行きました。そこで話をしているうちに“お仕事は何ですか”と職業の話になりまして、私は最初、牧師だと言わずに、“自由業です。一人で仕事をしているので、割りと自由が利きます”と答えました。と言うのは、古くからの地域の方なので、キリスト教の牧師だと言ってキリスト教嫌いの方だったら、これから畑を借りようとしているのに拙いかな、と思ったからです。
 でも、何か自分を誤魔化したような、神さまに済まないような気持になりまして、話の流れの中で、実は私は泉町で教会の牧師をしていますと、もう一度お話ししました。そうしたら“ああ、あのいずみ眼科のそばの。どうりで‥”と、何事もなく受け止めてくださいました。私は、よかった、よかった、と思って帰って来ました。
 けれども、今日の御言葉によって、自分をクリスチャンです、主イエスの仲間です、と言い表すことは、そんなに軽いことと思ってはいけない、大切なことなのだということを知らされました。先の御言葉のように、自分は主イエスの仲間であると言い表す者には、主イエスもご自分の仲間だと言ってくれる。「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」(9節)というのです。
 例えば、主イエスとの関係を、普通の人間関係のレベルで考えてみて、普段友達だ、仲間だと言って仲良くしていたのに、いざと言う時に、自分の都合や損得や保身を考えて、知らないと言うとしたら、相手はそれをどう感じるでしょうか。裏切られたと思うに違いありません。そうしておいて、立場が逆になった時に、自分のことを仲間と言ってくれ、というのは余りにも虫が良すぎるでしょう。
 自分のことを考えたら、私たちは最後まで相手を仲間だと言い続けることはできないのです。相手の気持を考え、その相手に最後まで誠実であろうとする誇りが、友情が、愛があって初めて、私たちは最後まで仲間であり続けることができるのです。
 主イエスとの関係も同じではないでしょうか。自分のことを考えたら、主イエスの仲間であると、クリスチャンですと言えないことがあるのです。しかし、その時、主イエスが仲間として、友として悲しんでおられるその痛みを思う時、イエスを否定する自分の不誠実さを思う時、私たちの心に「聖霊」が働いています。その悔い改めがある時、私は主イエスの仲間です、と人々の前で言い表す勇気が湧いてくるでしょう。

 ルカによる福音書が書かれた当時のクリスチャンたちは、厳しい迫害の下に置かれていました。皇帝を神として崇拝せよ、というローマ帝国の宗教政策に反して、ただキリストのみを神とするクリスチャンたちは、捕えられ、裁判にかけられました。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは」(11節)という御言葉は、そのような裁判の場面を表しています。その法廷において、自分をイエスの仲間であると言い表すか、それとも、イエスを知らないと言うかが問われたのです。命にかかわる極限状況での信仰の答えを求められたのです。
 そのような時、当然大きく動揺するわけですが、しかし、「何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(11〜12節)と主イエスは約束し、励まされています。
 聖霊に任せなさい、と言うのです。神さまにゆだねなさい、と言うのです。裏を返せば、自分の力に頼ろうとするな、と言うことです。信仰の基本です。
 私たちは、自分の力でクリスチャンであろうとするから、イエスの仲間であると言い表せないのです。自分の力で立派な生活をしようと思うから、性格や欠点を直そうと思うから、だめだと落ち込んでしまうのです。自分を良く見せようと思うから言えないのです。「人々の前で」言い表すためには、人々の前ではなく、“神の前”を思う必要があります。主イエスの約束と励ましを思うことです。
 “それでもクリスチャン!?”と思われても良いではありませんか。“これでもクリスチャン”と胸を張りましょう。開き直れ、と言っているのではありません。それでもクリスチャンと思われるような私たちが、神さまに赦されて、主イエスに愛されているから、これでもクリスチャンでいられる、ありがたいというのが、私たちの現実であり、また信仰のはずです。だから、“これでもクリスチャン”であるということは、開き直るのではなく、こんな私でも赦され、愛されている感謝と謙遜を意味しています。その感謝と謙遜の思いがあるなら、私たちは、クリスチャンですと、主イエスの仲間ですと言い表すことができます。
 聖霊に助けられて、神さまに愛されて、これでもクリスチャン。ありがたいことです。その感謝と謙遜が、何よりの証しなのです。






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