2009年11月22日 礼拝説教
  聖  書  ヤコブの手紙1章9〜11節
  説教者  山岡 創

「 高くされる誇り、低くされる誇り 」

 聖書の舞台となったパレスチナ。そこは雨の降る時期と降らない時期とがはっきりと分かれています。雨が降ると、それまでは何も生えていなかった不毛の地面に、芽が出て、草が伸び、一面に美しい花が咲き乱れます。けれども、雨が途絶え、東南のアラビア砂漠の方から「熱風」が吹きつけると、地を覆っていた草花が一夜にして枯れてしまうのです。
 パレスチナに住む人々は、そのことを経験として、実感として知っていました。ヤコブもそのことを知る一人として、手紙の中に書いています。
「日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます」(11節)
 ここで、ヤコブは草花のことを問題にしているのではありません。人の人生、人の生き方を問題にしています。
「富んでいる者は草花のように滅び去るからです」(10節)。
「同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです」(11節)。
富んでいることを誇りにしていると、それはパレスチナの草花のように一夜にして滅び去り、頼るものを失ってしまうことを警告しているのです。

 この言葉から、私は、主イエスがルカによる福音書12章でお語りになった〈愚かな金持ちのたとえ〉を思い起こします。
 ある金持ちの畑が豊作でした。でも、その大豊作の収穫をしまっておく場所がない。金持ちはどうしようかと考えて、今ある倉を壊して、もっと大きな倉を建てることにしました。そして、新しく立てた倉に収穫だけでなく財産もすべてしまい込み、さあ、これで一生楽しんで、左うちわで生きていけるぞと、ほくそ笑むのです。
 ところが、その夜、神さまはこの金持ちに言われました。
「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものはいったいだれのものになるのか」(12章20節)。
 もちろん、「富んでいる者」が必ずしも「人生の半ばで消えうせる」わけではありません。富んだままで一生を終える人もいるでしょう。
 けれども、この主イエスのたとえ話のようなことが現実に起こり得るのです。せっかく富を築いて来たのに、人生の半ばで命を召されることがあるのです。あるいは、命があっても、築き上げた富や地位や名声を一夜にして失うことがあるのです。私たちは、今日においてもそのような例を見て、知っているでしょう。自分はそんなことにならないと思っていたら大間違いです。実際に失った人々だって、失おうと思って失ったわけではありますまい。思わぬところで失敗し、挫折する。自分のせいではないのに失う。人生とはそういうものではないかと、ヤコブは草花の譬(たと)えにかけて、私たちに語りかけているのです。そして、その語りかけの意味をもう一歩進めるならば、そのように滅び去り、失うかもしれない富に、自分の人生をかけて誇りにしていて良いのか、自分の人生の土台をそこに置いていて良いのか。ヤコブはそのように問いかけていると言って良いでしょう。
 カトリックの司祭で井上洋治氏という人がいます。この人はずいぶん多くの著書をお書きになっていますが、『人はなぜ生きるか』という著書の中で、次のように書き記しておられます。
 井上洋治氏が、ある出版社から〈人生で一番大切なこと〉というタイトルで執筆を依頼されたことがありました。そのことを思い巡らして過ごしていた時、一人の若い女性から手紙が舞い込んで来た。その手紙は、その女性が交通事故を起こして、顔に大やけどを負ってしまった。それ以来、苦しみの連続で辛くて仕方がない、もう死んでしまいたい、というような内容の手紙であったそうです。井上氏のところには、見ず知らずの方からそのような手紙が少なからず届くそうですが、その手紙を読んだ時、〈人生で一番大切なこと〉について、ハッとひらめくものがあった。そして、井上氏はこのように語っています。
  私たちは、健康にしろ、財産にしろ、友情にしろ、家庭にしろ、たくさんそういう大切なものを持って、またそういった大切なものに支えられて生きているわけですけれども、いざそういうものを失ってしまったときに、価値のある大切なものを失って色あせてしまったときに、その色あせ挫折してしまった自分、を受け入れることができる心というもの、それが考えてみれば人生で一番大切なことではないかと思ったのです。
(『人はなぜ生きるか』9頁)
 財産(富)に価値がないと言うのではない。地位や名誉、健康や友情、家庭が大切ではないと言うのでもない。むしろ、それは私たちにとって価値のある、大切なものです。私たちは、これらのものを求めて生きています。求めること自体は何も悪いことではありません。
 ただ、これらのものは失うことがある。失った時に、これらのものに自分の人生をかけて、一番頼りにして生きていたら、絶望してしまう。生きる力を失ってしまうのです。だからこそ、失うことのないもの、消え去ることのないものを、人生で一番大切なものとして求めなさい、と井上氏は語りかけているように思えます。それが、色あせ、挫折してしまった自分を受け入れることができる心だと言うのです。
 そのような心は、どのようにして私たちの内に養われるのでしょうか。井上氏は、その著書の後の部分で、自分が人生の主(支配者)として、“自分が自分の力で生きている”という生き方ではなくて、神が私の人生の主になって、自分は従う者になる、そういう生き方をすることによって、この心は養われると記してられます。一言で言うならば、“信仰”によって養われる、ということでしょう。神の言葉を信じて受け入れる信仰によって、です。

 ヤコブは、神の言葉として、こう書いています。
「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい」(9節)。
 当時、貧しいか富んでいるかという状態は、社会的ステータス、身分と結びついていました。当時、地中海周辺の世界を支配していたローマ帝国は奴隷制社会でした。貧しい者と言えば奴隷が大半だったでしょうし、富んでいる者と言えば貴族や市民権を持つ自由人に多かったのです。だから、当然のこととして貧しい者は社会の中で見下げられ、富んでいる者は尊敬されたのです。社会的身分と経済的貧富の現実、それが人間の値打ちを測る物差しのようになっていました。
 ところが、教会においては、そうではない価値観が教えられたのです。社会的身分と経済的貧富の現実に関係なく、人は神に愛されている存在として、等しく神の子であり、主イエスの兄弟姉妹であり、新たにやって来る神の国の相続者であると語られました。だから、社会的に見下げられていた貧しい人々は、神の目から見れば、神の子として高められる。反対に、社会的に高く評価され敬われた富んでいる者は、神の子として低くされたのです。人間として、神の前に等しい者とされたのです。
 だから、奴隷や身分の低い者、貧しい人々が喜びを見いだして、数多く教会に集まりましたし、また、身分の高い、富んでいる人でも、その教えに謙遜の美徳や人としての本来的な生き方を感じた者は信仰の道に入りました。実際に、奴隷でありながら教会では教える立場にいる教師がおり、その奴隷の主人が一信者であり、その教えを聞くというようなケースもあったそうです。当時の社会では考えられない現実でした。

 それにしても、自分が高められるのを誇りに思う、というのはまだ分かりますが、自分が低くされることを誇りに思う、というのは、私たちには分かりにくい感覚であるかも知れません。
 「誇りに思う」というのは、自慢するということではありません。光栄に思う、喜ぶといった気持です。だから、身分の低い人が神の子として高められたからと言って、自慢したり、驕ったりするようでは、浅い受け取り方だと言わねばならないでしょう。
 それは、高められるにしろ低くされるにしろ、人間の本来的な価値観を発見したことに対する深い喜びなのです。井上洋治氏の言葉を借りて言えば、“人生で一番大切なもの”を見つけた喜びなのです。神に愛され、神に生かされる人間として生きる。その生き方に光栄を感じる、神の子として生かしてくださる神の計らいに喜びを感じることなのです。
 私たちは、どんな時に自分を高く評価し、誇るでしょうか。また、どんな時に自分を低く評価し、劣等感を持つでしょうか。
 私たちは、何かを“持っている”時に自分を高く評価し、誇ります。財産を持っている。地位を持っている。学歴を持っている。名誉を持っている。権力を持っている。能力を持っている。そういう時に自分を高く評価します。
 また、何かが“できる”時に自分を高く評価します。仕事で成功する。勉強やスポーツで良い成績を取る。人を助けたり、社会に役立つようなことをする。他の人ができないこと、しないことをする。そういう時に自分を誇ります。
 そして反対に、そういったものを持っていない時、できない時は、自分を低く評価し、自信を失い、劣等感を感じるのです。
 しかし、それは私たち人間が本来持っている値打ちではありません。後から付けた付加価値です。
 人は、持っているかいないか、できるかできないかに関わらず、神さまから命を与えられ、生かされて、そこに“在る”という存在そのものに、命そのものに大きな価値がある、意味がある。それが人間の本来的な価値であり、そのことに目覚めて生きることが、神の子として生きるということなのです。Doing(行う)な存在ではなく、Being(在る)な存在として、神に愛されて“ここに在る”。 そのことに大きな喜びと光栄を、人生で一番大切なものを見いだしている生き方が、あるいは高められることを誇りに思い、あるいは低くされることを誇りに思うということなのです。
 この信仰は、草花のように枯れ、消え失せてしまうようなものではありません。変わらないもの、消え失せないものを目指して歩みたく思います。





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