2009年12月24日 キャンドルサービス説教
  聖  書  ルカによる福音書2章1〜20節
  説教者  山岡 創

「 地には平和、御心に適う人に 」

 クリスマス、おめでとうございます。今宵、私たちは2009回目のクリスマス・イヴを迎えました。救い主イエス・キリストがユダヤにお生まれになって、既に私たちは2009回ものキリストの誕生祭を祝って来たことになります。
 最初にクリスマスを喜び祝ったのは、羊飼いたちでした。彼らはその夜、天使のお告げを聞いたのです。そして、「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(16節)と言います。それは言い換えれば、天使たちが告げたとおり、「いと高きところ(天)には栄光‥‥‥地には平和」(14節)を探し当てたということでしょう。人生において“救い”を探し当てたということでしょう。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)。
 この天使の賛美は、2千年来のクリスチャンの願いであり、祈りであると言えます。その栄光と平和の片鱗(へんりん)でも探し当てること、その僅かな一端でも実現することが、クリスマスを祝うということの本当の意味でありましょう。
 そのクリスマスの意味を、今宵、皆さんとご一緒に、改めて考えてみたいのです。

 ところで、皆さんの中には、昨年のこどもチャペルのクリスマス会を覚えている方も多いと思います。礼拝の後のお祝いで、小学生の子どもたちが、劇〈クリスマス・キャロル〉をミュージカル風に演じました。子供たちの熱演とその内容を、印象深く覚えている方も少なくないでしょう。
 今年、そのクリスマス・キャロルが、ディズニーによって映画化されました。我が家でも早くから、ぜひ見に行きたいね、と話し合っていましたが、昨日、思い切って我が家の3人の子供と一緒に、ワカバウォークのシネプレックスに見に行ってきました。とても良かった。楽しい、すばらしい映画でした。
 スクルージという、金儲けのことばかり考えている50代後半の男が主人公です。スクルージは大変なお金持ちでしたが、とにかくケチで、会社の暖房費は節約、たった一人雇っているボブも安い給料でこき使い、慈善の寄付も一切しない。おまけに他人と交流しようとせず、心を閉ざして生きている人間でした。
 そんな彼のところに、1842年のクリスマス・イヴのこと、7年前に死んだ会社の共同経営者であったマーレイという男が、幽霊の姿になって訪ねて来たのです。見るとマーレイは、重そうなおもりの付いた鎖を何本も引きずっていました。それは、彼が生きている時に、他人のことを考えず、愛(優しさ)を持たずに過ごした結果でした。そして、マーレイは、今は見えないだろうが、お前の体にも既に自分よりも何倍も長く、重い鎖が巻き付いている、とスクルージに告げるのです。その鎖からお前を救ってやる。今夜、お前のところにやって来る3人の精霊の言うことを聞け。そう言ってマーレイは去って行きます。
 ベッドの中で恐怖に震えるスクルージ。その時、真夜中の1時の鐘が鳴ります。すると、ローソクの炎のような精霊が現われました。その精霊はスクルージに、彼の過去のクリスマスを見せました。友だちが喜び祝って遊んでいる中で、独り教室にポツンとしている子供のスクルージ。やがて青年になり、クリスマス・パーティーで、愛する女性とダンスする喜びにあふれたスクルージ。その後、仕事の虫になり、金の亡者のようになって、婚約していた彼女と別れることになったスクルージ。そこでスクルージは耐えられなくなり、過去の精霊にトンガリ帽子をかぶせて消し去ります。
 するとすぐに2人目の精霊が現われました。まるで王様のような姿をしています。その精霊はスクルージに、現在のクリスマスを見せます。彼が雇っているボブの貧しいクリスマスの食卓が映りました。ボブの妻や娘たちが食事の用意をしています。そこへ、一番年下の息子ティムを肩車してボブが戻って来ました。肩から降ろされたティムは足を引きずり、杖を使わないと歩けません。何かの病気で、貧しいために医者に行くこともできず、やがてティムは死んでしまうことを精霊から教えられ、スクルージは心を痛めるのです。何とかできないのですかと精霊に訴えるスクルージに、精霊は、彼自身が慈善の寄付を集める人に言ったのと同じ言葉で答えます。“無駄な人口が減っていい!”。
 その精霊がまるで塵(ちり)のようになって消え去ると、3人目の精霊が現れます。まっ黒な影の形をしていました。その精霊は未来のクリスマスをスクルージに見せます。3人の男がクリスマスの日に死んだある男の悪口を言っていました。あんな男の葬式にはだれも参列する者はいなだろう、というのです。続いて、年を取った男女2人が、死んだ男の家からカーテンなどをくすねて来たとニコニコしながら、やはり死んだ男の悪口を言い合っていました。そして、ベッドに横たわっている死んだ男が示されます。白い布が掛けられていて顔は分かりません。しかし、スクルージは恐ろしさに震えながら、半ばそれが誰なのか分かっていながら、精霊に尋ねます。あれはだれですか?と。すると、場面が変わり、墓場になります。一つの墓の前にスクルージは立たされました。そこにはまぎれもなくスクルージの名前が彫り刻まれていました。スクルージは精霊に叫びます。“こんなクリスマスは嫌だ!精霊よ、生き方を変えれば、未来のクリスマスは変えられるのか?そう言ってくれ!”と。そう叫びながら、スクルージは墓穴の中に飲み込まれて‥‥‥もう終わりだ!と思ったところで目が覚めるのです。
 いつものベッド、いつもの部屋。スクルージは小躍りします。その日は12月25日クリスマスの朝でした。まだ間に合う。一体何から始めようか? スクルージは考えて、まずボブの家に、クリスマス用の七面鳥を送り届けることにします。それから、町に出て道行く人々と“クリスマスおめでとう”と挨拶を交わし、賛美を歌い、施設へ多額の寄付を約束します。夜になると、スクルージは今まで一度も行ったことのなかった甥の家に、クリスマスの食事に出かけて行きます。そして翌日、会社にやって来たボブに、“さあ、部屋を暖める石炭を買ってきてくれ。それから、これからはお前の給料も倍にしよう”と言うのです。そう言われて、石炭を買いに出たボブが、スクルージは稀に見る慈悲深い人間に変わったと締めくくりのナレーティングをして映画は終わりました。

 この映画を見ながら、私は幾つかの言葉が心に残りましたが、その中の一つ、ボブの息子、足の悪いティムが言った“神さまのお恵みを、すべての人々に!”という言葉が、今日の聖書の御言葉にある「地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)という天使の賛美と重なるように感じました。
 そして、この「地には平和」という願いは、私たちが“神さまがやってくれる”と、任せっ放しにしておけば、なるものではないと思うのです。もちろん、神さまに祈らずに、自分の力だけでしようとしてはなりません。けれども、地には平和を実現するために、自分が何をすればよいか? そのことを神さまに祈り、神の御心を尋ねて、自分にできることを実行していく。そこに平和が実現していくのではないでしょうか。
 欲張りで自分のことしか考えなかったスクルージは、他人のことを考え、明るく挨拶し、笑いかけ、優しくしたり、自分の財産を寄付したりと、慈しみと愛の心を持つことで、神さまのお恵みを、すべての人に、少なくとも彼の周りにいる人々に実現しました。そのように私たちも、得ることよりも与えることを考えながら、地に平和を実現する者でありたいと思います。
 聖書の中に、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20章35節)という御言葉があります。神は、ご自分のすべてと言っても良い独り子キリストをこの世に、私たちの救いのためにお与えくださいました。私たちも、その神の愛に気づいて、応えて、他人に対する愛と慈しみを持って生きる生き方を始めましょう。そこに小さな平和が実現し、神の栄光が輝きます。クリスマスが実現します。





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