2009年12月27日 礼拝説教
  聖  書  ヤコブの手紙1章12〜19節
  説教者  山岡 創

「 良い贈り物が来る 」

 年の暮れを迎えて、私たち日本人には、お世話になった方にお歳暮を贈る習慣があります。本当にお世話になった方には、やはり何かお礼を、お返しをしようと私たちは思うでしょう。それが、贈り物という形になります。心を込めて、少しでも「良い贈り物」をしたいと考えます。
 ところで、このクリスマス、私たちは父なる神さまから、とても良い贈り物をいただきました。それは、言うまでもなくイエス・キリストです。今日の礼拝の招詞にもありました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章16節)。
 私たちをお造りになった神さまは、私たちを愛しておられる。その愛を知らないまま、罪の中で私たちに滅んでほしくない。神さまを信じ、神の愛の内に生きる命を、「永遠の命」を得させたいと願っておられる。そのために、ご自分と一心同体の独り子イエス・キリストをこの世に、私たちのもとに贈り物としてお贈りくださったのです。今日の聖書の言葉で言えば、私たちが「命の冠」(12節)を得られるような生き方をするために、イエス・キリストをくださったのです。

 そのように神さまは、私たちが「永遠の命」を得るために、「命の冠」を得るために、「良い贈り物」(17節)を与えてくださいます。私たちが、愛と平和、信頼と希望といった人生の深いコクを味わうことができるように、様々な贈り物をくださいます。
 けれども、その贈り物は私たちの目から見て、いつもいつも「良い贈り物」として来るわけではありません。むしろ、私たちの目には悪い贈り物として感じられることが少なからずあります。健康だったのに重い病気になってしまった。仕事に失敗し、財産を失ってしまった。不況のさなか、リストラされてしまった。望んでいた学校に合格できなかった。好きな相手と結婚することができなかった。夫婦関係や親子関係がよじれ、家庭が壊れてしまった。愛する者と死別し、失ってしまった。新しい環境に順応できず、自分を見失ってしまった。‥‥‥そういったことが多かれ少なかれ、だれの人生にも起こります。苦しくて、悲しくて、切なくて、腹立たしくて仕方がない。思わず“神さま、どうしてですか?!”と叫びたくなる。そのような人生の「試練」(12節)を与えられることが少なからずあるのではないでしょうか。
 そのような試練に遭うと、私たちはしばしば、人生のマイナス方向へと誘われます。勇気と希望を失いかけます。絶望や諦めへと傾きます。他人への優しさを忘れます。そして何より、神さまに対する信頼を失うのです。
 人生の試練に遭って、“神さま、なぜですか”と心の中で叫ぶのは、私たちの当然の人情でしょう。しかし、その叫びは良い方向にも悪い方向にも、どちらにも傾く可能性があります。ともすれば、その叫びは神さまに対する疑いとなり、遂には“このように私の人生をなさったのは神さまだ。神さまは私のことを愛してなどいなかったのだ。見捨てられたのだ”と、信頼を失ってしまうことになります。そのような私たちの気持が、「神に誘惑されている」(13節)という言葉に表されています。
 人は試練に遭うと「神に誘惑されている」と思うことがあると、ヤコブは言います。それは、何か良くないこと、悪いことが起こると、私たちは、だれかのせいにしたがるということです。
 旧約聖書・創世記のはじめに、神さまが天地を創造される物語がありますが、その中で、最初の人アダムとエヴァはエデンの園で、神さまから食べるなと禁じられていた木の実を食べてしまいます。へび にそそのかされ、誘惑されたのです。その罪が神さまに見つかり、とがめられた時、アダムは“女がくれたので食べました”とエヴァのせいにします。続いてエヴァが問われると、彼女は“へび がだましたのだ”と、へび のせいにしました。二人とも“わたしが悪(わる)うございました”とは言わない。しかも、アダムの言い訳は、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3章12節)と、しっかり神さまのせいにもしています。
 「神に誘惑されている」。そういう責任転嫁の傾向を、私たちは本質的に持っているということを、この物語は示しています。
 けれども、ヤコブは教えます。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです」(13節)。
 試練に遭ってマイナス方向に傾いて行く自分を、「神に誘惑されている」と言うようになったら、そこにはもはや信仰の心がなくなりかけています。そうなったらお終いでしょう?とヤコブは言います。試練に遭う時、神さまを信頼していると、苦しみは半分になる。しかし、信仰が中途半端で信頼していないと、苦しみは2倍になる。そのように言った人がいますが、まさにそうだと思います。信頼なしに、「試練を耐え忍ぶ」(12節)ことはできません。
 ヤコブは、人生がマイナス方向へ傾く原因を、私たち自身の内側に見ています。
「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆(そそのか)されて、誘惑に陥るのです」(14節)。
 へび のせいではない。悪魔のせいでもない。まして神さまのせいではないのです。私たちの内にある「欲望」が、言い換えれば私たちの“自己中心さ”が、私たちを諦めと不信頼、絶望や投げやりといったマイナス方向へと引っ張るのです。「命」の人生ではなく、「罪」と「死」の人生を生み出すのです。いや、聖書的には悪魔のせいだ、サタンのせいだと言っても良い。しかし、その悪魔、サタンとは、私たちの外にあるものではなく、私たちの内に自分自身のものとしてあるということ、自分の欲望、自己中心さの象徴であることを忘れてはなりません。そういう自分を見つめることなしに、いつも何かのせいにしていたら、私たちは神さまと出会うことはできないでしょう。

「思い違いをしてはなりません」(16節)と、ヤコブは注意します。神さまが誘惑なさっていると思い違いをして、神さまのせいにし、神さまへの信頼を失うことのないように、と言うのです。神さまは私たちに誘惑を与えない。悪いものを与えはしない。そではなくて、良いものをくださるのです。
「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(17節)。
 父なる神さまは、私たちに「良い贈り物」をくださるのです。それが、神の御心です。私たちを愛しているからです。独り子キリストを与えてくださるほど愛しているからです。この神の御心を信頼することが、信仰の始めであり、また終わりなのです。信仰の基本であり、またすべてなのです。
 主イエス・キリストは、マタイによる福音書7章で、次のように教えておられます。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。‥‥‥あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(7〜11節)。
 私たちは、我が子に「良い物」を与えようとします。愛しているからです。同じように、いやそれ以上に、私たちをお造りになった父なる神さまは、私たちに「良い贈り物」をくださらないはずがない、なぜなら私たちを愛しておられるからだ、とキリストは私たちに、神さまへの信頼を教えています。
 それでも、私たちの人生には現実に、失敗や挫折があります。苦しみや悲しみがあります。「試練」があります。
 カトリックのシスターである渡辺和子氏は、その著書『愛することは許されること』の中で次のように記しています。
 氏が学長をしておられるノートルダム清心女子大学の卒業生から手紙が届いた。“祈り続けたら、その祈りは必ず神さまに届くのでしょうか。私は今、とても切なく、辛いのです”。その手紙に“祈り続けたならば、その祈りは必ず神さまに届くと思います。でも、「届く」ということは必ずしも、願ったことが「叶えられる」ということではありません”と返事を書きながら、渡辺氏は、次のように書いています。
  ‥‥天の父は、人間が願ったことをそのまま叶えることをもって、ご自分の、その人に対する愛のあかしとはなさらないようなのです。なぜといって、私たちはいつも、“欲しいもの”を願っているからであり、神が私たちに叶えてくださるものは、“必要なもの”だからだと思います。
 母親を交通事故で亡くした人は、母親にもっと生きていてほしかったのでしょうが、多分、この人にとって、母親の死が“必要”だったのでしょう。祈り続けているのに、その願いが叶えられない人には「切なく辛い思い」をすることが、これまた“必要”なのでしょう。それが必要だったと理解できるのは、まだまだ先のことになると思います。信仰というのは、その間の“闇の時間”を、光の存在を信じながら生きることと言ってもよいかも知れません。(領収書の祈り、より)
 その闇との戦いの辛さをしみじみと語りながら渡辺氏は、人間が人間として成長してゆくためには、挫折や悲しみ、苦しみを重ね、それらもまた大切なもの、必要なものとして乗り越えてゆかないといけないと記し、挫折と苦しみの果てに“求めたものは何一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた”と悟ったJ.ロジャー・ルーシーという神父の詩を引用されます。そして、最後にこのように記します。
  「くださるものをいただく、しかも、ありがたくいただく」、このような心で祈る時、その祈りは必ず、神に“届く”と思うのです。届いたということは、決してそのことがそのまま叶えられる結果になるということではなくて、神がその時、その人にとって一番“善いこと”をしてくださるということなのです。‥‥‥
   “請求書の宗教”ではなく、“領収書の宗教”を持って生きてゆきたいと思います。「ください。ください」と欲しいものをやみくもに願うことが真の祈りなのではなく、「確かにいただきました。ありがとうございました」と、神のくださるものを一つ一つ、しっかりいただいて感謝する“心”こそを、私たちは真に祈り求めるべきなのでしょう。
 神さまがお造りになった天体という光には、「移り変わり」や「影」(17節)があります。それと同じように、私たちの人生にも移り変わりがあり、影があります。喜びや楽しみもあれば、苦しみや悲しみへと移り変わって行きます。影の人生、闇の時間が訪れます。
 けれども、「光の源」(17節)である父なる神は、変わることなく私たちを照らし続けます。「良い贈り物」を与えようと働き続けます。その父なる神を信頼して、「試練」の中にも変わることなく「良い贈り物」が隠されていることを信じ、“確かにいただきました”と受け止める。その時、私たちは「造られたものの初穂」(18節)とされています。「真理の言葉」(18節)によって新しく創造された神の子となっています。「命の冠」をいただいて生きています。





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