2010年1月3日 礼拝説教
  聖  書  ヤコブの手紙1章19〜27節
  説教者  山岡 創

「 御言葉を行う人になりなさい 」

  私は牧師の家庭に生まれました。ですから、生まれた時から御言葉に囲まれ、子どもの時から教会学校(子どもチャペル)で過ごして来ました。とは言え、私は礼拝中もゴソゴソしていたり、友達とふざけたりしていて、当時語られた説教、御言葉をほとんど覚えていない、性(しょう)もない子どもでした。
 けれども、そういう中で1つ2つ、非常に印象に残り、記憶に焼き付いている御言葉がありました。それが、今日読みました19節の言葉です。
「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」。
聞いたとき、“これだ!”と子ども心に思いました。と言うのは、私の父は短気なところがありまして、私はそれが嫌でした。いわゆる反面教師というやつで、自分はそうはなるまいと思っていました。それで、この御言葉を聞いたとき、自分は怒るのに遅いようにしようと心に決め、以来、この御言葉で自分を訓練しました。
 お陰でなのか、私は、“人”に対しては幾分気の長い、怒るのに遅い人間になれたのではないかと思っています。けれども、変なところが短気になりまして、“物”に対して短気になった。物が自分の思うように動かないと、(それは自分の扱いが悪いのですが)思わず腹が立って、“このバカたれ!”と叫んでしまうことがあります。それを見ながらうちの子供は笑っています。きっと“ああいうふうにはなるまい”と思っているのかも知れません。そうかと思えば、私と同じように物に文句を言い、当たっている子供もおりまして、その姿を見ると“ああ、私の態度がいかんのだなあ”と反省させられます。

「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです」(19〜20節)。
 なぜ人の怒りは神の義を実現しないのでしょう? それは、私たちの怒りは神さまの忍耐と憐れみを映し出すことにならないという意味です。私たちの生き方が神さまの御心を映し出し、証しするものにならないからです。
 神の義、すなわち神の“正しさ”とは何でしょうか。それは、神さまの目から見れば罪人である私たち人間を、神さまが憐れみ、愛することに他なりません。
 この「神の義」を示す御言葉として、例えばローマの信徒への手紙3章25〜26節に次のように記されています。
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐して来られたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」。
 また同じく9章22節以下にはこう書かれています。
「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう」。
 ここでローマの信徒への手紙の御言葉について丁寧にお話しする時間はありませんが、要するに私たちの失敗や過ちに神さまが怒っておられたら、私たち人間はだれも救われないのです。だから、神さまは寛大な心で私たちの罪を耐え忍ぼうと心に決められた。そして、罪人である私たちを憐れみ、愛することを、御自分の正しい態度となさったのです。それが「神の義」です。
 そのように神さまが忍耐し、憐れんでくださっているのに、当の私たちが怒っていたらどうでしょう? それは、神さまの御心が全く分かっておらず、神の忍耐と憐れみを映し出す「憐れみの器」となっておらず、「神の義」を実現していない、ということになるのです。
 大体、怒って言ったり、やったりしても、ろくなことにはならない。コミュニケーションはうまく行かず、相手の心にもこちらの怒りが強く印象に残り、肝心なことが伝わらない。怒ることと叱ることとは、ちょっと違うのです。自分が神さまからそうしていただいたように、人の失敗や過ちに忍耐強くあること、憐れみ深くあること。そのような正しい態度を、神は私たちに望んでおられるのです。

 考えてみれば、私たちの態度、行動は、どちらかと言えば19節の御言葉とは反対でありましょう。聞くのに遅く、話すのに早く、怒るのに早い。人の言葉を聞くよりも、自分がたくさん話したい。自分の言葉を聞かせたい。また自分の思い通りにいかないと腹立たしく感じ、怒りたくなるのです。その態度は、一言で言えば、つまり“自己中心”だということです。自己中心な態度は人とうまく行かず、また人を育てません。
 では、聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅い態度とは何でしょう。これはすなわち“神中心”だということです。自分の態度に神さまの御心が映し出され、「神の義」が実現している、ということです。そこには憐れみがあります。愛があります。
では、自己中心から神中心へと変わっていくためには、どうしたら良いのでしょう。そのためにヤコブは「御言葉を受け入れなさい」(21節)と言うのです。
「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」(21節)。
 植え付ける、という言葉から連想しましたが、昨年11月から高麗川の向こう側で畑を借りることにしました。以前に、この会堂に移転する前、北坂戸のアパートに住んでいた時に隣の土地を借りて家庭菜園をしていましたが、それ以来、本格的にするのは5年ぶりです。しかも、以前はキュウリとかナスとか夏野菜専門で、冬にするのは初めての経験です。わずかに畝3列ほどですが、ビタミン菜という菜っ葉の種をまき、玉ねぎと春菊といちごの苗を植え、先日はTさんがくださったキャベツの苗を植え付けました。既に春菊は一度収穫され、また間引きをした菜っ葉でみそ汁も作りました。
 そう言っては申し訳ないのですが、土があまり良くない。おそらく以前は田圃(たんぼ)にしていた土地ではないかと思います。土が粘土質でサラサラしていない。すぐに塊になってしまう。だから、植え付けをする時は耕して、堆肥(たいひ)をずいぶん鋤(す)き込んで、それでもまだまだ固いので、種をまき植え付けをする部分には買って来た土を入れました。この先、良い土になるには、たぶん数年は耕さなければならないと思われます。
 土が悪いと、苗を植え付けても根付かない。土が苗を受け入れない。そう言えば、イエス様のたとえ話にもありました。石だらけの土地に蒔かれた種は根付かず、枯れてしまったと。土が苗を受け入れ、根付かせるためには、土壌改良をする必要がある。「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」という言葉はつまり、まず私たちの心の“土壌改良”をしなさい、という意味でありましょう。汚れや悪、その元になっている欲望を取り除き、自己中心から神中心であることを祈り求めなさい。それによって御言葉の苗は、私たちの心に植え付けられ、根付くということでありましょう。

 「御言葉を受け入れなさい」とヤコブは語りました。そして、22節では改めて、「御言葉を行う人になりなさい」と命じています。言い直したと言って良いでしょう。それは、御言葉を受け入れるということを、ただ単に御言葉を“聞く”ことだと受け取ってほしくなかったからだと思います。「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(22節)と、ヤコブはズバリと言っています。
 自分を欺(あざむ)くとは、どういうことでしょう? 欺くとは、騙(だま)すということです。私たちは自分を騙しだまししながら生きることがあります。御言葉に対しても、そうではないでしょうか。御言葉を聞いて、善いことだ、正しいことだ、大切なことだと思う。けれども、それを行わない。自分にとって都合の良いところでだけ御言葉を聞いている。そして、都合の悪いところでは耳にふたをして行わない。そして、ああだ、こうだと言い訳し、自己弁護、自己正当化をする。そうやって、御言葉に対して自分をだましているのです。もちろん、現実に行えない時もあるでしょう。それならば、言い訳や自己弁護をせず、素直に“神さま、ごめんなさい。罪人のわたしをおゆるしください”(ルカ18章13節)と悔い改めればよいではありませんか。その心からの悔い改めが、私たちの心を土壌改良し、いつの日か御言葉を行う人へと変えてくれるのです。
 御言葉を行うとは、自分の生活の中で具体化することです。聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅くなることです。「みなしごや、やもめが困っている時に世話をする」(27節)ことです。その御言葉から、私は、御言葉を行った最たる人物の一人として、マザー・テレサのことを思い起こしていました。
 カトリックのシスターとして、インドのスラム街で貧しい人や病の人を愛し、助けたマザー・テレサは、次のように語っていたと言います。
   聖性とは、神の御意志を喜んで実行することです。神への忠誠が聖人をつくるのです。‥‥‥
  聖性への第一歩は、まず聖人になりたいという意志です。‥‥‥
  「私なんかとてもだめです」とか、「どちらでも‥‥おまかせします」とか、「どうせムダでしょう」とかいった口実のもとに、自分の意志の力を使うことを私たちはよくなおざりにします。でも、「私はなりたい」か「なりたくないか」にすべてはかかっているのです。そして、「私はなりたい」というこの言葉に私の持てる力のありったけ、を入れなければなりません。(『マザー・テレサ、愛を語る』44頁より)
 御言葉を行わないことに口実を設ける私たちは、このマザー・テレサの言葉の前に、立ちすくむ思いになるのではないでしょうか。私は、財産のすべてを献げ施して御自分に従いなさい、と言われた主イエスの言葉の前に立ちすくみ、去って行った人の気持が分かるような気がします。しかし、“御言葉を行う人になりたい”と祈り求めることを、私たちは神さまから期待されています。何もマザー・テレサのように生きることを求められているわけではありません。皆がマザーのようになれるわけではない。自分が置かれた人生の場所で、御言葉に従って小さな行いに生きる。そのことが求められているのです。
 「聞くだけで終わる者」(23節)、「聞いて忘れてしまう人」(25節)ではなく、「御言葉を行う人になりなさい」。聞いただけでは御言葉を忘れてしまいます。72時間、三日で説教は忘れると研修会で言われました。忘れないためには、行うことです。生活の中に映し出すことです。何でもそうですが、聞いたことは理解できても、身には付きません。実際にやってみて、自分を訓練する。体に覚えさせる。そのようにして私たちは身に付けていきます。
 そして、御言葉を行うところに、私たちの「魂の救い」が、「幸せ」があるとヤコブは言います。主イエスも言われました。御言葉を聞いて行う人は、岩の上に家を建てた人のようだが、聞いても行わない人は、砂の上に家を建てた人のようだ。一見すると分からないが、人生の嵐に遭った時に、その違いが現れる、と。流れる砂の上に家を建てる人はいません。私たちも、御言葉を行うという岩の上に、私たちの人生を建てていきましょう。それが、人生の救いであり、幸せであると、いつか分かる時がきっと来ます。





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