2010年1月10日 礼拝説教
  聖  書  ヤコブの手紙2章1〜13節
  説教者  山岡 創

「 憐れみは裁きに打ち勝つ 」

 先週の礼拝で、ヤコブの手紙1章19〜27節を読みました。その箇所の中心は、「御言葉を行う人になりなさい」(22節)ということでした。
 今日読んだ2章1節以下も、その続きだと言っても良いのです。御言葉を行うとはどいうことか? 一つには、「隣人を自分のように愛しなさい」(8節)との御言葉を行うことである。では、具合的にはどうすることか? それは、分け隔てをしない、ということだ。今日の御言葉において、ヤコブは私たちに、そのように語りかけているのです。

 「分け隔て」(1節)。嫌な言葉です。それは人と人との交わりを破壊します。例えば、家庭という交わりの中で、親が自分の子どもを分け隔てしたら、子どもが親に分け隔てされていると感じたら、その親子関係は崩れます。子どもの心は健やかに育たず、愛情不足に陥り、ゆがんでいくでしょう。
しかし、私たちの身近には、そういったことが少なからずあるのです。親が自分の好みや価値観で我が子を見る。例えば、勉強が良くできることに価値を置く親は、学業優秀な子どもに目をかけ、そうでない子供には扱いが変わる。そういう分け隔てをされた子どもは、“自分は愛されていない”と感じ、生きて行く上で最も重要な安心と自信を失うのです。
 さて、教会は“神の家族”と言われます。父なる神の御心を行う交わりとして、「わたしの兄弟、姉妹、母なのだ」(マルコ3章35節)と主イエスは言われました。もし、そこに分け隔てがあれば、教会は、愛にもとる、不健全な交わりになります。教会の交わりは崩れていくでしょう。
 教会の交わりを治める牧会の働きは、この点に注意を要します。もちろん私は、教会に連なる方々を分け隔てしているつもりはありません。けれども、実際の関わりには差異が出ます。例えば、頻繁に訪問する方もいれば、そうでない方もいます。その方の信仰生活の状態を見て判断します。しかし、それが分け隔てをしているように見える場合もあるかも知れません。もし私の判断と行動が誤っていると思ったら、祈りと愛をもって、どうぞ私におっしゃってください。私も祈って考えます。
 教会の中に分け隔てがあれば、教会の交わりは崩れます。
「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)。
とヤコブは語ります。彼の言うことは、極めて具体的です。教会に「金の指輪をはめた立派な身なりの人」と「汚らしい服装の貧しい人」(2節)が入って来た時、立派な身なりの人は特等席に案内し、貧しい人はその場に立っているか、床に座らせるとしたら、それは「分け隔て」、「差別」(4節)であり、「誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではりませんか」(4節)と問いかけます。そして実際、あなたがたは分け隔てをした、そのように「貧しい人を辱めた」(6節)とヤコブは言うのです。当時は身分制社会であり、貴族や金持の自由人もいれば奴隷もいる、という時代でしたから、余計に見た目の差、服装の差がはっきりしていたでしょう。
 人を見た目の立派さ、裕福さ、身分で判断し、優遇したり冷遇したりする。それは、「誤った考え」なのです。誤った価値観なのです。なぜなら、教会というキリスト者の交わりは、「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら」生きているからです。
 この世で貧しい人、弱い人を愛し、罪人を赦すために十字架にお架かりになった主イエス・キリストは、天にある神の国で、父なる神の隣の座に座るという「栄光」に満ち溢れている、とキリスト者は信じています。その愛と栄光の前では、この世の栄光と価値は意味を失うのです。見た目の立派さも、財産も、地位や身分も、様々な能力も、栄光を失うのです。全く意味がなくなるとまでは言いません。けれども、少なくともそれが一番大切な価値ではなくなるのです。一番大切にすべきは、キリストの御言葉と愛です。それに基づいて判断し、行うことに最大の価値と栄光を見いだして生きるのがキリスト者であり、教会という交わりです。その信仰と分け隔てとは相容れないのです。分け隔ては、信仰の道から逸れた、誤った判断、行いに他なりません。

 ヤコブの言葉を聞いて、私はドキッとします。皆さんもドキッとしないでしょうか。私たちにも、ともすれば人を見た目で判断しているところがありはしないでしょうか。この世の栄光や価値観で評価しているところがないでしょうか。そして、それによって分け隔てをしてしまう可能性があるのではないでしょうか。
 私たちの教会に新しい方が来たとして、ごく普通に見える人や、ちょっと良い服装をしている人であれば、私たちは“よくおいでくださいました”と歓迎することでしょう。けれども、もし汚らしい服装の人が教会においでになった時、私たちはロビーで、同じように“よくおいでくださいました”と迎えることができるでしょうか。自分の隣に座ったら、嫌な顔をせずに礼拝を守ることができるでしょうか。
 私たちの教会に、そういう方は滅多においでになりません。特に礼拝にはおいでになりません。だからと言って、そういう方が日本の社会にいないわけでは、もちろんありません。既に私たちの教会が、そういう方々が入りにくい“分け隔て”の空気を造り出してしまっているのかも知れません。
 けれども、実際にこういうことがあり得ると心に刻んでおいてください。服装だけではなく、色んな意味で、ちょっと変わって見える人が教会においでになる可能性が当然あります。その時、分け隔てをしたら、私たちはキリスト者として“負け”です。御言葉を行わず、誤った考えで判断を下しています。そりゃあ、ちょっと驚くかも知れません。けれども、今日の御言葉を思い出して、分け隔てなく接するようにしたいと思うのです。善によって、愛によって、自分の罪に克(か)ちましょう。

 「隣人を自分のように愛しなさい」(8節)。主イエス・キリストは、神の掟である律法の中で、心を尽して神を愛することと並んで、この御言葉が最も重要であるとお教えになりました(マタイ22章39節)。今日の聖書箇所の8節にも「最も尊い律法」と書かれているとおりです。隣人を自分のように愛するとは、どういうことでしょうか。それは、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6章31節)ということです。人に分け隔てをしてもらいたいと思う人はいないでしょう。だから、人を分け隔てしてはならないのです。それが、一つの具体的な態度として、隣人を自分のように愛する、ということです。
 ヤコブに直接語りかけられた教会の人々は、自分たちは隣人を自分のように愛している、それを実行する意味で、立派な身なりの人を特等席に案内していると考えていたのかも知れません。自分もそうしてもらいたいからです。
 けれども、分け隔てが隣人愛にもとることを見落としていたのかも知れません。ある面で隣人を愛することを実行していたとしても、分け隔てをするならば、それは隣人愛の律法にもとる「違反者」(9、11節)となるのです。
 ヤコブは教えます。
「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(12〜13節)。
 この御言葉から、私は、主イエスがマタイ福音書25章31節以下で語られた〈すべての民族を裁く〉という譬えを思い起こします。これは、栄光に輝く神の子キリストの前に、すべての人が集められ、最終的な裁きを受ける話です。そこで人々は右側と左側により分けられます。そして、キリストは右側にいる人々に、あなたがたは私を愛し、親切にしてくれたから、栄光の神の国に入りなさい、と言うのです。ところが、そう言われた人々はキョトンとします。自分がキリストを愛した覚えがないのです。そこで彼らはキリストに、“私たちがいつ、あなたを愛したでしょうか?”と尋ねるのです。すると、キリストが答えます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)と。すなわち、飢えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気の人を見舞い、牢にいる人を訪ねたならば、それはキリストご自身にしてくれたことだ、私を愛したことになるのだ、と言われたのです。
 昨年の子どものクリスマス会で、4人目の博士の劇〈アルタバン物語〉が小学生によって演じられました。3人の博士たちに一人遅れたアルタバンが、救い主キリストを探して何十年も旅をする中で、出会った人を助けるために、キリストに献げようと持っていた宝を使い果たす。アルタバンは最後に、あなたは私を愛したのだ、とのキリストの声を聞くのです。これも、今お話した譬(たと)えをモチーフにして物語化した話です。
 他方、左側の人々は、あなたがたは私を愛さなかったので、永遠の火に入れ、と言われます。彼らが、なぜですか?いつ私があなたのことを愛しませんでしたか?と尋ねると、キリストは、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(45節)とお答えになるのです。
 そのように、私たちは、「自由をもたらす律法」によって、主イエス・キリストが最も重要であるとお教えになった愛の律法によって裁かれる。これはキリスト者であろうとなかろうと、関係ありません。そのことを心に刻んで、隣人を愛することを行って歩みなさい、とヤコブは教えているのです。
 ここで、もう一つ思い起こすのは、先週の礼拝でもお話ししたマザー・テレサのことです。カトリックのシスターとしてインドのスラム街で奉仕したマザー・テレサは、「最も小さい者」を愛する隣人愛にあふれていました。マザーはこう語っています。
  貧しい人たちは神からの贈り物です。貧しい人たちは私たちの愛なのですから。
キリストは、私たちがいかほどのことを為(な)したか、お訊きにならないでしょう。
私たちの行為の中に、いかほどの愛の心を入れたかをお訊きになるはずです。
(『マザー・テレサ、愛を語る』51頁)
 特にマザー・テレサは、人を愛する時、分け隔てをしませんでした。キリスト教徒だけをひいきして、ヒンズー教徒やイスラム教徒を分け隔てはしませんでした。彼らが貧しさと病のために死を迎える時も、本人の宗教によって葬儀を行いました。だから、マザーに看取られた人は安心して死ぬことができたのです。
 愛は人を分け隔てしません。憐れみは人を裁きません。主イエス・キリストも本来、私たちを裁きたくはないはずです。私たちが皆、愛と憐れみの人となって、神の国を受け継いでほしいと願っておられるはずです。いや、そのために、私たちの罪を赦して神の国を受け継がせるために、キリストは十字架の上で犠牲になってくださったのです。
 マザーが言うように、どれほどのことができたかではなく、小さな行いであっても、そこに愛を、憐れみを込めて歩みましょう。失敗することがあっても、悔い改め、気を取り直して、愛を込めましょう。それが裁きの道ではなく、救いの道です。





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