2010年1月17日 講壇交換礼拝説教(川越教会)
  聖  書  ルカによる福音書6章27〜36節
  説教者  山岡 創

「 憐れみ深い人になりなさい 」

 私たちの教会が属する日本基督教団の出版局が、信仰の養いの書として『信徒の友』という月刊誌を発行しています。今日の礼拝後に行われるマナの会という集まりでも、『信徒の友』をテキストに取り上げて学ぶと聞いておりますが、ところで、この誌のいちばん最後に〈日毎の糧〉というコーナーがあります。毎日聖書を読み、祈る生活をするために、聖書日課に従って、その日の聖書箇所と短いメッセージがあり、またその日に覚えて祈る教団の教会が一つ、載せられています。ちょうど先週12日の欄には川越教会が、そして14日の欄には坂戸いずみ教会が掲載されました。それで、全国の諸教会、また個人の方から祈りのお葉書をたくさんいただきました。川越教会も同じように多くの葉書をいただいたことでしょう。
 私も、この〈日毎の糧〉コーナーを使って聖書を読み、祈るようにしています。
余談ですが、毎日聖書を読んで祈る生活をするというのは、なかなか骨が折れます。忙しい。生活のリズムが変わった。ちょっと疲れた。そういったことを理由(言い訳)に、私たちは聖書を読み祈ることをサボります。ある方が、“悪魔は私たちに、祈らせまい、聖書を読ませまい、とする”と書いておられましたが、本当にそうだと思います。けれども、毎日聖書を読んで祈らなかったら、私たちはサンデー・クリスチャンになる。信仰はアクセサリーのようになり、私たちの人生を支える土台にはならないのです。
 ある時、自分の意志(力)で聖書を読み祈る生活をしようとしてもだめだ、自分の心の中の悪魔の方が強い、ということに気づきました。では、どうするのか。祈るために、まず“祈らせてください。祈る思いと時間を与えてください”と真剣に祈りました。自分の力ではなく、神さまに、聖霊のお働きに頼る。すると、聖書を読み、祈る生活ができるようになりました。これは本当に神さまの力だと思っています。感謝です。
 ただし無理はしないこと。最初から30分も1時間もやろう、と思っても続きません。私は1日10分のつもりで、この時間を守っています。
 そんなわけで、私は〈日毎の糧〉コーナーを使って聖書を読み、祈っています。そして、〈日毎の糧〉に従って読んでいる聖書箇所で、最近いちばん印象に強く残ったところが、今日の礼拝で取り上げさせていただいたルカによる福音書6章27〜36節でした。と言うのは、坂戸いずみ教会の礼拝では今、ヤコブの手紙から御言葉を聞いています。この手紙は“信仰による行い”をとても重んじる内容が記されています。先日も、1章22節で「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」という御言葉を神さまからいただきました。それで最近、御言葉を行うということを、とても意識しています。それで、今日の聖書箇所がいちばん強く心に残ったのだと思います。
 この御言葉を行うことができるのか? 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にする」(27節)ことができるのか? 「悪口を言う者に祝福を祈る」(28節)ことができるのか?「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向ける」(29節)ことができるのか? 「上着を奪い取る者には、下着をも拒まない」(29節)ことができるのか? 「何も当てにしないで貸す」(35節)なんてことができるのか?‥‥‥何度となく読んだ、よく知っている御言葉です。しかし、今回これらの御言葉を行うということが、改めて強く、自分の胸の中で問われました。
 悪口を言う者に祝福なんて祈れない。悪口を言われたら、こっちも悪口を言いたくなる。いや、悪口を言われていなくても、相手にちょっと気に入らないことがあれば悪口を言いたくなる。悪口と意識せずに、人を批判し、悪く言っている。
 頬を打たれたら、もう片方の頬を向けるどころではない。やられれば、やり返したくなる。1発殴られたら、1発どころか、2発も3発も殴り返したくなる。仕返しをしたくなる。それが私たちの気持ではないでしょうか。
 あるいはまた、上着を取られて、まあそれは我慢するとしても、わざわざ下着まで出さないだろう。奪われたら、取り返そうとしてはいけないのだろうか? 返してもらうことを当てにしないで貸すのは、ちょっときついなあ‥‥‥そんなことを感じるのです。

 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(27節)という御言葉は、私たちにとって重いことです。いや、それ以前に、人を“愛する”ということそのものが、私たちにとっては重いことなのです。なぜなら、“愛する”とは、「自分を愛してくれる人を愛する」(32節)ことではないからです。「自分によくしてくれる人に善いことをする」(33節)ことではないからです。「返してもらうことを当てにして貸す」(34節)ことではないからです。つまり、愛するとは、ギブ・アンド・テイクの行為ではないということです。見返りを期待してすることではないのです。
 私たち日本人には、何かをしていただいたら、それに見合うものをお返しするという慣習があります。それは、人間関係を円満に保つバランス感覚のようなもので、決して悪いものではありません。けれども、それは聖書が、主イエスが教える“愛する”ということではありません。それは、自分を愛してくれる人を愛するということ、自分によくしてくれる人に善いことをする、ということです。「罪人でも同じことをしている」(33節)と言われることです。
 ここで言う「罪人」とは、神さまを信じていない人、クリスチャンでない人という意味です。神さまを信じていない、クリスチャンでないからと言って、「罪人」だと言うのは、どうもクリスチャン本位な、失礼な言い方だなあと思いますし、罪の問題というものを厳密に考えれば、クリスチャンであろうとなかろうと、人は皆罪人だと、別の聖書の箇所は教えていますが、ここでは、神さまを信じていない人、クリスチャンでない人という意味で「罪人」という言葉が使われています。言い換えれば、“一般の人”だと言っても良いでしょう。
 つまり、してくれたからする、見返りを期待してする、というのは一般的な価値観、一般的な生き方だということです。けれども、神さまを信じるクリスチャンには、一般的な価値観、一般的な生き方を一歩超えた、別の生き方があるはずだと主イエスは言われるのです。ギブ・アンド・テイクではなく、テイクの方は脇に置いて、ギブに徹する生き方が、与える生き方があるはずだ、自分の時間も労力も財産も無償で与える生き方が、あるいは忍耐したり赦したりと、その“心”を与える生き方が、そのためにちょっと痛いなあ、損だなあと思っても、それを良しと納得できる生き方があるはずだ。主イエスはそう言われるのです。
 なぜなら、「いと高き方(神)は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」(35節)ということを知っているからです。その神の情けを、神の愛を、いちばんいただいていると感じている、信じているのがクリスチャンだからです。神の情けを、神の愛を、だれよりも受けている。だから、その愛を周りの人に還元する。人の愛のお返しはなくとも、神の愛の故に人を愛する。それがキリスト者です。キリスト者の誇りです。

 私は今日の聖書箇所から、主イエスがなさった〈仲間を赦さない家来のたとえ〉を思い起こします(マタイ18章21節〜)。あるところに王様がいて、家来たちに金を貸していた。その中に1万タラントン、王様に借金のある家来がいました。1万タラントンってどれぐらいの金額だと思いますか? 当時1日働いてもらえる労賃が1デナリオンと言われていました。6千デナリオンが1タラントンです。と言うことは、1万タラントンというのは6千万日分の労賃に当たります。およそ20万年分の年収、仮に1日の労賃を1万円とすれば、6千億円です。物凄い借金です。
決済の日が来て、この家来はもちろん返すことができませんでした。王様は最初、自分も家族も奴隷に売り、持ち物もすべて売って少しでも返済するように命じましたが、「どうか待ってください」と哀願する家来を「憐れに思って」、待ってやるどころか、何と借金をすべて帳消しにしてやったというのです。考えられないことです。しかし、それが神さまと私たち人間の関係だと主イエスは教えているのです。罪深い者を赦し、不都合の多い私たちを受け入れる神の愛、神の憐れみ深さです。
さて、この家来は、喜び踊る気持でお城を後にしたことでしょう。ところが、帰る途中、町で百デナリオンの金を貸している仲間に会いました。「借金を返せ」、「どうか待ってくれ。返すから」。しかし、この家来は承知せず、その仲間を牢に入れました。
私たちは、この家来のことを、なんてひどい奴だ、この人でなし!と思うことでしょう。百デナリオンは1万タラントンのわずか60万分の1です。1万タラントンを赦されたのに、わずか百デナリオンを赦せないとは!と思うのです。
けれども、主イエスは“だれか”の話をしているのではない。これはあなたがたの姿だよ、よく聞きなさいと言われるのです。
なぜ赦せないのでしょう? 憐れみ深くなれないのでしょう? それは、自分が1万タラントンを帳消しにされたことを忘れるからです。いや、本気で信じていないからです。自分のことだと思っていないからです。聖書を読んでも、主イエスの御言葉を聞いても、私たちは自分の内側を見つめ直し、掘り下げることに甘いのです。
 神の憐れみをいちばんいただいているのは自分なのだ、そう感じた時、信じた時、私たちはちょっと憐れみ深くなります。愛の世界に一歩踏み出します。

 もう一つ、今日の聖書の御言葉から、最近読んだ本の中の〈泥かぶら〉という話を思い起こしました。カトリックのシスターで、渡辺和子さんという方の『美しい人に』という本の中で取り上げられていた真山美保さんの作品なのですが、あるところに、泥かぶらと呼ばれる顔の醜い女の子がいました。孤児で家もなく、醜いために村人から嘲られ、子どもからは石を投げられたり、唾を吐きかけられたりする。それを悔しがってやり返す泥かぶらの心は荒み、そのため顔は歪んでますます醜くなっていくのでした。
 そんなある日、旅の老人(老法師)が村を通りかかり、棒を振り回して怒り狂う泥かぶらに、次の3つのことを守れば村一番の美人になれる、と教えます。その3つとは、
 いつもにっこりと笑うこと、自分の醜さを恥じないこと、人の身になって思うこと
でした。今までの自分とは全く正反対の生き方に、泥かぶらは動揺します。しかし、美しくなりたい一心で努力を始めます。けれど、なかなかうまくいかず、あきらめかけたこともありました。
 そんなある日、一つの事件が起こります。庄屋の娘・こずえが父親の大切な茶碗を割ってしまい、怒られ鞭で打たれる怖さに、割ったのは泥かぶらだと嘘をつくのです。庄屋は泥かぶらを鞭で激しく打ちました。その時、泥かぶらは、人の身になって思うこととは、こういうことだと悟って、打たれるのを我慢し、こずえが嘘をついて自分のせいにしたとは言いませんでした。後で、こずえが謝り、以来二人は仲良しになり、その時から泥かぶらは少しずつ変わっていくのです。心は穏やかになり、顔からは憎しみが去って、人に尽くす泥かぶらは、いつしか村の人気者に変わっていくのです。
 ある日、人買いが村にやって来て、泥かぶらと同じ年頃の少女を連れて行こうとしました。それを見た泥かぶらは、自分が代わりになると言って、人買いに連れられて行きます。しかし、泥かぶらに暗さは少しもない。道々、周りの人に感謝し、村の様子を楽しく話す泥かぶらの姿に、人買いは“この子に比べて、一体おれは何だ‥”と心を揺さぶられます。そして、ついに人買いは前非を悔い、置き手紙を残して去って行くのです。
その手紙には、“私は何とひどい仕事をしていたのだろう。おまえのお陰で、わたしの中にある仏の心が目覚めた。ありがとう。仏のように美しい子よ”と書かれていました。そしてその時、泥かぶらは、旅の老人に教えらえた“美人”ということの意味を悟ったのです。
 今日の聖書の御言葉に、「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」(35節)とありました。私は、泥かぶらの話にあった“仏のように美しい子よ”というのと、「いと高き方の子」という御言葉が重なり合うような思いがしました。見返りを求めずに、人を愛すれば、実はとても大きな心の豊かさを、心の報いをいただいているのではないでしょうか。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」
(36節)
 愛することは大変なことです。でも、私たちを愛するために独り子イエス・キリストの命さえ与えてくださる神の愛、神の憐れみをいただいている者として、私たちも、その万分の1でも人を愛する者となりましょう。





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