2010年1月24日 礼拝説教
  聖  書  ヤコブの手紙2章14〜26節
  説教者  山岡 創

「行いの伴う信仰を 」

 1月12日、中米のハイチで大地震が起こりました。地震による死者は7万人を超え、8割以上の家屋が壊れ、何百万人もの人々が被害を受けました。被災した人々の救援が速やかに進むように、また家を失い、愛する家族を失った方々の悲しみが支えられるように、そして亡くなった方々の魂のために祈りをささげます。
 国際救援活動が始まっています。日本も医療活動のために自衛隊を派遣することになりました。日本の代表として、自衛隊が善い働きをしてくださるようにと祈ります。
 このような大災害をニュース等で目の当たりにして、被災した人々に同情し、心を痛めながら、私たちは自分の無力さを感じるのではないでしょうか。いや、無力さを感じる前に、私たちは“無関心”であるかも知れません。海の向こうの出来事です。直接的に私たちには関係がなく、私たちの生活に影響はありません。それぞれ自分の重荷や課題を抱え、忙しく過ごしていると、ついつい無関心になりがちです。
 主イエスは、律法(聖書)の中でいちばん大切な掟は、神を愛することと並んで隣人を愛することであると言われ、新しい掟として、互いに愛し合うことを弟子たちにお教えになりました。だから、キリスト教において信仰と愛は車の両輪のように考えられています。そして、愛するとは、まず相手に関心を持つことから始まるのではないでしょうか。愛の反対は、憎しみではなく無関心だと言った人がいます。隣人を愛することを信仰の掟とする私たち、まず関心を持つことから始めましょう。
 ハイチ大地震と被災した人々に関心を持つと、私たちは少なからず、自分の無力さを感じるのではないかと思います。惨状を目の当たりにして、何もできないように思います。もちろん、現地に赴(おもむ)いて救援活動をするなど、思いも及びません。
 しかし、私たちは祈ることができます。自分の手の届かない事柄、力の及ばない事柄を神さまに委ねて祈ることができます。祈りは、信仰と愛の大いなる第一歩です。
 時々、“祈ることしかできない”という嘆きを耳にします。苦しんでいる人、困っている人を知っていても、直接助けることができない、あるいは大したことができない自分の無力さをもどかしく感じる言葉として、その嘆きが分からないわけではありません。
 けれども、祈りを“それしかできない”と否定的に捉(とら)えるべきではありません。なぜなら、私たちの信仰は、自分の力、人間の力をはるかに超えた神の力を信じるものだからです。人にはできなくても神にはできると信じるからです。その神さまに“お任せします。お願いします”と心から祈るのですから、私たちクリスチャンが、“それしかできない”と言ったら、自分の信仰を否定することにもなりかねないからです。
 そして、祈りを否定的に考えるべきではないもう一つの理由は、本気の祈りはきっと、“行動”を生み出すからです。大きな行いはできないかも知れませんし、本当に行動できない場合もあると思います。けれども、愛の関心を寄せて、本気で祈るならば、その祈りが凝縮して、きっと自分にもできる、何か小さな行動を見つけ出すに違いありません。祈りはいつかきっと行いとして実を結ぶ日があるのです。
 今回のハイチ大地震にしても、私たちは現地に赴(おもむ)いて救援活動をする等ということは、まずできないでしょう。けれども、祈りと愛をもって救援のために自分の財をささげることはできるのではないでしょうか。
 今日、礼拝の後で、ハイチ大地震被災者救援のための自由献金を募ります。もう既に、個人的に救援の寄付をされたという方もいらっしゃるかも知れません。今回の自由献金は、いつものように私たちの教会が属している日本基督教団を通して、救援のために献げたいと思います。今日は持ち合わせがないという方のためにも、しばらくの間、受付で募るようにします。
 もちろん献金ですから強制ではありません。気持はあっても、生活が経済的に苦しくて、ささげられないという方もいらっしゃるかも知れません。けれども、私たちの心に関心があり、祈りがあるならば、全く献げられないという人はいないでしょう。愛するとは自分が痛むことですから、例えば自分が一食分を我慢して献げるということも、あり得るはずです。それが、レプトン(レプタ)2枚をささげるということです。
 こんなことを言うと、半強制と受け取られかねませんが、どうぞ誤解しないでください。私は皆さんに、ご自分の信仰と愛によって、善意によって、なさっていただきたいのです。

 このようなことをお話ししましたのも、もちろん今日読んだ聖書の御言葉に関わると感じたからです。
「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(15〜17節)
 「兄弟」「姉妹」とは、血縁の者を指すのではなく、狭く言えばクリスチャン同士、広く考えれば信仰を超えた隣人のことです。そして今日、愛すべき隣人とはグローバルに捉えることができると思います。ですから、今回のハイチ大地震で被災した人々についても、私たちの「兄弟」「姉妹」として、彼らが「その日の食べ物にも事欠いている」、その日の生活に困っていることを知りながら、私たちが無関心で、ほんのわずかな財もささげなかったら、それは「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と口では言いながら何もしない、信仰の死んだ人になるのではないか、と思ったのです。
 もちろん、それだけではありません。私たちが行いをもって愛すべき「兄弟」「姉妹」は、地球の反対側の世界だけではなく、私たちの身近にもいます。最も身近な隣人は家族ですし、ご近所の知人、職場の同僚、学校の友達、そして教会の信仰を同じくする仲間、皆愛すべき「兄弟」「姉妹」です。そして、身近な人ほど違う意味で、愛することが難しいことを私たちは感じることがあるでしょう。

 ヤコブにとって信仰とは、「そうすれば、わたしの行いによって、自分の信仰を見せましょう」(18節)と言うように、行いが伴ってこそのものでした。それは、1章22節でも、「御言葉を行う人になりなさい」と教えているとおりです。御言葉を聞いて行う。生活の中で態度や行動として表わす。生き方となって現れる。それが信仰です。そうでなければ、信仰とは、頭で考え、知的に身に付けているだけのアクセサリー、日曜日には身に付け、平日には外しているようなアクセサリーのようなもので、確かに何の役にも立たないものとなりましょう。
 このことについては、主イエスも同じように語っています。マタイによる福音書7章21節以下で、主イエスは、次のように語っています。
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」
 つまり、口でだけ「主よ、主よ」と信仰を言い表す者ではなく、聖書の御言葉によって示された父なる神の御心を「行う」者が、神の救いの中に入れられると教えたのです。
 ただし私たちは、このことを“行いによって救われる”と、行いを神の救いの条件と考えてはなりません。私たちは、善い行いをしたから、その功績によって神さまから報いられ、救われるのではありません。神さまの救いの恵みを信じる信仰によって救われるのです。このことは、パウロという使徒、偉大なキリストの伝道者がローマの信徒への手紙3章23節以下で次のように語っています。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです‥‥」。
「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(28節)。
 信仰による救い。自分の罪を悔い、神の恵みを信じる者が、神の愛によって良しとされ、天の国に入ることを約束される。それが私たちの救いです。
 けれども、ヤコブが教会を指導していた時代には、あまりにも行いの伴わない、口だけのクリスチャンが多かったのではないでしょうか。18節に、「『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません」とありますが、つまり信仰と行いを分けて考え、ある人には精神的な信仰があり、他の人には行いがあり、それぞれ違うタイプのクリスチャンとして良いではないかと、一見、他を否定しない、柔軟な考え方のように見えて、その実、行いの伴わない信仰を肯定するような、自分を甘やかし、行うことから逃避するような信仰が横行していたのかも知れません。だからこそ、ヤコブは、信仰とは本来、行いを伴うものだと強調したのでしょう。

 そのことを、ヤコブは、旧約聖書に描かれているアブラハムの例、またラハブの例を挙げながら語っています。
 アブラハムが息子イサクを神に献げた物語は、創世記22章に出て来ます。当時、後継ぎの息子が生まれることは、最大の喜びであり、神の祝福のしるしでした。しかし、アブラハムにはなかなか子供が与えられませんでした。しかし、年老いて、人生の晩年になってから、念願の息子イサクが生まれました。アブラハムにとって、どんなにか大きな喜びであり、深い慰めであったか、想像に余りあります。
 ところが、そのイサクを、焼き尽くす献げ物としてご自分に献げよと、神さまはアブラハムにお命じになったのです。彼はどんなに苦悩し、葛藤したことでしょうか。しかし、神の御言葉、神の御心に従って、イサクを祭壇の上で献げようとしました。その刹那、神さまはアブラハムをお止(とめ)になりました。神さまは、アブラハムがご自分の御言葉に従うか、御心を行うか、お試しになったのです。もしもこの時、アブラハムが“分かりました”と言いながら、何も行わなかったら、そこに本当の信仰があると言えるか、とヤコブは問うているのです。“分かりました。信じます”と言いながら、結局、自分の我意を通しているだけではないかと言うのです。もちろん、アブラハムの場合は、極端な例ではありますが、アブラハムが神の御言葉に従い、行ったから、神さまはそれをアブラハムの“信仰”とお認めになったのです。
 娼婦ラハブの物語については、どうぞヨシュア記2章をお読みください。

「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」。
 私たちは時々、“自分の信仰はこれで良いのか”と吟味する必要があるのでしょう。善い行いの量によって報われ、救われるのではありません。しかし、神の恵みにより無償で愛され、生かされている。その喜び、その感謝が、私たちの人生の土台となり、生き方となり、行動となり、態度となって現れているか。そのことをチェックする必要が、私たちの信仰生活にはあるでしょう。いや、そのことが自分の中で自ずと問われる機会やきっかけを、神さまが与えてくださるでしょう。
 神さまの御心に応えて行う、ということは、私たちも損をしたり、忍耐したり、何かを捨てなければならない場合があります。私たちの負うべき十字架です。しかし、それが“愛”なのです。信仰による愛なのです。主イエス・キリストも歩まれた、愛による行いの道へと、本当の信仰の道へと、私たちも招かれているのです。





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