2010年2月7日 礼拝説教
  聖  書  ヤコブの手紙3章1〜12節
  説教者  山岡 創

「 口は賛美の元 」

 「わたしの兄弟たち、あなたがたのうちの多くの人が教師になってはなりません」(1節)
 ヤコブはこのように語りました。一体なぜでしょう? それは、
「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知って」(1節)いるからです。
 では、なぜ教師が「ほかの人たちより厳しい裁きを受ける」のでしょうか? それはもちろん“教える立場”にあるからです。ほかの人たちより責任が重いのです。
 初代教会の時代、最も精力的にキリストの救いを伝道したパウロという人は、コリントの信徒への手紙(二)12章28節以下で、教会における働きについて次のように記しています。
「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者‥‥」
この後もまだ続くのですが、「教師」はその働きの重要性において、第3番目に置かれているのです。「使徒」というのは、ペトロやヨハネのように、主イエスの直弟子であった人がそう呼ばれました。「預言者」と「教師」の違いは分かりにくいのですが、使徒や預言者と呼ばれる人々は、一つの教会だけにとどまらず、様々な町や村とそこに生まれた教会を巡回して、イエス・キリストの救いを証しし、福音を宣(の)べ伝えたようです。それに対して、自分が属する教会に留まって、人々にキリストの救いを教え、信仰生活を指導したのが教師であったようです。
 そのような立場にある教師だからこそ、ほかの人たちより責任が重い。なぜなら、教えることにおいて「過ち」を犯すからです。教える主な手段は“語る”ことですが、教師は「言葉で過ちを」犯すからです。
「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」(2節)。
ヤコブはこのように語ります。しかし、言葉で過ちを犯さない人はいない、「舌を制御できる人は一人もいません」(8節)とヤコブは断言するのです。

 舌を制御できる人はいない。言葉で過ちを犯さない人はいない。だからこそ、やがて天において神さまとまみえる時、ほかの人たちより厳しい裁きを受けることになる「教師」には、多くの人がなってはならない、とヤコブは言うのです。責任が大きいのです。
 現代の「教師」である教会の牧師として、本当にその通りだと思います。その意味で、私は自分が牧師になったことを“しまった”と感じています。“早くやめたい”とも思っています。
 牧師は毎週の礼拝において説教を語ります。聖書の御言葉を説き明かし、教えます。そこで牧師が問われるのは、神の御心を語っているか、それとも“自分の考え”を語っているのではないか、という問題です。
もちろん聖書に基づいて語っているのです。聖書の御言葉を、注解書や参考書で学び、それが現代の社会や私たち一人一人の生活にどのように当てはまるかを黙想します。聖書の時代と現代の時代背景や状況は違います。だから、必ずしも聖書の御言葉が“文字通りに”通用するわけではありません。黙想していてそう思う時は、その御言葉の深いところを考え、また主イエスの教えと行いの中心を思いながら、私たちに当てはまるような解釈をします。コリントの信徒への手紙(二)3章6節に「文字は殺しますが、霊は生かします」という御言葉がありますが、“文字通り”とは行かないところを、その御言葉の“心”を霊的に受け取るのです。そして、これこそ神さまの御心だ!と確信するところを語ります。
けれども、それは自分が“そのつもり”になっているだけなのかも知れない。だから、自分の中ではその点を絶えず省(かえり)みます。準備する時には、“主よ、聖霊によって私に、あなたの御心を示し、あなたの言葉を整えさせてください”と祈ります。それでも、神さまの御心を正しく汲み取っていないことがあるのかも知れない。だれが聞いても明らかに間違っているものは分かりやすいのですが、人間が神の言葉を黙想し、説き明かすのですから、同じ聖書の御言葉を語っても違いが出て来る。もちろん人の説教と自分の説教を比較する必要はないのですが、それが「過ち」でないかどうか、それはまさに、天の上で神さまに聞いてみなければ分らないことです。
だからこそ、牧師の務めから早く解かれたい、と思うのです。しかし、この務めに神さまから召されたのです。だからこそ、皆さんに、私の働きのために祈っていただきたいのです。日曜日の礼拝の前に、牧師の説教準備のために祈る信徒がいる教会は違う、と言われますが、本当にそうだろう、と思います。どうぞ私のために、毎週祈ってください。その“祈りの心”で、私の語る説教を受け止めていただきたいのです。

 説教だけではありません。牧師が日常において語る“一言”は、やはり重いと言うことができるでしょう。同じことを言われて、傷つき、不快に思ったとしても、同じ立場にある教会員、信徒から言われた言葉なら耐えられる。我慢できる。けれども、同じことを牧師から言われたら、決定的に傷つくことがある。もう教会に行きたくない、と思わせてしまうことがあるのです。
 そういう一言を、どこかで、だれかに言ってしまっているのかも知れない。だから、自分の言葉に気を遣います。それでも、後で“あの言葉、どう感じたかな? あんなこと言わなければよかったかな?”と迷い悩むことがあります。
 私たちは、言葉において「度々過ちを犯す」のです。それは、語っている内容が正しくない、ということもあり、また、相手を不快にさせ、傷つけているという意味もあります。けれども、それだけではありません。
 5節に、「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです」とあります。「大言壮語」とは何でしょう? 辞書を調べると、“実力以上に大きなことを言うこと”と出てきます。自分の力以上のことを言う、つまり、できもしないことを言う、ということです。
 私たちは普段、大言壮語など、していないつもりでいるでしょう。けれども、日常において、自分ができもしないことを言うことがあるのではないでしょうか。いわゆる“大言”ではなくて、“口では言うけれど、実際にはやっていない”ということがあるのではないでしょうか。それが、私たちにとって最も厄介な「大言壮語」ではないかと思うのです。言葉の過ちです。
 例えば、親は自分の子供に“勉強しなさい”と言います。けれども、自分が勉強していなかったら、その言葉には力がありません。子供は親をよく見ています。学校の勉強とは違うけれど、親がいつも何か勉強している、努力している、そうでなかったら、“お父さんお母さんは、言っていることとやっていることが違う”と見抜かれてしまいます。
 牧師の家庭など、まさにその典型です。私は、牧師の家庭ほど、子供への信仰の継承が極端に現れるところはないなあ、と感じることがあります。信仰を持つ者と持たない者、教会生活をする者と教会に来ない者にはっきりと分かれるケースが少なからずあるのです。それは、牧師である親の言葉と行いのギャップが原因であることがしばしばあると言うことができるでしょう。“父さん、教会では良いことを言うけれど、家では言っていることとやっていることが違う”。そう思ったら、子供は神さまを信じて生きることを、素敵なこと、大切なことと思わなくなるでしょう。むしろ信仰に反発するでしょう。例えば、教会で“人間は一人一人、神さまに愛され、大切にされています”と語りながら、家に帰って来ると、自分の子供を比べたり、差別するような態度をとっていたら、子供は、家族は、“聖書なんて、信仰なんて偽物だ”と感じるでしょう。教会にばかり一生懸命で、家庭を大事にしなかったら、“愛なんて偽善だ”と感じるでしょう。
 ヤコブは、1章で「御言葉を行う人になりなさい」(22節)と言いました。2章では、「行いの伴わない信仰は死んだものです」(26節)と語りました。行いが伴わずに語ること、それを「大言壮語」とヤコブは言うのです。言葉の過ちです。それが、信仰を神の救いのすばらしさと示す証しにならず、家族や周りの人々に、信仰なんて偽善だと思わせる「過ち」になるのです。

 もちろん、このことは「教師」だけの問題、牧師だけの問題ではありません。今日の御言葉をお聞きになって、皆さんもご自分のことを思い返しながら、そう感じておられることでしょう。言葉で過ちを犯さない人はいない、「舌を制御できる人は一人もいない」のです。私たち一人一人の問題です。
 “どうしてあんなことを言ったのだろう。言わなければよかった”。そう後悔したことが、今までどれほどあったでしょうか。俗に“口は災いの元”と申しますが、うっかり口にした一言で失敗したり、人を傷つけたり、相手との関係そのものを壊してしまった‥‥そういった過ちのない人は一人もいないでしょう。
 しかも、自分で「過ち」と気付くことはごく一部だと思います。大半は見過ごしている。「過ち」と思わず、平気で語っていることも少なくないと思うのです。9節に、
「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです」
と記されています。
 確かに、私たちはこうして、日曜日の礼拝で神さまを賛美します。神さまに救われた喜び、感謝を、賛美に込め、祈りに込めて言い表します。けれども、その口で、私たちは人の悪口を言い、非難し、呪うことがあるのです。「毒に満ちた」(8節)言葉を語り、相手の心に「死をもたらし」(8節)、また自分の魂にも「死をもたらす」ことがあるのです。そして、その過ちに気付いていないことが少なからずあるのです。
 人は神にかたどって造られた。旧約聖書・創世記1章に描かれている天地創造の御言葉は、人間の本質をそのように語ります。言わば、人は皆、“小さな神さま”を内に宿して生きているのです。現実には、相手に対してそんなふうに思えないことがしばしばあるでしょう。けれども、そんな相手の内にも“小さな神さま”を見つける努力をしなさい。その心で相手に接しなさい。そうすれば、悪口や非難や呪いは出て来ない。ところが、私たちは相手の内に“神”を見ることができず、呪ってしまうのです。ああ、この矛盾! この過ち! それが私たちの姿です。

 私たちはどうしたら良いのでしょう? 語らなければ良い、話さなければ良い。ヤコブはそう教えようとしているのでしょうか? そうではありません。
 私たちは実際、自分の言葉を、多くの人に大目に見てもらい、忍耐してもらい、赦されながら語っているのです。そして、究極的には天の父である神さまに赦されながら語っているのです。赦されなければ語れない存在、赦されなければ生きられない存在、それが私たちです。そのことを忘れるな、ということだと思います。自分の力で語っている、生きているのではなく、語らせていただいている、生かされている。その謙虚な信仰を忘れるな、ということです。「打ち砕かれ悔いる」悔い改めの心を大切に、ということでしょう。
 その心で、私たちは、神さまに赦され、生かされていることを賛美し、人をほめ、愛し、向上させる言葉を心掛けたいものです。“口は賛美の元”です。





   ウィンドウを閉じる