2010年2月14日 礼拝説教
  聖  書  ヤコブの手紙3章13〜18節
  説教者  山岡 創

「 平和を実現する人たち 」

 「あなたがたの中で、知恵があり、分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるならば、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません」(13〜14節)。
 ヤコブの手紙3章は次の言葉で始まりました。
「わたしの兄弟たち、あなたがたのうちの多くの人が教師になってはなりません」(1節)。
なぜ教師になってはならないのか。それは、私たち人間が度々過ちを犯すから、しかも言葉において過ちを犯すからです。それで、教える立場にある教師の責任は重く、ほかの人たちよりも神さまから厳しい裁きを受けることになるからだとヤコブは語りました。
 今日読んだ御言葉、13節以下も、この話の続きだと考えることができます。当時、最も「知恵」があり、「分別」があるのは「教師」だと思われていました。御言葉を教える教師です。
 けれども、知恵と分別があれば教師たり得るのか。そうではないのです。ヤコブは知恵にも2種類あると考えていました。一つは、柔和な行いを伴う知恵であり、もう一つはねたみ深く利己的な知恵です。そして、教師たる者、柔和な行いの伴った知恵を持つ者でなければならないと言うのです。

 主イエスは、山上の説教において、「柔和な人たちは、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5章5節)と群衆にお教えになりました。当時、ユダヤ人にとって最も大きな神の祝福は、彼らの先祖が神さまから与えられた地を受け継ぐということでした。その祝福を神さまから受けるのは、柔和な人たちだと主イエスは言われました。
 「柔和」という言葉を、私たちは、日常生活においてほとんど使いません。柔和という言葉を辞書で引いてみると、“やさしく、穏やかなさま。とげとげしい所のない、物柔らかな態度・様子”と書かれています。
 柔和な行い。やさしく、穏やかで、とげとげしい所のない、物柔らかな行いが、なぜ知恵と分別のある人に、教師に求められるのでしょうか。それは、柔和な行いが「平和を実現する」からです。今日読んだ御言葉の最後の18節に、「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」とありました。これは、人々が信仰を持つようになるのは、平和な環境、平和な関係においてだ、ということです。御言葉という“種”が人々の心に蒔かれる。その種が芽を出し、成長して、信仰という実を結ぶのは、柔和な行いによって平和を実現する人が、平和の中で種をまいてこそ、平和のうちに実を結ぶということです。争いや混乱のあるところでは、御言葉の種は成長し、信仰の実を結びません。考えてみればすぐに分かります。皆さんも、もしこの教会に争いや混乱ばかりがあったら、暗い、不愉快な気持になるでしょう。そのような環境では信仰は成長しませんし、それ以前に、ここに来たい、と思わなくなるに違いありません。
 だからこそ、教師には「柔和な行い」が求められるのです。柔和な行いを、「立派な生き方によって示す」ことが求められるのです。いや、教師だけ、牧師だけに求められているのではありません。主イエスによって、ここに招かれ集まっている私たち一人一人が、教会を平和な交わりとして造り上げていくために、「柔和な行い」を求められているのです。

 けれども、そのような平和を実現する柔和さを持たず、「ねたみ深く利己的」であるならば、どうなるでしょう? そこには、「混乱やあらゆる悪い行い」(16節)による対立や争いが生じるのです。
 私たちは、自分のことをねたみ深く利己的だとは、あまり思わないのではないでしょうか。もちろん、実際にそうではないのかも知れません。けれども、そうだとしても、そういう自分に自分では気づきにくい、ということを覚えておきましょう。なぜなら、己の利益を図ろうとする利己的な心の時、つまり自己中心の心の時ほど、そういう自分には蓋をして、自分に不都合な要素、不利益な要素は見ずに通り過ぎようとするからです。だれかからガツンと言われる、それこそ聖書の御言葉によって神さまからガツンと言われでもしない限り、“自分は利己的で、ねたみ深いところがあるのだろうか”と自分を省みることをしないのです。
 私は、主イエスが教師たちを批判したことを思い起こします。主イエスの時代の教師、それは律法の教師、すなわち律法学者たちでした。主イエスは、彼らの三つの行い、施し、祈り、断食を非難しました。マタイによる福音書6章に出てまいります。当時、この三つの行いは、それを行う人の信仰深さ、敬虔さのしるしでした。
 ところが、主イエスは律法学者たちのこれらの行為を“偽善だ”と非難したのです。なぜなら、彼らが自分の行いを人に見せようとするからです。人に見てもらって、人からほめられようとするからです。人からほめられるためにするのではなく、隠れたところで行ってこそ、神さまのためにする、本当の意味で信仰深い行いとなるのではないか、と言われたのです。
 人にほめられて、自己満足を得ようとする。それは、己の利益を図ろうとする利己的な心の現れです。そして、そのような利己的な心は、教師として、律法学者として、自分がどれほどほめられ、評価されているか、自分と人を比べる心にもなるのではないでしょうか。自分と人と、どちらが人々から高く評価されているか、もしも自分よりも他の教師の方が高い評価を受けていたら、相手に対して深いねたみを感じたのではないでしょうか。人からほめられ、満足を得たいという利己的な虚栄心があればあるほど、自分よりも他の人の方がほめられていると思えば、その人に対して深いねたみを感じたはずです。
 私も、深いねたみを感じたことがありました。それは、今から20年余り前、青年だった時に、教会学校の教師をしていた時でした。子どもたちの人気が、自分に集まるとうれしいのです。けれども、他にも青年の教師が何名かいました。他の青年の方に人気が集まると、何だかねたましいのです。自分が一番人気者でいたいのです。そういうねたみを感じながら、教会学校の奉仕をしていました。
 私は、自分の中にねたみがあることを知っていました。それが、聖書の教えから見て罪深いものであることも知っていましたし、そういうねたみを感じる自分をさもしい、情けないとも思っていました。だから、辛うじて、そのねたみ心を表面に出して、人気争いの行いをしたり、相手を陥れるようなことはしませんでした。それでも、自分の内に燃え上がるねたみの炎は消せないのです。くすぶっているのです。
 今は、自分の内にその時のようなねたみを感じることはなくなりました。けれども、もしこの教会に二人の牧師がいたら、私はもう一人の牧師に深いねたみを感じるかも知れません。3章前半にあったように、私たちは舌を完全に制御できないように、ねたみの心も制御できないのです。
 自分の内に潜むねたみの心は恐ろしい。その根本にある、己の利益を図ろうとする利己心、自己中心の心は恐ろしいのです。なぜなら、それは「混乱やあらゆる悪い行い」を生み出し、人と人の間に対立と争いを呼ぶからです。だから、それは「地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです」(15節)と言われるのです。人を神さまから引き離し、神さまの御心である愛と平和から引き離し、混乱と争いに引き込む要素、原因を、聖書は「悪魔」という象徴的な言葉で表すのです。そして、それは神さまのいない「この世」で、「地上」で、しばしば起こることです。職場で、学校で、サークルで、人が集まるところ、この社会において、しばしば起こるのです。最も親密な交わりである家庭においてさえも起こるのです。教会も例外ではありません。教会も人の集まりです。「地上」に、「この世」に属するものです。もし私たちが目の前にいる人の言葉や行いにばかり心を奪われて、ねたんだり、腹を立てたり、憎んだりして、相手を負かそう、自分の意見を通そうとして己の利益を図り、上に目を向けないならば、上を見上げて神さまに心を向けないならば、教会もまた混乱と争いの巷(ちまた)になるのです。

 利己的な心に支配され、混乱と争いを生み出さないために、「平和を実現する」ために、私たちはどうしたら良いのでしょう。上を見上げることです。目の前の相手から目を逸らし、神さまを見上げて深く、一つ深呼吸をすることです。そこで、神さまの御心が何であるかを思うことです。それによって「上から出た知恵」(17節)を、自分の内に少しずつ積み上げ、身に付けていくことです。
 私はいつもそうするのです。人の言葉にカチンときたり、相手の態度にいらいらしたり、“こんちくしょう!”と腹が立ったりして、時には、相手を言いこめてやろう、負かしてやろう、と思うことがあります。けれども、そんな時、思い出して深呼吸を一つします。そして、上を見上げます。神さまの御心が何であるかを思い起こします。その御心に照らして、自分がどのように映っているかを考えます。
「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」(17節)。
 神さまは、このようにおっしゃるのです。こう言われたら、“神さま、まいりました”と言う以外にありません。自分のねたみ、腹立ち、憎しみ、その底にある利己心を認めて、すなわち自分の罪を認めて、自重する以外にありません。“ああ、自分って、こういう人間なんだなあ”と、自分を御言葉によって客観的に見て、自分を笑う(苦笑い)ことができれば、心は穏やかになります。柔和になります。
 そのように自分の心がすぐにおさまる時もあります。逆に、そういう自分を認めたくなくて、時間がかかるときもあります。いろんなケースがあります。しかし、“自分はクリスチャンである”という誇りを持っている以上、“信仰はかっこつけのアクセサリーではない”と自負している以上、神の御心に従順にならずにはいられない。たとえ時間がかかっても、年月を要しても、いい。ただ、神に聞き従わない自分を認めるわけにはいかないのです。それが、私たちクリスチャンの信仰の誇りでしょう。

 だいたい、混乱と争いの中で、相手にこだわっていたら、自分の損です。相手にこだわっているということは、相手に支配されているということです。いつもその相手を意識して、縛られて、心が自由ではないのです。主体的になれないのです。それって、心がもやもやして、気分の良くないものだと思うのです。
 だからこそ、目の前の相手ではなく、神さまに心を向ける。神さまの御言葉に耳を傾け、神さまの御心は何かと思いめぐらす。そうすれば、こだわっている相手から心が解放されます。自由になれます。柔和になれます。相手を赦すことができます。受け入れることができます。自分の利己心を認めることができます。それは、相手に“負けた”ということではありません。たとえ表面的には負けたように見えても、それは自分に“勝った”ということです。御言葉の助けによって、信仰と愛によって、利己的で罪深い自分に“勝った”ということです。自分の内に潜む悪魔に“勝った”ということです。
 どうせ信仰生活を歩むなら、勝利の道を歩みましょう。信仰と愛の勝利のあるところにこそ、平和な交わりがあります。平和な交わりこそが、福音を伝道し、人を育てるのです。






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