2010年2月21日 礼拝説教
  聖  書  ヤコブの手紙4章1〜10節
  説教者  山岡 創

「 神の友になろう 」

 先日の火曜日に、〈やさしい聖書入門〉の集まりがありました。この会は主に、求道中の方や洗礼を受けて間もない方に集まっていただいて、聖書を学び、信仰や教会生活について分かち合うことを目的としています。この前は新しい方も加えられて、交わりという意味でも良い機会となりました。
 この会において、『これがキリスト教』という本を通して、先日は“祈り”について学びました。その時、取り上げた聖書の御言葉はルカ福音書18章にある〈やもめと裁判官のたとえ〉でした。あるところに、夫を失ったやもめがいて、何か訴え事があって、その地方の裁判官のところにひっきりなしに通っていました。ところが、この裁判官というのが、神を畏(おそ)れず、人を人とも思わないような、性(しょう)もない裁判官で、初めはやもめの訴えを取り合おうともしませんでした。けれども、やもめが年がら年中やって来ては訴えるので、煩(わづら)わしくなりまして、“早いところ、あのやもめのために裁判をしてやろう、そうでないと夜も眠れない”といった気持になりまして、裁判をしてやるというたとえ話です。主イエスは、このたとえ話を、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」(18章1節)なさったのです。
ところで、分かち合いの時間に、“なぜ本の著者は、祈りについて取り上げるのに、この聖書箇所を選んだのだろう? 他にも祈りについて書かれている聖書箇所はいくつかあると思うが”という質問が出ました。私は少し考えて、“それが祈りの初歩だからでしょう”と答えました。祈りの道にも初歩から奥義まである。初めの1歩は、祈りの道を歩き始めたら、途中でやめず、「気を落とさずに絶えず」祈る、祈り続けるということだと思うのです。祈っていても、神さまがその祈りに応えてくれないと、祈っても叶わない、どうせ祈ったって無駄ではないか、と気を落とすことがあるのです。けれども、主イエスは、あのやもめのように絶えず祈り求めれば、神さまだって応えてくださる、だから気を落とさず祈り続けよ、とお教えになったのです。

けれども、絶えず祈り続けることが身に付いたら、今度はもう1歩先に進まなければなりません。祈り続けても、応えられない、与えられないことが、祈りにはあるのです。その理由として、ヤコブの手紙は次のように書き記しています。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(2〜3節)。願い求めても、与えられないことがある。それは、自分の楽しみのため、という間違った動機で願い求めるからだと言うのです。
なぜ「自分の楽しみのために」祈り、願い求めることが「間違った動機」なのでしょうか。人間、ちょっとは自分の楽しみを考え、そのために祈ったとしても、そんなに悪いことではないと思われます。けれども、「自分の楽しみのため」という目的が度を超すと、それは「悪い行い」(3章16節)となり、“罪”になります。それは、「自分の楽しみのために」ということが、“自分の欲望のために”と言い換えることができるぐらい、利己的な祈りになっている時です。いや、もはやそれは“祈り”とは呼べないでしょう。利己的な楽しみ、欲望のために祈り求める。それは、間違った動機なのです。
ヤコブは1節以下で、こう語っています。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします」(1〜2節)。
私たちは、生きていれば様々なものを得たいと願います。健康を、美貌を、財産を、家や土地を、地位を、名誉を、成功を、権力を、人気を、友人を、恋人を、パートナーを、‥‥得たいと願います。その願いが、生きる気力や向上心、努力を生み出す良い動機になることもあります。慎ましく、他人に迷惑をかけない願いであれば良いのです。けれども、それらを欲するあまり、それを得るために、人と争うようになることがある。フェアな競争ならば、まだ良いかもしれません。けれども、次第に手段を選ばなくなる。周りの人の迷惑や損害を省みないようになる。競争相手を陥れるようなこともするようになる。戦うようになる。最悪の場合、人を殺してでも欲するものを得ようとする。それが国家単位になれば戦争にさえなる。それが「欲望」というものです。
「欲望」によって祈り求めても、それは神の御心に適いません。なぜなら、欲望とは、望むものを得るために人と争い戦うことも辞さない利己心、自己中心さであり、他方、神の御心は、3章の終りにもあったように「平和を実現する」ことだからです。だから、欲望によって手に入れたとしても、それは神が与えたものではないのです。自分の力で奪い取ったものです。
自分の欲望に従って生きる者を、ヤコブは「世の友」(4節)と呼びます。なぜ、こういう表現をするのかと言えば、聖書の中で「世」というのは、神と対立する世界と考えられることが多いからです。「世」とは欲望の渦巻く世界です。そして、「世の友」であるならば、「神の敵」(4節)だとヤコブは言います。神の御心に従っていないからです。人と争わず、戦わず、「柔和な行い」(3章13節)で、「平和を実現する」(3章18節)方向に生きていないからです。

 そのように、「世の友」となり、「神の敵」として生きている者を、神さまは憎まれるのでしょうか? そうではありません。ねたむのです。私たちを奪おうとする「世」をねたむのです。私たちをねたむのです。「世の友」なんかにしたくない、「世」になんか奪われたくないと、ねたむほどに私たちを愛しておられると、ヤコブは言うのです。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる」(6節)と書かれているとおりです。
 けれども、“神さまがねたむ、とはどういうことか? 3章14節でねたみはだめだとヤコブは言ったではないか、私たちはだめなのに、神さまはねたんでも良いのか?”と思われる方がいらっしゃるかも知れません。
 ねたみにも2種類あります。3章14節にあるように、利己的なねたみはだめです。相手と争い、戦い、奪い取るようなねたみはだめです。けれども、もう一つ、変な言い方ですが、ねたみにも“正当なねたみ”と言っても良いものがあります。それは、自分のものなのに、それが自分から奪われ、離れて行く時に感じるねたみです。神さまのねたみは、こっちです。
 旧約聖書の始め、創世記の冒頭を読むと、神さまがこの世界を、天地を、そして人間をお造りになったことが描かれています。神さまは製作者として、創造者として、この世界の、私たち人間の所有者なのです。しかし、アダムとエヴァの物語によって表わされているように、人間は「悪魔」(7節、創世記では“へび”)によって、「欲望」という名の悪魔によって罪に奪われました。罪に奪われた私たち人間を、神さまは苦労して苦労して、独り子イエス・キリストを通して、ご自分が私たちのことをどんなに愛しておられるかをお示しになって、“わたしの愛の下に帰っておいで”と取り戻そうとなさったのです。キリストの命をかけてまでも、ご自分の愛が命がけであるほど強く、深いことをお示しになって、私たちを取り戻そうとなさったのです。その愛を知って、信じて、私たちは神のもとに立ち帰ったのです。再び神のものと、キリストのものとなったのです。それがクリスチャンです。聖書は、クリスチャンとは、主エス・キリストと結婚した“花嫁”であるとさえ語っているのです。私たちはキリストと“夫婦”なのです。
 その私たちが、またもや神さまの御心から離れて、「世の友」になったら、世に浮気したら、それは神さまがねたむのが当然ではないでしょうか。だいたい、私たちが「世の友」、“世の恋人”になっても、ねたみもせず、“別にいいよ”とか言っている神さまだったら、さびしいのではないでしょうか。
 塩谷直哉氏という、私の友人の牧師が、『迷っているけど着くはずだ』という著書の中〈焼きもちに身を委ね 〜 熱情の神〉というタイトルの章を書いています。その中で、塩谷牧師は、ある男性が夫婦の問題で相談に訪れた時のことを書いています。その男性のクリスチャンの妻が、最近よそよそしくなった。そのことで、自分がどんなにさびしい気持でいるかを伝えるために、“もしおれが、他に女を作ってお前から逃げたらさ、どういう気持になる?”と尋ねたそうです。すると、妻は“それも神さまの決めたこととして受け入れます。仕方ありません”。それを聞いた男性は思わず、“ばか!おれはそんなこと言ってるんじゃない!”と怒鳴ってしまった。男性は、妻に怒ってほしかったのです。焼きもちを焼いてほしかったのです。妻が自分の方を向いてくれないから、それがどんなに悔しいものか、妻に分かってもらいたかったのです。それなのに、信仰を“だし”にした、冷淡な答えが返ってきた。もちろん、そんなことを言われたら、妻もプライドや意地が湧き起ったことでしょう。それを考えないこの男性も、ちょっと身勝手かも知れない。それでも、この男性は妻に、意地もプライドも捨てて、怒ってほしかった。ねたんでほしかった。それが、“愛”というものではないでしょうか。
 神さまは、私たちを愛するために、ご自分の意地もプライドも捨てている。意地やプライドからご自分の体面を保とうなんて考えない。それって、すごいことです。自分たちのことを考えたら、よく分かる。いや、意地やプライドはおろか、命さえ捨てている。“わたしの命さえも、あなたにあげよう。だから、わたしの愛を信じてくれ。頼む”。そう言っておられるのです。この神さまの、己を捨てた愛を表しているのが、体現しているのが、主イエス・キリストのご生涯であり、十字架の死です。先日の17日・灰の水曜日から、キリストの苦しみと十字架を心に刻む受難節レントが始まりましたが、この期間に私たちが心に留めるべきことは、まさにこの、己を捨てた神の愛です。意地もプライドも、命さえもかなぐり捨てて、ねたむほどに私たちを愛する神の愛です。

 ねたむほどの神の愛が、私たちには注がれている。それは、私たちにとって、うっとうしいことでしょうか? うっとうしいと感じることもあるでしょうね。信仰の道に入ってからでさえも、うっとうしいと感じて、ちょっと離れたくなることもあります。
 けれども、そのように感じるときは、まだ自分の内に「欲望」が生きて働いている時です。「欲望」とは言わないまでも、自己中心な思いが働いている時です。“自分が、自分で”と、自分の思い、自分の力が強い時です。自分の力で生きているのではなく、神さまに生かされてあることを、まだ知らない時、忘れている時です。だからこそ、ヤコブは言います。
「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(10節)。
 「笑いを悲しみに」「喜びを憂いに」と言われると、“えっ!?”と思うかも知れません。けれども、ヤコブが語る「笑い」「喜び」とは、利己的な欲望によって得たもので満足している笑いであり、喜びです。その罪に気づかない笑いであり、喜びです。
 そういう自分の生きざま、自分の心の間違いに気づいて、これではだめだったと悲しみ、嘆き、泣きなさい、とヤコブは言うのです。つまり、悔い改めなさいと、御言葉によって打ち砕かれ、へりくだりなさいと、ヤコブは言うのです。
 神さまをシャット・アウトしている「欲望」という壁が、“自分”という壁が打ち砕かれた時、私たちの心の内に、神の愛が洪水のようになだれ込んできます。神の愛の下に生きる本物の「笑い」を、「喜び」を味わえるようになるのです。





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