2010年2月28日 大人と子供が共に守る礼拝説教(受 難節第2)
  聖  書 使徒言行録22章17〜21節
  説教者  山岡 創

「 行け、あなたを遣わす 」

 今日読んだ聖書箇所の前に、太字で〈パウロ、異邦人のための宣教者となる〉という題がありますね。みんなは、パウロという人を知っていますか?
パウロさんという人は、イエス様や、そのお弟子さんのペトロさんやヨハネさんと同じ時代の人です。ペトロさんやヨハネさんといった12弟子たちが、イエス様の御言葉を教え、“イエス様は神の子、救い主です”と証しして、エルサレムに教会を造った時、パウロさんもイエス様を救い主と信じました。そして、その後、陸を旅し、海を渡って、色々な町に行き、たくさんの人々に、「異邦人」といってユダヤ人でない人々に、イエス様の救いを伝え、教会を造ったのがパウロさんです。

 でもね、パウロさんって、初めからイエス様を信じる人ではありませんでした。むしろ、イエス様に反対する人でした。“イエスが神の子で、救い主だなんて言うのは、うそっぱちだ!”。そう思っていたのです。
 先週の子ども礼拝で、野澤くんがパウロさんのことをお話ししてくれました。その説教の中で、野澤くんも、友だちに誘われて初めて教会に来たとき、“キリスト教は間違っている、その間違いを見つけてやろう”と思って、教会に来た、とお話ししてくれました。パウロさんと同じで、キリスト教と教会に反対だったのですね。
 でも、神さまがなさることは不思議だね。その野澤くんが、神さまを信じて、洗礼を受けて、子どもチャペルで、イエス様のことを伝える人にされたのだから。
 パウロさんも初めは、キリスト教の信仰はうそぱっちだ、間違っていると思っていたのです。思っているだけでなく、そういうキリスト教の信仰を、イエス様を信じる人々に腹を立てていたのです。“イエスを神の子、救い主と信じるなんて、神さまを侮辱している!”って腹を立てていた。そして、腹を立てるだけで終わらず、キリスト教なんて潰(つぶ)してやる!と、教会を潰し始めたのです。
 そんな、“かつての自分”のことを、今日の聖書箇所で、パウロさん本人がこう告白しています。教会から教会へと回って、イエス様を信じる人々を牢屋に入れたり、鞭(むち)でうちたたいたりしていた、と。また、エルサレム教会の中心人物の一人であったステファノさんという人が石打ちの刑で処刑され、殺された時、自分も賛成し、石を投げる人たちの上着の番をしていた、と。上着の番をするのは、簡単に言えば、その処刑の責任者だったということです。
 そのようにパウロさんは教会とイエス様を信じる人々を潰しました。それだけでなく、他の町にも教会があると聞いて、ダマスコという町に出かけて行って、教会を潰そうとしたのです。
 けれども、その旅の途中で、天から強烈な光が射してきた。その光を浴びて、パウロさんは目が見えなくなってしまったのです。目が見えなくなっただけではない。「(パウロ、パウロ)、なぜわたしを迫害するのか」(使徒9章4節)というイエス様のこえを聞いたのです。そのためパウロさんは、自分がどうしたら良いか、分らなくなってしまいました。そこで、目の見えなくなったパウロさんは、一緒にいた人に手を引いてもらって、取りあえずダマスコの町に入り、どうしたら良いか、迷い悩んでいたのです。
 そこに、ダマスコに住んでいるイエス様を信じる人で、アナニアさんという人が現れました。アナニアさんは、迷っているパウロさんに言いました。“神さまがあなたを選んだのです。イエス様の御言葉と救いを伝えるために。
さあ、今までの罪を悔い改めて洗礼を受け、生まれ変わりなさい”。それは、アナニアさんの言葉だったけれど、パウロさんにとっては“神さまの声”のように聞こえたに違いありません。
 パウロさんは思ったでしょう。自分のような者が、神さまに、イエス様に赦していただけるのだろうか。自分は今まで、イエス様に反対し、イエス様を信じる人々を鞭で打ち、牢屋に入れ、処刑して来た。こんなに大きな罪を、イエス様は赦してくださると言うのか。“わたしが十字架に架かって、あなたの罪のために死んだから、あなたの罪の償(つぐな)いとして命をささげたから、もうあなたの罪は赦されているのだ”とイエス様は言ってくださる。こんな自分が赦されて、もう一度、神さまのために働くことができるなんて、イエス様の愛は何と大きく、深いのだろう。パウロさんは、涙を流して悔い改め、洗礼を受けたに違いありません。


 イエス様の愛、神さまの愛は、私たちを生まれ変わらせることができるのです。
 先ほど、讃美歌21・451番〈くすしきみ恵み〉を歌いました。この讃美歌は、世界中で〈アメイジング・グレイス〉という題名で知られている有名な讃美歌です。
 この讃美歌は、イギリスの牧師であったジョン・ニュートンという人が作ったものです。このニュートンも、初めから牧師であったわけではありません。彼は、元は奴隷商人でした。性格も悪く、荒くれ者で、奴隷にもとても冷たかったと言われています。そんなニュートンが、奴隷船で奴隷を運ぶ航海の途中で嵐に遭います。彼は、船の上で“神さま、助けてください”と祈り続けました。そして、“もうだめだ”とあきらめた時、嵐は止み、奇跡的に助かったのです。
 その時から、ニュートンは、彼が7歳の時に亡くなったお母さんが遺してくれた形見の聖書を読み始めます。そして、神さまの愛を知り、心から救われ、変えられ、ニュートンはやがて牧師へと生まれ変わったのです。そのニュートンが、“こんな愚かな、どうしようもない自分さえも、神さまは救ってくださった”という感動を込めて作ったのが、アメイジング・グレイス、讃美歌451番なのです。

 神さまの愛は、どんなに罪深い人も、どんなに愚かだった人も、どんなに絶望していた人も、生まれ変わらせることができます。今までとは違う、新しい人生へと、神さまに喜ばれる生き方へと生まれ変わらせることができるのです。そのことが、今日の聖書箇所の最後の御言葉によって表わされてます。
「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」(21節)。
 パウロさんは、こう言われて、新しい人生へと、神さまから送り出されました。先ほど、ユダヤ人でない人を異邦人と言うとお話ししましたが、パウロさんは異邦人にイエス様の愛を伝える人生へと、異邦人のために生きる新しい人生へと、神さまによって送り出されたのです。
 「行け」、そう言って、神さまは私たちのことを、どんな人生に送り出してくださるのでしょうか。パウロさんが「異邦人のために」遣わされたように、私たちも“だれかのための”人生に送り出されるのだと思います。“自分のためばかりの人生ではなく、だれかのために生きなさい”と神さまは言われるのです。その“だれか”というのは、必ずしも自分の好きな人、自分と仲の良い人とは限りません。
 最初、パウロさんも、自分がユダヤ人なので、ユダヤ人にイエス様を伝えたかったようです。けれども、神さまは、異邦人のために働きなさいと言われました。パウロさんも、最初はちょっと嫌だったかも知れないけれど、神さまの言葉に従って、異邦人のためにイエス様の愛を伝える人になりました。
 神さまは、“行け。そして、この人を愛しなさい”と言って、だれのところに私たちを送り出すのでしょうか。自分はきっと、この人のところに遣(つか)わされているのだ、と思い当たる人がいますか? 神さまが“ここに、この人のところに行きなさい”と言われるところに行って、新しい気持で、人を愛する人生を歩みましょう。





   ウィンドウを閉じる