2010年3月7日 受難節レント第3礼拝説教
  聖  書 ヤコブの手紙4章11〜13節
  説教者  山岡 創

「 裁いてはならない 」

 旧約聖書は元々ヘブライ語で、新約聖書はコイネーと言われるギリシア語で書かれました。それを訳した日本語訳聖書がいくつかあります。その中で、私たちの教会では新共同訳聖書を使っています。
これら日本語訳聖書の中に、リビング・バイブルと呼ばれる聖書があります。元々の原典に忠実に訳すと言うよりも、その意味をかみ砕いて、分り易く意訳したものです。このリビング・バイブルによれば、今日の聖書の御言葉は次のように訳されています。とても分かり易かったので、ちょっと紹介します。新共同訳聖書と比較しながら聞いてみてください。
「愛する皆さん、批判や悪口に明け暮れてはいけません。これが守れないようなら、『互いに愛し合いなさい』という神様のおきてを踏みにじるだけでなく、恐れ多くも、おきてのほうがまちがっていると、さばくことになるのです。あなたがたのなすべきことは、おきての良し悪しを決めることではなく、それに従うことです。正しく裁くことのできる方は、おきてを造られた神様お一人です。神様だけが、意のままに、わたしたちを救ったり、滅ぼしたりなさるのです。それなのに、あなたは何の権威によって、人を裁いたり、批判したりするのですか」。

 今日の御言葉をお読みになって、例えば、「律法を裁く」(11節)とはどういう意味だろう?と疑問に思った方がいるかも知れません。それは、恐れ多くも、自分の方が正しく、聖書の方がまちがっている、主イエスの教えの方がまちがっていると考えて、それに従わない、ということです。聖書の良し悪しを自分の目で決めている、ということです。
 確かに、聖書を読んでいて、そのすべてに納得できるわけではないでしょう。よく分らない箇所もあるし、ところによっては“おかしいのではないか”と感じる言葉もあるでしょう。それが悪いとは言いません。聖書とどのように向かい合うかということは、ある意味で、その人の自由です。私たちは皆、自分の視点、自分の価値観、自分の人生観を持ちながら生きています。そこから聖書を見て、聖書と向かい合っているのですから、時には聖書と自分がかみ合わないところも出てくるでしょう。
 けれども、聖書によって救いを求めるならば、人生の道を求めるならば、いやしくも洗礼を受け、クリスチャンとして歩んでいるならば、聖書の“上”に自分を置かない、ということが大切です。聖書に“従う”立場を取る、ということです。聖書の良し悪しを判断して、“これはおかしいから従わない”と言ったら、自分を聖書の上に置いていることになります。「律法を裁くこと」になっています。聖書の「裁き手」になっているのです。
 聖書と向かい合うということは、そういう自分中心な“自我”の視点を打ち砕いていただいて、神中心の生き方へと変えられて行く、ということです。自分が“生きている”から、神に“生かされている”という思いに変えられて行く、ということです。もちろん疑問なことはあるでしょう。けれども、その御言葉の良し悪しを勝手に判断して、おかしいから捨てる、従わないと言ってはならない。少なくとも、“いつか疑問が解けて分かるようにされる”ことを信じて、保留しておくという態度を取るべきでしょう。
 私はふと、弟子たちが主イエスに招かれて従った時の光景を思い起こしました。ペトロとアンデレがガリラヤ湖で漁をしていた時、主イエスは彼らに、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1章17節)と二人を招かれました。すると、二人はすぐに網を捨てて主イエスに従いました。収税所に座っていた徴税人レビに、主イエスは「わたしに従いなさい」と言われました。すると、レビは立ち上がって主イエスに従いました。そこには、どうして従ったのかという理由は何も書かれていません。何か経緯があったかも知れませんが、聖書は、その経緯、理由を語りません。それは、“従いなさい”と招かれた主イエスに対する良し悪しの判断をしないで従って行く、という意味が込められているのではないか。今日の聖書箇所を黙想しながら、私はそんなふうに感じました。

「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります」(11節)。
 人の悪口を言い、更に人を非難する者は、「互いに愛し合いなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられた主イエスの御言葉に反し、それどころか、その教えはまちがっていると裁くことになるのです。
 つい人の悪口で盛り上がってしまった、という経験が、だれしも1度や2度はあるのではないでしょうか。もし1度や2度どころではない、日常的になっていると自分を省みて思い当たるならば、その人は、神の前に深く悔い改める必要があります。
 しかし、人の悪口を言う自分を、愚かだ、卑しい、情けないと感じるようになれば、人の悪口を言いたくなる自分の感情にブレーキをかけるようになります。心ある人は、軽々しく人の悪口を言いません。できるだけ相手を良く見よう、良い点を見つけようと心掛けます。
 けれども、厄介なのは、人を裁くときです。感情的な悪口とはちょっと違う。自分の方に、相手の良し悪しを判断する何らかの視点、価値観があって、そこから相手を“おかしい、まちがっている”と非難するときです。
 特に、私たちが注意をしなければならいことは、神を信じる者は、神を信じるという視点から、つまり信仰から相手を裁いてしまうことがある、という点です。聖書によって、律法によって、人を裁いてしまいがちだということです。主イエスが律法の中で最も重要だと言われた「互いに愛し合いなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」という教えに従わず、自分流に聖書を読んで、自分流の聖書理解、自分流の信仰で人を裁いてしまうのです。しかも、それは自分流、つまり自己中心な信仰なのですが、そのことに気づかず、自分は信仰的だ、神さまの目から見て正しいことを言っている、神さまに従っているという思いがありますから、非常に厄介です。
 私は、ヨハネによる福音書8章にある〈姦通の現場で捕らえられた女性〉の話を思い起こします。一人の女性が姦通の現場で捕らえられ、主イエスの前に連れて来られました。遊女だったのかも知れません。聖書の律法、十戒には「姦淫してはならない」(出エジプト記20章14節)と、確かに定められています。律法学者やファリサイ派といった信仰熱心な人々は、「先生、この女は姦通しているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と、主イエスに詰め寄りました。確かに、旧約聖書の申命記22章22節以下に、姦通の罪を犯した者は石で打ち殺して悪を取り除け、と記されています。彼らの言うことは、聖書の律法から見て、まちがってはいないのです。正しいのです。
 なかなかお答えにならない主イエスに、彼らは執拗に詰め寄りました。その時、主イエスはこう言われたのです。
「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
 人を非難し、裁こうとする者が忘れがちなのは、そうする前に、まず自分自身を見つめ直す、ということです。聖書の御言葉は、人を裁くためではなく、自分を見つめ直し、省みるためにあるのです。人に厳しく、自分に甘い。そういう目で、自分のことは棚に上げて、人のことばかりを非難しがちな私たち自身を見つめ直し、気づかせ、悔い改めさせるためにあるのです。それなのに、私たちは、聖書の御言葉を聞いても、“これは自分には関係ない。自分はできている”と思ったり、“あの人に聞かせてやりたい”と考えたりするのです。そういう時、私たちは聖書の前に立っていない。神の御前に歩んでいないのです。
 主イエスの一言は、人々をハッとさせました。人々を神の前に立たせました。一人一人を聖書の前に立たせ、まず自分自身を見つめさせました。自分は姦通の罪を犯したことはないか? ある、と心当たりを感じた者もいたでしょう。ない、という人も少なからずいたでしょう。しかし、聖書の教えはそれだけではない。聖書の多くの御言葉に照らして、自分はそれらに背いたことがないと言えるのか? 行いや言葉として形になった罪だけが問題なのではありません。心の中で、神に従わず、御言葉に背き、罪の心を抱いたことはないか? そのことを、主イエスの一言によって、人々は自分自身に問われました。
 一人去り、二人去り、ついにすべての人がその場を去って行きました。だれも石を投げることができませんでした。
 人を非難し、裁く者が忘れがちなのは、自分もまた、神さまから非難され、裁かれるような人間なのだ、ということです。自分もまた“罪人”なのだ、ということです。主イエスはその点に、人々の目を開かせたのです。
 すべての人が立ち去った後で、主イエスはこの女性に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8章11節)。
 今日の聖書の御言葉に、「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです」(12節)とありました。この方はもちろん、父なる神さまです。そして、父なる神の御心を宿してこの世に遣わされた神の独り子イエス・キリストだけです。裁きは主イエスが行うのです。キリストが救うことも滅ぼすこともなさるのです。
 けれども、主イエスはこの女性を裁いて、滅ぼしませんでした。なぜなら、父なる神の御心は、正しく裁いて滅ぼすことではないからです。愛によって赦し、生かすことだからです。
 けれども、人の罪が消えてなくなるわけではありません。その罪の痛みを主イエスご自身が負われました。私たちの罪の償いとして、ご自分の命を十字架の上でささげられました。命がけの愛を示してくださいました。愛とは、人の罪を負って生きること、死ぬことだと言っても良いかも知れません。
 律法学者やファリサイ派の人々は、姦通の女性を赦した主イエスを、聖書の律法によって裁き、十字架に架けました。私たちもまた自分の視点で人を非難します。信仰によって「隣人」を裁きます。ならば、主イエスを十字架に架けたのは、私たち自身だと言うこともできるでしょう。十字架は、私たちの罪のしるしです。“罪の塔”です。
 けれども、同時に十字架は、神の命がけの愛のしるしです。“愛の塔”です。そして、神の愛は、私たちの罪にまさるからこそ、私たちは裁かれず、赦されるのです。未熟な私たちが、罪・過ちを繰り返しても、神さまは何度となく立ち上がらせ、生かしてくださるのです。やり直させてくださるのです。
 受難節レントの歩みの中で、主イエスの御言葉の前で、主イエス・キリストの十字架の前で、自分を見つめ直し、悔い改め、神の愛に感謝する者とならせていただきましょう。





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