2010年3月14日 受難節レント第4主日礼拝説教
  聖  書 マルコによる福音書8章27〜38節
  説教者  山岡 創

「 自分の十字架を背負って 」

 「あなたは、メシアです」(29節)。
 主イエスの問いかけに、弟子たちを代表してペトロが答えました。それは弟子たち皆の思いであったでしょう。そして、これはキリスト教2千年に及ぶ歴史の中で、いちばん最初になされた信仰告白だと言ってよいでしょう。「メシア」とは、ユダヤ人の言語であるヘブライ語で“油を注がれた者”という意味です。神さまから特別な使命のために選ばれた者を表します。それが、主イエスの時代には“救い主”というニュアンスで用いられました。弟子たちは主イエスを、“神から遣わされた救い主”と信じたのです。
 「あなたは、メシアです」。
 私たちも、“イエス様は救い主です”と信仰を告白します。一般に“イエス・キリスト”と一言で言われますが、元々これはイエスが名前で、キリストが苗字といった関係ではありません。キリストとは、メシアというヘブライ語を、当時の公用語であり、新約聖書もそれで書かれたギリシア語で表したものです。だから、私たちが何気なく“イエス・キリスト”と言うとき、それは“イエスはキリストです、メシアです、救い主です”と信仰を言い表しているのです。
  わたしは天地の造り主、全能の父である神を信じます。わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。‥‥
 この説教の後で、私たちは信仰告白をいたします。私たちの教会では、主の祈りや信仰告白を意識してゆっくりと唱えるように心がけています。と言うのは、その意味を味わいかみしめて祈り、告白してほしいという思いがあるからです。信仰告白にしても、毎週告白していますから、いつの間にか諳(そら)んじて言えるようになります。それどころか、ともすれば頭では別のことを考えていても口は勝手に信仰告白を唱えているというほどに、無意識でも言えるようになるものです。もちろん、そうであってはなりません。だから、信仰告白が表す意味を意識してかみしめながら、共に告白したいのです。そのためには、早口で言うと、ただ覚えている言葉を並べているだけになってしまいますから、それで、ゆっくりと、一瞬でも間を取りながら告白するようにしているのです。

 けれども、信仰告白とは、礼拝において唱え、言葉で言い表せば良い、というものではありません。
 別の聖書箇所で、主イエスは次のように言われました。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7章21節)。
 イエス様に向かって、“あなたは私の主です。救い主です”と口で言えば、天の国に入れるわけではない。救われるわけではない。天の父である神の御心を行ってこそ、天の救いの御国に入れていただくことができるのです。
 主イエスのこの言葉は、私たちに、自分の信仰を見直すことを迫ります。口だけの信徒になっていないか、日曜日の礼拝の時だけのサンデー・クリスチャンになってはいないか。日常生活において、父なる神の御心に従い、行って生きているか。それが、イエスを主、キリストと告白することの実質なのです。イエス様に向かって、“あなたは私の主です。救い主です”と告白するということは、その主である方の御心に従い、行うことに他なりません。そのような生活があってこそ、信仰告白は行いに裏打ちされた、真実なものになるのです。
 ならば、父なる神の御心、主イエスの御心とは何でしょうか。今日の聖書の御言葉から言えば、34節に主イエスの御心が、はっきりと表わされています。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)。
 自分を捨て、自分の十字架を背負って生きること。それが、私たちの信仰告白を、口だけではない、重みのあるものとするのです。

 主イエスご自身にとって、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」生きるとは、どのようなことでしょうか。それは、31節に示されています。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され(る)」(31節)。
 実際、主イエスはこの後、彼らに罪を着せられ、彼らの手で、十字架に架けられて殺されることになるのです。それが、主イエスの負われた十字架でした。主イエスはご自分の“命”をお捨てになったのです。
 そのような苦しみ、十字架を、なぜ主イエスは負わなければならなかったのでしょうか。避けることはできなかったのでしょうか。
 避けることはできなかったのです。逃げることもできなかったのです。それが、父なる神の御心に従い、行うことに伴う必然であったからです。
当時、長老、祭司長、律法学者たちが指導していたユダヤ教は、神の掟である律法を守るユダヤ人を神は救われるのだ、と信じていました。だから、異邦人は救われませんし、ユダヤ人であっても徴税人や遊女のように律法を守らない者は救われないと考え、そのような人々を軽蔑し、差別していました。
 ところが、主イエスは、父なる神の御心は、人を分け隔てなさらず、一人一人を慈しみ愛されることだ、と汲み取っておられました。だから主イエスは、ユダヤ人が忌み嫌う徴税人や遊女にも神の恵みを伝え、彼らと食事を共にしましたし、時には異邦人にさえ癒しの業をなさいました。それによって体を癒され、心を癒された者がどれほどいたでしょうか。一言で言うなら、主イエスは彼らを愛したのです。彼らに“神の愛”を、神に代わって届けたのです。
 けれども、そういう主イエスの伝道は、従来のユダヤ教信仰とは相容れず、長老、祭司長、律法学者たちを苛立(いらだ)たせました。すでにこの頃、彼らは主イエスに対する殺意さえ抱いていました。そういう空気を主イエスも感じ取っておられたでしょう。しかし、だからと言って、彼らを憚(はばか)り、おもねるわけにはいかないし、伝道することをやめ、逃げるわけにもいかないのです。なぜなら、父なる神が愛されている一人一人に、苦しみ悩む者を愛すること、神の愛を届けることこそ、父なる神の御心に従い、行うことであり、それがご自分の使命だと確信しておられたからでしょう。
 そのために、主イエスは長老、祭司長、律法学者たちに排斥され、十字架に架けられ、殺されることになったのです。言わば、主イエスは、人を愛するために命をお捨てになったのです。愛のゆえに十字架に架けられたのです。だから、「自分の十字架を背負う」ということは、“愛するための重荷”を背負う、ということに他なりません。

 私たちには一人一人、愛すべき人がいます。家族、友人、職場の同僚、そして教会の仲間等です。それだけではありません。聖書の教えによれば、自分に敵対する者や自分をいじめ、迫害する者をも愛しなさいと教えられていますし、全く知らない、見ず知らずの人であっても、その人が愛を必要としているなら愛するように勧められています。
 愛するとは、自分の都合の良い時に、自分が好きな、仲の良い相手だけに親切にしたり、思いやったりすることではありません。
 主イエスは、隣人を自分のように愛するとは、こういうことだと教えるために、〈善いサマリア人〉のたとえ話をなさいました(ルカ10章25節以下)。あるユダヤ人が強盗に襲われ、道端に倒れていた。同じユダヤ人の祭司と神殿の雑用を行う人が通りかかったが、助けずに行ってしまった。最後に、ユダヤ人と犬猿の仲のサマリア人が通りかかったが、彼は倒れているユダヤ人に手当てをし、ロバに乗せて宿屋まで連れて行き、宿屋の代金まで払ってやったのです。主イエスは、このサマリア人の行いこそ、隣人を愛することだと教えられたのです。
 何の義理も関わりもない、行きがかりの相手です。しかも、大嫌いなユダヤ人です。彼を愛するために、このサマリア人が、どれほどのものを捨てているか分かりますか?まず自分の好き嫌いを捨てている。何か用事や仕事があったかも知れない。でも、その都合を捨てている。時間を捨てている。労力を捨てている。そして、宿代のお金を捨てている。そう、自分を捨てているのです。捨てているという言葉が悪ければ、自分を献げていると言っても良い。自分が好きな、仲良しの相手になら、喜んで自分を献げることができるかも知れません。けれども、愛が求められるのは、そういう相手ばかりではありません。好みや考えの合わない相手、虫の好かない相手、憎らしい相手、妬ましい相手かも知れないし、また自分にとって都合の悪い時かも知れないのです。自分中心に考えたら、とても人を愛せません。
だから、愛するために自分を捨てる。それは私たちにとって“痛み”なのです。“不利益”なのです。“重荷”なのです。けれども、それは“愛のための重荷”です。だからこそ尊いのです。その深みを味わえば、私たちの心を、今まで知らなかった喜びと幸せに満たすのです。そして、それが私たちの背負うべき「自分の十字架」です。

 私は、渡辺和子さんというシスターの著書を好んで読みます。その著『愛と祈りで子どもは育つ』の中に、〈小さな死〉という章があります。その中で、渡辺さんは次のように記しています。
 「小さな死」というのは、自分の生活の中での小さな我慢、自分の利己心に克つこと、他人に流されないで生きること、相手が無礼な態度を取ったのに仕返しをすることなく許すこと、相手が恩知らずなのにこちらがやさしくしてあげること‥‥等を指します。これらはすべて自分が死なないとできません。私が、私が、と言っている間はできないのです。
  私はよく「リトル・デス」とつぶやくことがあります。たとえば、会いたくない人に会わなければいけない時、階段を降りながら、「リトル・デス」とつぶやきます。一粒の麦の「死」が豊かな収穫をもたらすように、私たちも自分が死ぬことによって豊かな命を生み出すことができると信じる時、日々の生活の中で自分が死ぬことの意味ができてきて、死を肯定することができるのです。
私たちも、普段の生活、そして人間関係の中で、“リトル・デス”とつぶやき、自分に言い聞かせることが大切ではないでしょうか。“私が、私が”と自分の都合や好き嫌いを優先させようとする自己中心という名の「サタン」(33節)が、私たちの心の中にも住んでいます。その時、“リトル・デス”とつぶやいて、自分をほんの少しでも捨ててみる。自分を死なしめる。
 けれども、それが本物の心の豊かさへとつながります。神の世界へとつながります。本来の命を得ることになります。
「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(35節)という御言葉は、そういうことでありましょう。愛のために、本当の命を生きるために、主イエスの後に従って、自分の十字架を背負って、“小さな死”を生きていきましょう。





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