2010年3月21日 受難節レント第5主日礼拝説教
  聖  書 マルコによる福音書10章32〜45節
  説教者  山岡 創

「 偉くなりたい者の道、仕える者の道 」

 「今、わたしはエルサレムに上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」(33〜34節)。
 主イエスは、ユダヤ人の3大祭りの一つである過ぎ越しの祭りに参加するためにエルサレムに上る途中、ご自分が処刑されることを予告しました。
主イエスの信仰とその愛の生き方は、祭司長や律法学者たちといったユダヤ教の指導者たちの信仰とは相容れませんでした。この後、彼らは、主イエスを裁き、律法の違反者、神を冒涜する者として死刑を宣告します。そして、主イエスはローマ人に引き渡され、十字架に架けられて殺されることになるのです。

 ところで、主イエスは今日の聖書箇所で3度、ご自分の受難と死を予告したことになります。最初は8章31節です。ここは先週の礼拝で読んだところです。2度目は9章31節において、そして3度目が今日読んだ10章33節以下です。
 主イエスの受難と死は、単に権力に押し潰(つぶ)された弱者の姿ではありません。罪を犯し、神に逆らって処刑される罪人の姿でもありません。それは、「皆に仕える者」(43節)の姿でした。「多くの人の身代金として自分の命を献げる」(45節)生き方でした。だから、主イエスは弟子たちと群衆に、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8章34節)と求めたのです。ご自分のように、自分を捨てて、自分を献げて、皆に仕える者になりなさい、と言われたのです。
 けれども、主イエスの歩む道、受難と死の予告を聞いた時の弟子たちの反応はどうだったのでしょう?
 8章31節で、最初に主イエスが予告した時、弟子のペトロが「イエスを脇へお連れして、いさめ始めた」と記されています。メシア、救世主と呼ばれる方が、そんなことになっては困る。あなたはエルサレムに行って神の王国を復興し、その王座に座る方です。すべてを支配する方です。変なことを言って、みんなの気持ちをくじかないでください‥‥‥と言うわけです。
 9章31節での2度目の予告の後では、弟子たちは、「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(9章34節)と言います。なぜなら、エルサレムに上った主イエスは、そこで神の王国を復興し、王座に座る。その時、自分たちの中でいちばん偉い者が、主イエスに次ぐ地位に就くことができる、と考えていたからです。弟子たちは、自分たちも「支配者」となり、「民を支配し」「権力を振るう」(42節)ことを願っていたのです。
 そして、今日の聖書箇所、3度目の受難と死の予告の後ではどうだったか。ヤコブとヨハネが進み出て、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)とお願いしたのです。つまり、主イエスが栄光の王座に座る時、自分たち二人を、主イエスに次ぐ地位に就けてほしいと願ったということです。他の10人の弟子たちも、二人に出し抜かれたと「腹を立て始めた」(41節)というのですから、考えていることは皆同じだったのです。
 と言うことは、主イエスが3度繰り返して、ご自分の受難と死を予告し、それがどういう意味なのか、どういう道なのか、弟子たちに教えたにもかかわらず、弟子たちはそれが分らず、全く違うものを、正反対のものを願い求めていた、ということです。
 主イエスが願い求めているものと、弟子たちが願い求めているものは違うのです。神さまが認める偉さと、人間が認める偉さとは違うのです。信仰的な価値観と、この世の価値観は違うのです。弟子たちは、人間が認める偉さを、この世の価値観を求めていました。「支配者」となることを、「民を支配し」「権力を振るう」ことを願い求めていたのです。そしてそれは、“現代の弟子”である私たちも同じなのではないでしょうか。
 私たちは社会的な地位と力を求めます。何らかの社会的ステータスがなければだめだと考えています。だから競争します。競争に勝とうとします。“勝ち組”“負け組”という考え方をします。競争に勝って社会的ステータスを得た者は優越感に浸り、敗れた者は劣等感を抱きます。そういう価値観に大きく支配され、知らず知らず毒されながら生きているのです。
しかし、その先に何があると言うのでしょう。人々からほめられる栄光でしょうか。人の上に立ち、支配する満足感でしょうか。あるいは豊かに暮らせる財産でしょうか。けれども、それらのものは決して私たちの心を本当の喜びと平安で満たしてはくれないと思うのです。栄華を極めたソロモン王はこう言いました。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(コヘレトの言葉1章2節)。すべての栄光、あらゆる権力と支配、限りない財産を手にしたソロモン王が行き着いた気持はこれだったのです。私たちの身近にも、色んなものを手に入れたけれど、あらゆるものを手に入れたけれど、空しさを感じながら生きているという人がいるかも知れません。
 偉さを、社会的なステータスを一番に願い求めて生きる時、私たちは、何か大切なものを置き去りにしているのです。
 あるいは、私たちは自分の周りの人間関係において、自分が上に立ち、支配したいのです。夫婦関係において、親子関係において、友人や同僚との関係において、その力関係において、下になるよりは上になりたいのです。支配されるよりは支配したいのです。相手の言うことを聞くよりも、自分の言うことを聞かせたいのです。相手の考えを受け入れるよりも、自分の考えを押し通したいのです。それができれば気分が良いのです。自分の快(こころよ)さばかり考えて、相手の気持は考えないことがしばしばあるのです。そして、自分が上に立って自分を通せないと、ストレスだと愚痴を言い、陰で相手の悪口を言ったりするのです。そういう私たちのことを、相手は決して信頼していない、快く思っていないということを自覚する必要があるでしょう。

 弟子たちは「偉くなりたい」(43節)と願い求めました。社会的ステータスを得、人の上に立ち、支配することを欲(ほっ)しました。
 そういう弟子たちに、そして私たちに、主イエスはお教えになりました。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(43〜44節)。
 主イエスは、「偉くなりたい」「いちばん上になりたい」という弟子たちの向上心を否定しませんでした。“ダメだし”をしなかったのです。ただ、その意味内容を、全く違うものに変えてしまわれたのです。「皆に仕える者」「すべての人の僕」になることが、偉いということだ、いちばん上に立つ者の生き方だと教えられたのです。それが、神の御心に適う信仰的な価値観なのです。
 では、皆に仕え、すべての人の僕になるとは、どうすることでしょうか。それは、人の上に立ってはいけないとか、職場で高い地位に就いてはならない、という意味ではありません。周りの人のことを考え、誠実に働いていれば、自然と社会的な地位は上がっていくでしょう。上の地位に立ったとき、どうするか。皆に仕え、僕になれと言うのだから、雑用をしたり、お茶汲みをしたりすることかと言えば、そういうことではないのです。上の地位に立てば、その責任と務めがあると思います。例えば、自分の配下にある皆が、気持ちよく仕事をすることができるように、場の雰囲気を作り、人間関係を整えていくことが、上司が部下の皆に仕えるということでしょう。だれかが失敗をしたとき、その責任を責めず、すべて自分が負う、ぐらいの度量を持つことが、上司が皆に仕えるということでしょう。上に立ったからと言って、威張ったり、周りの人を責めていたら、皆に仕える良い上司にはなれないのです。
 また、「皆に仕える者」になるためには、まず相手の話を聞くことから始まります。こちらが言いたいことや、腹の立つことがあっても、ちょっと(グッと)我慢する。相手の言葉を聞いて、その気持ちや立場を考える。そして、相手の言い分を受け入れる。頭から否定しない。自分の言いたいことは、10分の1か、せめて半分に抑える。できるなら、言わずに済ます。それが人の上に立つということです。人に仕えるということです。
 大体、人間関係で失敗するのは、相手の言葉を聞かず、自分の言いたいことばかり言っている時です。相手の言葉を聞き、思いやり、自分の言いたいことを少し抑えることができれば、私たちの人間関係は円満になるのです。
 そんなの自分が損じゃないか、自分ばかり我慢して、と思うかも知れません。確かに、ある意味でそうです。しかし、大切なのは、自分の我を通して自己満足を得る代わりに相手との関係を破壊するか、自分がちょっと損をして、でも相手との円満な関係を得る、どちらが良いかという問題なのです。それに、自分ばかりと思っていても、実は相手も我慢し、損をしてくれているものです。そのことに気づける人間でありたい。

 「仕える」とは、どういうことでしょうか? 家来が王様に仕える。僕が主人に仕える。部下が上司に仕える、という表現はあるのでしょうか。現代では、「仕える」という言葉はすっかり死語になり、その内容が分かりにくくなっています。
 けれども、主イエスは最後に、「仕える」ということの意味を、はっきりと教えて下さっています。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)。
 すなわち、「仕える」ということは「自分の命を献げる」ということなのです。主イエスは、祭司長や律法学者たちに殺されることが分かっていても、彼らに軽蔑され、差別されていた徴税人や遊女に、劣等感にさいなまれ、悲しみ悩んでいた病人や障がいを負う人々に、神の愛を届け続けました。あなたが律法を守れるから、何かができるから、ではなく、あなたそのものが父なる神にとって大切な命、大切な存在なのだ、と。つまり、主イエスは殺されると分かっていて、自分の命を献げて、自分の命を捨てて、彼らに仕えられたのです。
 その命がけの愛を注がれている弟子たちに、私たちに、主イエスは言われました。
「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8章34節)。
それが「仕える」ということです。自分の命を献げるとは、自分のエゴを捨てること、相手の上に立ち、相手を支配しようとする自分を捨てること、自分の都合を捨てること、自分の持ち物を捨てること、自分の好き嫌いを捨てること、自分の考えを捨てること、自分の願望を捨てること、そういう自己中心さを少しでも捨てて、相手を受け入れ、生かしていく“愛”の生き方に他なりません。

 1月30日に埼玉地区CS教師研修会がありました。横浜・蒔田教会の古谷正仁牧師をお迎えして講演を伺いましたが、その最後の方で、不登校になった一人の子どもの話が出てきました。親がどんなに心配し、話しかけても、その子は何もしゃべろうとはしませんでした。行き詰まって、しかし最後に、彼のことを小さい頃から見てきた教会のCS教師がその子のもとを訪れた時、彼はその教師に自分の心の内を話し始めたのです。その出来事を不思議に思った古谷牧師が、後で自分の息子さんに、あの子はなぜCS教師に心を開いて話をしたのだろうか?と尋ねたところ、息子さんは、“そりゃ、CS教師は本当のボランティアだからなあ。自分の満足のためでなく、お金のためでもなく、日曜日の朝早くから出て来て、子どもたちのために一生懸命やっている。それが嘘か本当か、そりゃあ分かるよ”と答えたのだそうです。
 その話に、研修会に参加した私たちスタッフは、とても励まされ、勇気と反省をいただき、私たちも子どもたちに心から仕える者でありたいと思いました。
 仕える愛は人を内側から生かし、救います。私たちも、神さまの愛に、私たちに仕えてくださる主イエス・キリストの愛に生かされて、人に仕える者となりましょう




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