2010年4月18日 礼拝説教
  聖  書 ヤコブの手紙5章1〜6節

  説教者  山岡 創

「 天に宝を蓄えなければ 」

 「あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした」(3節)。
 ヤコブの言葉を借りて言えば、人は「この終わりの時のために」生きている、と言ってもよいでしょう。
「この終わりの時」とは何でしょうか? 単純に、私たちが死ぬ時、地上の命を終える時とイコールではありません。日本基督教団信仰告白において、私たちは、“主の再び来りたまふを待ち望む”と告白します。これは、復活して天に昇られた主イエス・キリストが再び私たちのもとにやって来てくださる。私たちにお目にかかってくださる。その時を待ち望む、という信仰です。ですから、「この終わりの時」というのは、キリストが再びおいでになる時という意味で、これを信じることを“再臨”の信仰と言います。
けれども、「終わり」とはどういうことでしょう? キリストは何を終わらせるのでしょう? その時、何をなさるのでしょうか?
私たちが毎週礼拝において同じく告白する信徒信条において、“イエス・キリストを信じます”と告白する最後の下りで、“そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます”と告白します。主イエス・キリストが天から来られて、すべての人をお裁きになるという信仰です。その時、地上で生きている者も、既に死んでいる者も、キリストの前に立たされて、その裁きを受けるのです。なぜなら、その時から“新しい世界”が始まるからです。
マタイによる福音書25章の終りに、キリストが〈すべての民族を裁く〉と見出しの付いている箇所があります。キリストが天使たちを従えておいでになり、すべての民をお裁きになり、ある人を右に、ある人を左に選り分けるのです。そして、右側の人々には、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(34節)と語りかけます。他方、左側の人々には、「呪われた者ども、わたしから離れ去り悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(41節)と厳しい裁きが下ります。両者を分けたものは一体何であったかと言えば、キリストの兄弟である「最も小さい者の一人」に愛を注いだかどうか、情けをかけたかどうか、周りの人々に親切にしたかどうか、という生き方でした。愛を注ぎ、親切に生きた者は「用意されている国」へ入れられ、人を愛さず、親切にしなかった者は「永遠の火」に入れられるのです。
「この終わりの時」とは、この世が終わる時です。そして、新しい世界、神の国が始まるのです。だから、「この終わりの時のために」生きるということは、“神の国に入れていただくために”生きる、ということだと言って良いでしょう。「この終わりの時」に、神の国に入れていただくために、どんな「宝」を蓄えてきたかが問われるのです。神の国に入れていただけるような生き方をして来たかどうかを、キリストに問われるのです。

 私たちは今、「この終わりの時のために」どんな宝を蓄えながら生きているでしょうか。“地獄の沙汰も金次第”なんていう言葉があります。死んで地獄に行って、そこで下される閻魔大王の裁きのお沙汰も金次第、金さえあれば、その金を賄賂(わいろ)に使って自分に有利なお沙汰を下してもらえる、という、お金が第一の、実にこの世的な価値観を表しています。
 けれども、この世のお金、この世の「宝」は死んだ後の世界には持って行けないというのが聖書の信仰です。旧約聖書・ヨブ記に登場するヨブという人物は、災難に遭って、すべての財産を失った時、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」(2章21節)と語りました。この言葉には、人は何も持たずにこの世に生れ、何も持たずにこの世を去って行く、という信仰が込められています。また、先週の礼拝説教でもお話したルカによる福音書12章にある〈愚かな金持ちのたとえ〉では、莫大な財産を蓄えて、自分の人生は安泰だとほくそ笑んでいた金持ちに、神さまが「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(12章20節)と警告しています。この言葉からも、死んだら財産は手放さなければならない。死後の世界にこの世の「宝」は持っては行けないことが示されています。
 どんなにこの世の財産を積み上げ、この世の宝を蓄えても、神の国では、新しい神の世界では、それらは通用しないのです。「この終わりの時のために」神の国で通用する宝を蓄えておかなければなりません。
 だから、主イエスはお教えになりました。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」(マタイ6章19〜21節)。
 この世で宝を蓄えるのではなく、天に富を積む。天に宝を蓄える。そのようにしてこそ、私たちは「この終わりの時」に、キリストから、神の国に入りなさいと言っていただける、神さまに受け入れられる者となるのです。天に宝を蓄える。それは、神さまの御心を思い、自分のためばかりでなく、隣人を愛し、人に親切にして生きる生き方を積み上げていくことにほかなりません。

 けれども、この世の宝を蓄えることばかりを考えている人々がいました。ヤコブは、そのような人々を「富んでいる人たち」(1節)と呼んでいます。彼らは、ただ富んでいただけではありません。「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり」(5節)とあるように、自分の欲望、願望のままに生きていたのです。それだけではありません。「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声を上げています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました」(4節)とあるように、彼らは地主であり、自分の畑で労働した小作人たちに賃金を支払わず、搾取(さくしゅ)したと言うのです。小作人たちはその日暮らしで、一日の賃金の支払いがなければ食べていくことができないのです。死活問題です。それを知りながら、支払いを延ばし、遂には支払わずに搾取する。そのために飢え死にした人々もいたでしょう。しかし、彼らはその不正を訴えることができない。地主はこの世の権力者でもあったと思われます。そのようにして蓄えた不正な宝で、彼らはぜいたくに暮らし快楽にふけっていたのです。
 そのように苦しめられている小作人たちの「叫び」を、他方で「富んでいる人たち」の不正を、神さまが見逃すはずはない。そのようにヤコブは語ります。いつか必ず、その不正が裁かれる時が来る。その陰で泣いた人々の苦しみが報われる時が来る。それが、「この終わりの時」です。キリストの裁きの時です。この世が逆転して新しい世界が始まる時です。
 主イエス・キリストは言われました。
「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカ6章20節〜)。
「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。
 今満腹している人々は、あなたがたは、不幸である。あなたがたは飢えるようになる。
 今笑っている人々は、不幸である。あなたがたは悲しみ泣くようになる」(24節〜)
 この世が不公平に思われる時があります。そんな時、神さまを恨みたくなります。けれども、神さまは、それを見過ごしておられるのではありません。「この終わりの時」を用意してくださっているのです。キリストの裁きの時、報いの時、逆転の時を用意してくださっているのです。
 やはり主イエス・キリストが、ルカによる福音書16章で〈金持ちとラザロ〉というたとえをお語りになりました。ある金持ちがぜいたくに遊び暮らしていました。その金持ちの門前に、ラザロという名の、できものだらけの貧し人が横たわっていました。金持ちはラザロに何の情けもかけなかったのでしょう。やがてラザロは死んで、天使によって天の宴会の席に連れて行かれ、他方、金持ちも死んで、こちらは陰府(よみ)の世界に行き、炎の中でもだえ苦しむことになりました。この世の有様が逆転する時が来るのです。
 だから、ヤコブは「富んでいる人たち」に警告しました。「よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい」(1節)と。「あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまう」(2節)時が来るのです。この世の有様が、価値観が終わり、新しい神の国が始まる時が来るのです。その時、あなたがたが蓄えた金銀の錆(さび)が、キリストに裁かれる「罪の証拠」(3節)となるのです。そのような「宝」を、裁きの材料となるようなこの世の宝を、あなたがたは「この終わりの時のために」蓄えながら生きているのだ、とヤコブは警告しているのです。

 もちろん他人事ではありません。ヤコブの言葉は私たちにも語りかけられています。私たち自身の生き方の問題でもあるのです。
私たちは、それほど豊かな、富んでいる人間ではないかも知れません。反対に、貧しい苦しい生活をしているかも知れません。もし貧しく苦しい生活をしているなら、神さまはきっと心に留めていてくださいます。
けれども、ヤコブがここで問いかけているのは、単純に富んでいるか、貧しいかという事柄だけではないと思います。目に見える貧富の問題だけではなく、むしろ目には見えない私たちの心が問われているのではないでしょうか。
単純に「富んでいる人たち」がすべて悪い、罪があると言っているのではないと思います。もしそうだとすれば、クリスチャンはこの世で富んではならないことになります。そうではなくて、その富、宝を、「地上でぜいたくに暮らして、快楽にふける」ためだけに使っている、つまり自分のためだけに生きている、その隣人に対する愛のない自己中心な生き方が問われているのではないでしょうか。
人それぞれ豊かさの感覚は違いますが、もし私たちが豊かにいただいているなら、それを神さまのために、隣人のために、貧しい人々のために豊かに献げ、用いましょう。そのために神さまは私たちに豊かに与えてくださっているのです。また、たとえ私たちが貧しくとも、神さまのために献げ、隣人に与える心を失わないようにしましょう。もちろん、至らないところ、行き届かないところもあります。そこは悔い改めて、神さまに赦していただきましょう。
 今日の御言葉の5節に、「心を太らせ」とありました。ユニークな表現だと思いながら、私はふと、フォアグラを連想しました。私は食べたことがありませんけれども、地面に埋めて首だけ出したがちょうに、筒のようなもので無理やり餌を食べさせているシーンを見たことがあります。そのようにして、がちょうたちは「屠られる日に備え」(5節)、肝臓に脂肪を蓄えているのです。「心を太らせ」という言葉に、そんなイメージを思い浮かべました。
 私たちも、「終わりの時のために」心を太らせていてはなりません。自分のためばかりを考える欲望、願望で、心を太らせてはなりません。現代は、メタボの時代と言われ、ダイエットが大切と言われます。私も太りやすいので、時々ダイエットをします。しかし、同時に、いやそれ以上に、“心の太り過ぎ”に注意したいものです。メタボは目に見えるので気が付きますが、心のメタボには、私たち、なかなか気付くことができません。だからこそ聖書の御言葉に耳を傾けながら“心のダイエット”を心掛けていきましょう。





   ウィンドウを閉じる