2010年4月25日 礼拝説教
  聖  書 ローマの信徒への手紙10章14〜21節

  説教者  山岡 創

「 御言葉を聞くことから始まる 」

 “聖書を読もう”。今年度、私たちの教会は、この目標を標語として掲げました。本日午後の教会総会において、正式に承認、決議して歩み始めます。
 聖書を読む。私たちの信仰生活にとって、また教会を営み、造り上げて行く上で当たり前のことです。けれども、なぜ聖書を読むのか、読まなければならないのか。改めて考えたことはないかも知れません。その答えを17節が示しています。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(17節)。

 私たちは、神さまを信じて生きていきたいと願っています。神さまを信じて生きるために、ここに招かれ、集まります。
 ところで、キリスト教の神さまは、どんな神さまなのか? どんな神さまなのか分からなければ、信じようがありません。けれども、神さまはその姿が見えるわけではありませんし、直接話しかけてくださるわけでも、直接関わってくださるわけでもありません。それでは、どんな神さまなのか分からないのです。信じようがないのです。
 けれども、神さまがどんな方なのかを知る唯一の方法があります。それが「キリストの言葉」です。主イエス・キリストが、神さまのことを語り、教えてくださった。いや、語るだけではなく、身をもって、その命をもって神さまの御心を、神さまの愛を示してくださったのです。
だから、私たちは、キリストが言葉で、またその生き方で、“神さまとは、こういう方なのだよ”と語ってくださった、その言葉によって、神さまがどんな神さまであるかを知り、そして信じるのです。
 主イエス・キリストが神さまのことを語り、教えられた言葉が、また身をもって語られたその生き方、生き方としての言葉が、新約聖書に記されています。だから、「キリストの言葉」は新約聖書の御言葉だと言っても良いでしょう。キリストの言葉を聞いて、受け継いで書かれた多くの手紙も、「キリストの言葉」に含めて良いと思います。
 また、キリストは、旧約聖書の御言葉を聞いて、そこから神さまがどんな神さまであるかを汲み取り、お語りになったのですから、旧約聖書もまた広い意味で「キリストの言葉」に含めても良いと思います。
 「キリストの言葉」によって、聖書の御言葉によって、神さまがどんな神さまであるかが分かり、信じることができる。だからこそ、信仰は「キリストの言葉を聞くことによって」、すなわち聖書の御言葉を聞くことによって始まる、と言われるのです。
 言わば、聖書の御言葉を聞くということは、信仰の“始めの一歩”なのです。初歩なのです。いや、何歩歩いても、何年、何十年、信仰の道を歩んでも、私たちは聖書の御言葉を聞き続けなければなりません。それによって、信仰の道に迷う私たちは、神さまがどんな神さまであったか、信じるとはどう生きることかという原点に立ち帰るのです。いや、単に立ち帰るだけではなく、更に信仰を深められ、成長させていただく。その意味で、聖書の御言葉に聞くことは、信仰の初歩であり、同時に“信仰の基本”です。聞くことから信仰が「始まる」とは、御言葉に聞くことが信仰の“初歩”であり“基本”であることを表しているのです。
 御言葉に聞くために、聖書を読もう。これが、今年度の私たちの教会の目標です。

 御言葉を聞くことによって、私たちは神さまがどんな神さまであるかを知り、信仰が始まります。御言葉を聞くことによって、私たちの信仰は深められ、成長します。御言葉を聞くことをやめたら、信仰の成長は止まります。いや、それどころか、自分勝手な自己流の信仰になるかも知れない、間違った信仰に陥るかも知れないのです。
 ローマの信徒への手紙10章は、この17節の御言葉を中心にして、その前後に、イスラエルの人々の不信仰な姿が描かれています。
 「キリストの言葉」は、神さまに選ばれた民であるイスラエルの人々に語られたことがなかったのか。彼らは聞いたことがなかったのか。そうではないのです。彼らは、「もちろん聞いたのです」(18節)。しかも、キリストから直接聞いたのです。
 けれども、彼らは分からなかったのです。キリストの言葉を受け入れなかったのです。代わりに、イスラエルではない異邦人たちが、キリストの言葉を受け入れ、信じました。
 そのようなイスラエルの人々の不信仰な現実が、旧約聖書からの引用も絡(から)めながら18節以下に記されています。
 なぜ彼らは「キリストの言葉」を聞かなかったのでしょうか。聞いたのに受け入れなかったのでしょうか。それは、彼らが自己流の信仰に陥っていたからです。自分たちの信仰は正しい、これでいいと思い込んで、“聞く耳”を持たなかったからです。
 10章の初めの2〜3節で、この手紙を書いたパウロは、自分の同胞であるイスラエルの人々の救いを願いながら、彼らについてこう記しています。
「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」(2〜3節)。
 先ほど、イスラエルの人々の“不信仰”な姿と申しましたが、不信仰と言うと、ちょっと語弊があります。彼らは、神さまを信じているのです。熱心に信じているのです。けれども、その熱心な信仰は、「正しい認識に基づくものではありません」とパウロは語ります。どうしてでしょう。それは、彼らが「キリストの言葉」を聞かなかったからです。ちゃんと聞かなかったからです。受け入れなかったからです。だから、「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わな(い)」信仰に陥ってしまったのです。信仰について「正しい認識」を持てなかったのです。
 ところで、「神の義」とは何でしょうか? 難しい専門用語です。簡単に言えば、「神の義」とは、神さまが私たちの罪を赦してくださる、ということです。一方、「自分の義」とは、“自分は赦してもらわねばならないようなことはしていない。正しく生きている。だから、自分は正しい人間だ”と考える自己認識のことです。
 イスラエルの人々は、自分は「掟を守る」(5節)正しい人間だと自認して、神さまに罪を赦されるなんてことは必要ない、と拒んだのです。それが、「神の義に従わなかった」ということです。
 ルカによる福音書18章9節以下で、主イエス・キリストがなさった〈ファリサイ派の人と徴税人のたとえ〉が、そのようなイスラエル人の信仰を物語っています。
 ファリサイ派というユダヤ教の熱心な宗派の人が、神殿に行って祈りました。他方、みんなから軽蔑され、“信仰の屑”のように見なされていた徴税人も、神殿で祈りました。ファリサイ派の人は、“自分は神の掟を犯さず、あの徴税人のような掟を破る罪人でないことを感謝します。自分は神の掟を守り、掟以上のことも行っています”と言って祈りました。自分は罪を犯さない。正しく生きている。正しい人間だと誇っているのです。
 一方、徴税人は、神殿の後ろの方で、顔を伏せ、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(18章13節)と祈りました。自分の力で正しく生きていけない。神さまに赦されなければ、とても生きてはいられない罪人です、と告白しているのです。
 この二人のうち、「義とされて家に帰ったのは」(14節)、赦されたのは、本当の意味で神さまから、“正しい者”と認められたのは、徴税人の方だと、キリストはお教えになったのです。
 人は、表面的に神の掟を守っていても、社会のルールを守っていても、完全に正しくなど生きていけない。心の内に醜いこと、自分勝手なことを考え、また気づかずに人を傷つけ迷惑をかけている。神さまを悲しませている。悔い改めて、赦されなければ生きていけないのだよ、というのが「キリストの言葉」です。そして、神の赦しが確かに備えられていることを、キリストは十字架の上で命まで懸けて示してくださったのです。
 けれども、イスラエルの人々は、自分たちは罪など犯さない。神の掟を守る正しい人間だ。だから神に救われるのだと主張して、「キリストの言葉」を拒みました。それは、自分たちの考え、スタイルをかたくなに守り、“聞く耳”を持たない、「キリストの言葉」を聞こうとしない、自己流の信仰でした。

 私たちも、神さまを信じる、主イエス・キリストを信じる、と言いながら、「キリストの言葉」を聞かなければ、自己流の信仰、誤った信仰に陥りかねません。ある意味でイスラエルの人々と同じで、日本人である私たちは、自分が罪人(つみびと)であると認め、赦しを願うなど、いちばん受け入れ難い信仰の一つではないでしょうか。けれども、それは、御言葉をちゃんと聞いていないからです。聞いていないから、聖書が語る罪人を“犯罪者”と取り違えるのです。自分の心の内を深く見つめようとはしないのです。それでは、悔い改めの欠けた、「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51編19節)の欠けた信仰になります。
 私たちの内には、“こういうのが神さまだ、こういうふうに信じたい”という願望のような自己流の信仰があります。例えば、神さまは正しい人間でなければ救わない。だから、神さまの言葉を守れない人間は救われない。そう考えて、救われるために正しく生きたり、正しくないから救われない、と落ち込んだりします。私も牧師になる前に、そのように思い込んでいる時がありました。罪人を赦して救うのが聖書の教えです。また、何か良からぬことがあると、自分が悪いことをしたので罰が当たったと考える。因果応報の信仰です。けれども、神さまは罰など当てません。神さまを信じたら目に見える幸福が与えられる。それを叶えるのが神さまだと、神さまをご利益的に考える。神さまがいるのに、この世の災害や戦争があるのはおかしい。神さまがいるなら、そんなものは起こらないはずだと考える。
 私たちの内には、信仰についても様々な自己流の思いがあります。それが分らないではありませんが、それでは「信仰」は始まらない。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。“私が”こう信じる、ではなく、“神が”私に何を語りかけているか。それを聞き、受け止めることから始まるのです。保留しても良い。それでも、否定せずに受け止めるのです。


 『信徒の友』5月号の特集〈ペンテコステ・広がりゆく神の民〉の中で、長野県の喬木教会の様子が紹介されていました。その中で、伊奈聡牧師がこう書いておられました。
  ‥‥では実際に主につながるとは、どのようなことを言うのだろうか? 思い悩んだ時に「デボーション」と出会いました。神学生の時から、朝、個人で祈ることを教えられてはいましたが、これを具体的に信徒に教えるのです。そして朝毎に主の御言葉を聞き、御言葉を適用して生活することを奨励しました。
  このデボーションに取り組むようになってから、教会の雰囲気が変わってきました。教会が明るくなり、互いに受け入れ、喜ぶようになってきたのです。
  デボーションを通して、愛を実践することを心がけるようになりました。新しく来た方を喜び、積極的に声をかけ、歓迎ムードが生まれるようになりました。来たら散らかして帰るような子どもたちに対しても、「賑やかになって嬉しい」と喜んで歓迎するようになったのです。‥‥
 御言葉を聞くことによって、私たちが変えられます。教会が変えられます。それが「信仰」なのです。私たちも、聖書を読み、キリストの言葉に聞き従って、信仰の道を歩んでいきましょう。





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