2010年5月2日 礼拝説教
  聖  書 ヤコブの手紙5章7〜11節

  説教者  山岡 創

「 希望があるから耐えられる 」

 昨年11月から高麗川の向こう側で畑を10坪ほど借りて、家庭菜園を始めました。初めは、その半分ぐらいを耕して畝(うね)を作り、玉ねぎとキャベツと春菊とイチゴの苗を植え、ビタミン菜という菜っ葉の種をまきました。冬の寒さに耐えられるようにビニールハウスをしてやりましたが、ビタミン菜は1〜3月にかけて、よく取れました。味噌汁やおひたしにしていただきました。そして、冬を越えた苗が春になってグンッと育って来まして、つい先日、キャベツを1つ、(まだ葉がしおれていないのですが‥‥、我ながらデカイッ!)玉ねぎを試しに1コ収穫しました。今年の春は天候不順で野菜が小さい割に高いので、貴重な収穫に、妻と二人で“これ、北坂戸の八百屋さんで買っても200円ぐらいするんじゃない? この玉ねぎ、売っているのよりずいぶん大きいんじゃない?”と喜んでいました。
 4月の初めにじゃがいもを植えました。もう芽が出て来ました。そして、先日29日の祝日に家族5人で、ナスときゅうり、トマトと枝豆の苗を植えました。夏の収穫が楽しみです。
 実が成る、というのは嬉しいものです。5年前まで、この新しい会堂に移転する前に、アパートの隣の土地で家庭菜園をしていた経験がありますが、手間暇、愛情をかけるほど成果が上がります。まさに「大地の尊い実り」(7節)です。それがあるから、やる気になる、がんばれるのです。
「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」(7節)と、今日の御言葉にありました。聖書の世界、パレスチナの気候は、雨の降る時期と降らない時期とがはっきり分かれています。降らないとなったら、川の水が無くなって干上がるほど全く降らない。大地も死んだようになる。けれども、ひとたび雨が降ると、待っていたように草は伸び、花が咲く。
 農夫というのは、たぶん小麦を作る農夫です。小麦は秋の雨で芽を出し、春の雨で大きく成長します。自然の摂理はいかんともし難い。農夫はまさに「忍耐しながら、大地の尊い実りを待つ」のです。やがて訪れる実りの時を期待して、雨の降らない時期を忍耐します。実りが期待できるから、忍耐できます。

 人生にも、恵みの雨が降らず、神の救いの恵みに潤(うるお)されないような、不毛の時があります。そのような時、私たちは「忍耐」を求められます。
「兄弟たち、主が来られる時まで忍耐しなさい」(7節)。
聖書は、そのように語りかけて来ます。農夫のように忍耐することが求められます。
 当時のユダヤ(パレスチナ)において、「農夫」というのは、地主から畑を借りて耕し、収穫する小作人のことでしょう。畑の主人に収穫を納め、主人から賃金をもらうのです。
 けれども、農夫に賃金を正当に支払わず、搾取(さくしゅ)する地主も少なからずいたようです。貧しい生活をしている農夫にしてみれば、たまったものではありません。
 では、農夫たちは、そのような地主たちを訴えて、賃金をちゃんと支払わせることができたのか? できなかったのです。地主と言えば、金持ちで、たぶん権力者です。力があるのです。農夫たちの訴えなど、お金と権力を使って潰(つぶ)してしまうことができたのです。そうなれば農夫たちは、泣き寝入りする以外にありません。
 せっかくがんばって働いたのに、大地の実りの報酬をもらえなかったら、賃金をもらえなかったら、忍耐する意味がないのです。忍耐できません。怒りが爆発するか、絶望に打ちひしがれるか、どちらかです。けれども、地主に抵抗できず、飢えに死んだ農夫とその家族もいたに違いありません。
 そんなことがはたしてゆるされていいのか? 神も仏もあるものかと感じるのは、こういう時です。
 けれども、神さまは、そのような不正と苦しみを見逃しているのではありません。今日の箇所の直前、5章のはじめに、金持ちの地主たちに対する裁きが語られています。
「御覧なさい。畑を借り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは万軍の主の耳に達しました」(4節)
 金持ちの地主たちよ、あなたがたが苦しめた農夫たちの悲しみと怒りの叫び声は、わたしの耳に届いている。あなたがたは裁かれ、財産は朽ち果て、火に食い尽くされる「終わりの時」(3節)が来る。神さまは、そのように警告されています。

 そして、地主たちに対する裁きの裏返しで、農夫たちには希望が語られます。あなたがたの苦しみは、この世では報われないかも知れない。しかし、絶望しないでいなさい。忍耐しなさい。主イエス・キリストが再びやって来て、悪人を裁き、あなたがたを救ってくださる「終わりの時」まで忍耐しなさい、と励ましが語られます。それが、
「兄弟たち、主が来られる時まで忍耐しなさい」(7節)
という御言葉の意味です。
 この希望と励ましの御言葉は、もちろん農夫だけに語られたものではありません。当時、主イエス・キリストの救いを信じるクリスチャンたちは、ローマ帝国による激しい迫害にさらされていました。キリストを信じているというだけで捕らえられ、鞭(むち)で打たれ、牢に入れられ、処刑されることもありました。こんなことなら信じて生きることに何の意味があるのか? そう考え、信仰を捨てるクリスチャンが次々に現れました。そのようなクリスチャンたちにも、この御言葉は語られています。
 そして今日、現代のクリスチャンである私たちにも、この御言葉が語りかけられています。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」。
 私たちにも、忍耐しなければならないことが少なからずあるでしょう。神さまを信じたからと言って、クリスチャンには他の人たちよりも特別、良いことがあるわけではありません。人間として同じように、苦しみに、悲しみに出会います。それが現実に解決され、取り除かれる希望があるならば、私たちはその時を期待して忍耐することもできます。けれども、なかなか解決を期待できず、長く負わなければならない、一生背負わねばならないような苦しみや病もあります。そして、なぜそうなったのか分からないような不条理な苦しみ、悲しみもあります。それを忍耐することに、意味と希望を見つけることができなければ、私たちには、そのような苦しみ、悲しみが耐え難いのです。
 ヴィクトール・フランクルという精神科医が書いた『夜と霧』という本があります。読まれた方もいるでしょう。この本は、第2次世界大戦の時に、ユダヤ人であったフランクルがアウシュビッツの強制収容所に送られ、そこで体験した苦しみの極限状況とその時の人間の心をつづったものです。その中で、1944年のクリスマスから45年の新年にかけて、未だかつてなかったほどの死亡者が出たと記されています。それは、寒さのせいではなく、疲れと飢えのせいでもなく、伝染病のせいでもない。希望を失ったからだとフランクルは書いています。クリスマスまでには連合軍がここにやって来て、自分たちを、この、奴隷のように働かされ、殺される苦しみから救われる。家に帰れる。そういう希望が広がりました。それを信じて人々は忍耐したのです。ところが、クリスマスを過ぎても連合軍は来なかった。自分たちはこの地獄から救われない。希望を失い、絶望した人々が衰弱し、次々と死んでいったのです。そのような、すさまじい体験をしたフランクルは、人間は、人生に希望がなければ、目的がなければ、生きる意味を失い、苦しみに耐えられないと書いています。
 希望がなければ、苦しみに耐えられない。その通りだと思います。希望があるから、苦しみに意味を見いだし、忍耐することができるのです。聖書は、私たちの苦しみ、悲しみに、希望を語ります。普通に考えれば希望の光を見つけられず、まるで“終わり”のないかのような絶望的な苦しみ、悲しみにも、希望を告げます。あなたの人生に、救い主イエス・キリストがやって来るのだ。「終わりの時」が来るのだ。その時、あなたの苦しみも、悲しみも終わる。キリストによって涙がぬぐわれて、笑いに変わる。神さまは決して、あなたの苦しみ、悲しみを見過ごしておられるのではない。だから、信じて忍耐しなさい。それが、信仰による希望です。
 信仰とは、神さまを信じることによって、この世の出来事や人生の苦しみ、悲しみを、目に見える現実だけで判断しないモノの見方であり、生き方です。神さまの目で、神さまの心で見ようとするから、苦しみや悲しみの中にも、プラスの意味や希望を見つけることができるのです。人の命も、それが死で終わると考えたら、人生の苦しみにがっくりします。けれども、私たちの命は永遠の命へと、天国へと続くと信じるから、その信仰の視点から苦しみ、悲しみを見直す時に、自分の命はこの世の苦しみ、悲しみだけで終わってしまう虚(むな)しいものではないと、勇気と希望を抱くことができるのです。だからこそ、忍耐が生まれてくる。

 そのような信仰で忍耐した模範として、「預言者たち」(10節)と「ヨブ」(11節)が挙げられています。特に、ヨブという人物は、旧約聖書にヨブ記という書物があり、ヨブはそこに主人公として登場します。ヨブは正しく、神さまを信じ、従って生きており、神さまから祝福され、東の国で一番のお金持ちでした。ある時、天の上の会議で、神さまが天使たちの前でヨブのことを自慢します。すると、地上パトロール係の天使が、“ヨブの財産と家族を奪い、彼を病気にしてごらんない。そうしたら、信仰を捨て、あなたを呪(のろ)うに決まっています”と挑戦します。神さまも、それならば、とその挑戦を買って、かくてヨブは、家族を失い、財産を失い、重い皮膚病を患うことになりました。しかし、その苦しみに耐えたヨブは、最後には病は治り、再び財産も増え、新しい家族にも恵まれるという物語です。
 けれども、ヨブは、神さまのなさることを信じ抜いて、一度も疑わなかったというのではありません。あまりの苦しみ、悲しみに、“なぜ自分がこのような目に逢わねばならないのか”と神さまを疑い、神さまに向かって怒り、呪ったのです。
 けれども、その激しい葛藤、心の苦しみの中で、ヨブは神さまから離れることだけはしませんでした。信仰を捨てることだけはしませんでした。ヨブの忍耐とは、模範的な、優等生的な忍耐ではなく、激しい葛藤の中で、信仰だけは失わなかった、捨てなかったという忍耐なのです。
 私たちとて、決して“信仰の良い子”ではいられません。疑いも湧(わ)く。不平も出る。神さまを呪いたくもなるのです。信仰を捨てたくなることだってあるのです。それが、私たちの信仰生活でありましょう。そして、そういう私たちの葛藤と弱さを、神さまもよくご存じで、怒りもなさらず、見守り抜いてくださいます。祈りに応えて、心に聖霊を送り、助けてくださいます。
 疑いと葛藤、呪いがあっても良い。けれども、信仰を捨てずに、最後まで、主イエス・キリストが来ると言われる時まで、信じて、忍耐して歩みたいと願います。忍耐が終わる時を、喜びに変わる時を信じましょう。その信仰こそ、生きる力です。





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