2010年5月9日 礼拝説教
  聖  書 ヤコブの手紙5章12節

  説教者  山岡 創

「 “はい” か “いいえ”の誠実さ 」

 今日の聖書箇所で、ヤコブは、
「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません」(12節)
と勧めています。「何よりもまず」と言うのですから、これは、クリスチャンの実生活において一番重要だということです。
 誓いを立てないということが、それほどに重要なことなのでしょうか? 私たちにはどうもピンと来ません。それは、私たち現代日本人の日常生活の中に、誓うという行為がほとんどないからでしょう。
 “誓う”という言葉を辞書で引いてみると、“神仏や他人や自分自身に対して、この事は必ず守ると、固く約束すること”と書かれています。そのように誓うという行為を、私たちはまずすることがありません。稀(まれ)に、私たちがどんな時に誓いを立てるかを考えてみると、例えば、スポーツの大会等の選手宣誓があります。高校野球の甲子園大会の開会式では選手の代表が、“我々一同は、スポーツマンシップに則(のっと)り、正々堂々と戦うことを誓います”と宣誓します。
 次に思い出されるのが、結婚式の際の誓いです。特に、キリスト教式の結婚式では、神さまの前に、神さまにかけて、夫婦となる二人が結婚の誓いを立てます。司式者が、“あなたは今、○○と結婚することを神の御心と信じ、今から後、幸いな時も災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、これを愛し、敬い、仕えて、共に生涯を送ることを約束しますか”と尋ね、それに対し、結婚する二人は“はい”と答えて誓約をします。
 そして、もう一つは、私たち教会に集まる者がよく知っている洗礼式の誓いです。洗礼式において、神さまと救いの契約を結ぶ際に、私たちは神さまに対して三つの誓いを立てます。洗礼に対する願いが真実なものであること、日本基督教団の信仰告白の内容を自分の信仰として告白すること、そして教会員としてふさわしい生活をすること、この三つの誓いを、他の教会員の前で、神さまに対して立てるのです。
 こうして見ると、私たち現代人に関わる誓いの行為というのは、厳かです。そして、重大な、自分を懸けた行為です。そのような誓いを立てることを、今日の御言葉は“してはならない”と言っているのでしょうか。だとすれば、教会が伝統的に行ってきた儀式と聖書の御言葉とが矛盾することになります。教会は御言葉に違反して来たことにさえなります。

 けれども、そういうことではないのです。ヤコブが誓いを立てることを禁じているのは、誓いそれ自体に何の意味もないとか、誓いが神に反する行為だからというのではありません。そうではなくて、当時、誓いがむやみやたらに行われていたからです。
 誓いとは、厳かな、重大なものです。神さまに対して、自分自身の決意と責任を懸(か)けて行う行為です。そうそう滅多にするものではありません。やたらと誓いを立てれば、誓いは重みを失い、軽々しい行為になってしまいます。
 ところが、ヤコブが生きていた時代には、誓いが乱発されていたようです。特にユダヤ人は、神の名を口にするのを畏(おそ)れ多いこととしてしませんでしたから、神の名にかけて誓う代わりに、12節にあるように「天や地を指して」誓ったのです。天や地を、神さまに準じるものとして誓いの対象としたのです。あるいはその他の誓い方として、神殿にかけて誓ったり、神殿のあるエルサレムにかけて誓ったり、自分の頭にかけて誓うといった誓い方があったようです。何かしら“神さま”を思わせるものにかけて誓ったのです。そうやって自分の約束に“箔(はく)”を付け、相手に信用させようとしたのです。
 ところが、当時の誓いは、当人の決意と責任の伴わない、相当軽いものになっていたようです。なぜなら、神さまにかけて固く約束したはずなのに、自分に都合が悪くなると、“あれは、神にかけて誓ったのではない”と逃げを打ったからです。天や地、神殿、エルサレム、自分の頭‥‥‥それらは、神さまそのものではないのだから、この誓いに責任はないとうそぶく。そして、それがユダヤ人の掟である律法から見ても、違反ではないとされたのです。
 “何だ、それは!?”と思われるでしょう。けれども、そういうことが日常的になされていたようです。明らかに偽(いつわ)りなのです。不真実なのです。損得でモノを考え、偽ってでも損をしないように立ち回っているのです。けれども、それがまかり通った。違反ではないとされたのです。
 マタイによる福音書23章に、主イエスが律法学者を非難する言葉があります。律法学者とは、神の掟である律法を解釈して、人々が律法を自分の生活に適用できるように教える人のことです。その23章16節以下で、主イエスはこう非難しています。「あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば。それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。‥‥‥」。彼らは、誓いの有効無効を律法的にそんなふうに解釈したのです。彼らに悪気はなかったかも知れない。一生懸命、律法を解釈したのかもしれない。けれども、本末転倒、主イエスではないけれど、“アホか!”と言いたくなります。
律法学者たちがそのように解釈するものですから、偽って得をしようとする者、自分に都合良く事を運ぼうとする者は、法の網の目をくぐって、そういう誓いをしばしば行ったのです。
 主イエスは、そのような人々の誓いの行為とその裏にある不真実な心にお怒りになりました。だから、マタイによる福音書5章33節以下で、「一切誓ってはならない」(34節)と教えておられるのです。今日のヤコブの手紙の御言葉は、この主イエスの教えをもう一度焼き直したものだと言って良いでしょう。

「わたしの兄弟たち、何よりもまず誓いを立ててはなりません」。
 この御言葉によって、私たちに何が語りかけられているのでしょうか。何が問われているのでしょうか。それは、誓うか誓わないかという表面的な行為ではありません。誓うことに真心がないから、誓いを立ててはならないと禁じられたのであって、問題は、誓うにせよ、普通に言うにせよ、約束するにせよ、何かを行うにせよ、真心があるか、真実な心があるかが問われているのです。自分が得をするために平気で偽り、人をだます。自分に都合が悪くなれば、嘘をつき、自分の言葉を適当にごまかし、手のひらを返し、相手が不利になるようなこともする。そういう心で生きてはいないか、ということが問われているのです。自分の言葉、自分の約束に心をこめて、たとえ自分にとって不利、不都合になったとしても、その事態を受け止め、責任を果たす。そういう真実な心を持ちなさいと語りかけられているのです。
 その心さえあれば、結婚式の誓いも、洗礼式の誓いも、とても大切な、すばらしいものになるのです。
 私たちクリスチャンは、そのような真実な心を、神さまに対する誠実さとして求められています。だれが見ていなくとも、神さまは私たちを見ておられる。その心で、真実に生きるのです。また、だれが見ていようとも、その人を気にし、憚(はばか)り、あるいはおもねるのではなく、神さまに喜ばれるように、真実に生きるのです。
 だから、クリスチャンはある意味で、改めて誓いを立てなくても、その言葉に、約束に、行いに、“形にはならない誓い”を立てながら歩んでいるようなものです。なぜなら、神さまが見ておられる前で、神さまの御言葉(求め)に対して誠実に、真実な心で生きるのがクリスチャンの生き方であり、信仰だからです。私たちの言葉、約束、行いの一つ一つが、神さまに対する“形にならない誓い”なのです。そこに、真実の重みを込めるのです。愛を込めるのです。悔い改めを込めるのです。
 だから、私たちの言葉と行いは、「あなたがたは『然り』は『然り』とし、『否』は『否』としなさい」(12節)とあるように、“はい”か“いいえ”で良いのです。
 「然り」という言葉は現代では死語だなあ、こんな言葉使うと難しく、ややこしくなると思いますが、リビング・バイブルでは、「ただ、『はい』または『いいえ』とだけ言えばいいのです」と訳されています。誓いなど持ち出して、形式的に自分の言葉や行いに箔や信用を付ける必要などない。“はい”または“いいえ”に、神の前に誠実に生きる者の真心を込めれば、それで良いのです。いや、それがある意味で当然の、大切なことなのです。

 神の前に、自分をかけて、できることは“はい”と言い、できないことには“いいえ”と言えば、それで良いのです。
 けれども、私たちの“はい”と“いいえ”には、もう一つ、私たちの真心を、信仰の誠実さを込めることが大切ではないかと考えています。
 私は、今日の聖書の御言葉を黙想しながら、マタイによる福音書21章28節以下にある、主イエスが語られた〈二人の息子のたとえ〉を思い起こしました。ぶどう園を持っている一人の父親に二人の息子がいました。父親が二人に、「子よ、ぶどう園に行って働きなさい」と言ったところ、兄は「いやです」と答え、弟は「お父さん、承知しました」と答えました。けれども、兄は後で考えなおしてぶどう園に出かけましたが、弟の方は結局出かけませんでした。このたとえ話で、父親の、つまり神さまの望みどおりにしたのは兄の方だと教えられています。
 弟は“はい”と答えながら、ぶどう園に出かけず、働かなかったのですから、これは偽りの答えです。不誠実な心です。他方、兄の方は「いやです」“いいえ”と答えながら、後で思い直して、ぶどう園に出かけ、働きました。自分の思いではなく、父親の望みに、神さまの望みに従いました。すなわち、悔い改めたのです。
 私たちは、嫌々ながら“はい”と答えてしまうこともありますし、逆に、嫌々するならやらない方が良いと判断して“いいえ”と答えることもあります。それは、ある意味で正しい判断なのかも知れませんが、私たちは、あのたとえ話の兄のように、自分の思いで、自分の都合で、自分の願いで、“いいえ”と答えている場合があるのです。“いいえ”が真実ではなく、自己中心になっていることもあるのです。それは自分にしか分かりません。そういう自分に気づいて、神さまの望みが何なのかを思い出したら、思い直して“いいえ”を“はい”に変えることもあり得るのではないか。“はい、従います”と思いなおすことが大切なのではないでしょうか。逆に、見栄を張ったような“はい”を真実な“いいえ”に変えることだってあるかも知れません。それが、このたとえが教える思い直し、悔い改めです。
 その悔い改めの信仰に立って、“はい”または“いいえ”と答えて生きる。それが、神さまに対する私たちの誠実さだと思うのです。





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