2010年6月6日 礼拝説教
  聖  書 ヤコブの手紙5章19〜20節

  説教者  山岡 創

「 迷いの道から連れ戻す 」

 ヤコブの手紙の最後の部分を迎えました。新訳聖書の中に収められている手紙の多くは、その最後が結びの言葉やあいさつで終わっています。けれども、ヤコブの手紙はそうではありません。話の途中で、手紙が唐突に終わるような感じです。もしかしたら、この後に結びの言葉があったのかも知れず、その部分はなくなってしまったのかも知れません。
 しかし、仮にそうだとしても、今日の最後の御言葉が、私たちの教会にとって、クリスチャンにとって、とても大切な、すばらしい教えを伝えてくれていることに変わりはありません。
「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」(19〜20節)。

 「罪人」という言葉が2回出て来ました。日本人の感覚から言えば、あまり言われたくない言葉、自分は罪人だと認めたくない言葉でしょう。けれども、聖書が語る「罪人」とは“犯罪を犯した人”という意味ではありません。
 また、「罪人」と言うと、クリスチャンはともすれば、“イエス・キリストを信じていない人”“まだ洗礼を受けていない未信者”と考えることがありますが、それも違います。
 ここで言う「罪人」とは、19節にあるように「真理から迷い出た者」を指しています。「真理」とは信仰の真理ということですから、信仰から迷い出た者のことです。信仰の道に迷ってしまった“信仰の迷子”です。
 と言うことは、ここで言う「罪人」とは、未信者のことではなく、クリスチャン自身のことです。イエス・キリストを信じてクリスチャンになりながら、その後、信仰から離れてしまった人のことです。日本人的な感覚では、信仰から離れることを“罪”とはあまり思わないでしょう。むしろ、そんなことは本人の自由ではないか、別に悪いことではない、と考えるかも知れません。
 けれども、感覚的に“悪い”ことが罪であり、感覚的に“悪くない”ことは罪ではない、のではありません。聖書が言う“罪”とは、神さまから離れていることを指します。神さまに背中を向けている状態、神さまの御心に適っていないことを言います。ルカによる福音書15章のたとえ話の中に出て来る“放蕩息子”のようなものです。
 話が少し本筋から逸(そ)れましたが、「真理から迷い出た者」、信仰から離れる者が、2千年前のヤコブの時代にも少なからずいたのです。それは、教会にとって大きな悲しみだったでしょう。
 そして、現代においても信仰から離れる人が少なからずいることを認めねばなりません。期待していたものと違った。信仰よりも魅力的なものを見つけた。教会の人間関係につまずいた。日曜日が仕事になった。体調を崩した。引っ越して環境が変わった。家庭の事情で行けなくなった。様々な事情で信仰から離れて行く人がいます。
 私たちの教会が属する日本キリスト教団では、信徒・クリスチャンが教会につながっている年数は、平均約3年と言われています。“えっ、そんなに短いの!?”と初めて聞いた時、驚きました。たぶん、毎年、各教会からか教団に提出される報告を元に統計的に計算された年数だと思いますから、必ずしも現状と一致しているとは思われませんが、信仰生活の中途で教会から離れて行く人が少なからずいることは言えるでしょう。
 そして、私たちの教会にも現在、教会から長らく離れている信徒・教会員の方が数名おられます。物理的にやむを得ないかなと思われる事情の方もありますが、そうでない方のことを思うと、やはり心が痛みます。いつか戻って来れる日が来るように、と願っています。祈っています。

 私たちには、「だれかがその人を真理へ連れ戻す」ことが期待されています。この手紙を書いたヤコブから、いや、この御言葉を通して神さまから、信仰から離れた人をもう一度、信仰生活に、教会に復帰させることが求められています。
 今日の御言葉を黙想しながら、私は、マタイによる福音書18章にある〈迷い出た羊〉のたとえを思い起こします。百匹の羊を持っている人がいて、そのうちの1匹が迷い出たとしたら、その人はどうするか。99匹を山に残して、迷い出た1匹を探しに行くに違いない。そして見つけたら、とても喜ぶだろう、と主イエスはお語りになりました。99匹いるから1匹ぐらいいいや、とはならない。1匹、1匹が持主にとって大切だからです。一人一人が、神さまにとって大切なのです。
 坂戸いずみ教会も、そういう教会、そういう“羊の群れ”でありたいのです。神さまの御心を汲んで、1人ぐらいいいや、ではなく、お互いに一人一人を大切にし合う教会でありたいのです。
 教会から離れて行く人がいると、私たちはともすれば、“どうして離れて行ったのか”とその人を責めるような気持になってしまうことがあります。宗教に限らず、同じグループ・集団を抜ける人がいると、そのグループ・集団内の人間は、抜けた人を責める傾向を持っています。それは、自分たちを正当化し、グループ・集団を守り、維持しようとする防衛の心が働くからでしょう。ある宗教団体では、抜けた人、離れた人に道であっても、無視してあいさつすらしなくなる、という話を聞いたことがあります。
 もちろん、そうであってはなりません。“勝手に抜けやがって”“離れたあの人が悪いのよ”という気持ではなく、その人の気持や事情を察しながら、その人が戻って来ることを心から願う。そして戻って来たら、喜んで暖かく迎える。そういう教会でありたいのです。それが、〈迷い出た羊〉のたとえで示される神さまの御心に適(かな)っています。特に、物理的な事情ではなく教会を離れた人を連れ戻すのは、とても難しいことです。下手に行動に出ることも差し控えなければなりません。けれども、あきらめず、神さまのように暖かく“待つ”心で祈り続けたいと思うのです。人と人とのつながりは、否定するのではなく、肯定し、受け入れることが、とても大事だと思います。

 「罪人を迷いの道から連れ戻す」。そのことで、私たちにはもう一つ、心に留めなければならないことがあります。それは、「真理から迷い出た者」というのは、必ずしも教会から離れている信徒のことだけを言っているのではない、ということです。教会につながっている。けれども、教会につながり信仰生活をしながら、そこで信仰に迷う場合があるのです。教会生活をしながら、しかし、神さまの御心に沿わず、真理の道から迷い出て、罪に陥っていることがあるのです。私たちにとって、教会につながっているだけに、こちらの状態の方が気づきにくい。自分が「迷い出た者」であるとは、なかなか自覚できないのです。けれども、自分は「迷い出た者」かも知れないと、いや、100%信仰が完璧などという人はいませんから、自分もどこかで神さまの御心から逸(そ)れて歩んでいるのではないかと自分を省みる必要があるでしょう。
 信仰の真理から迷い出ている自分、神さまの御心から逸れて歩んでいる自分に気づくには、どうすれば良いのでしょう。私たちは、だれかに言われた言葉や、挫折や失敗などの状況によって、そういう自分にハッと気づかされることがあります。
 けれども、私たちがそういう自分に最も多く気づかされるのは、聖書を通して、神の御言葉を聴く時だと思います。
 今年度、私たちの教会は〈聖書を読もう〉という目標を掲げて歩んでいます。日曜日だけでなく、平日の日常生活の中で聖書を読む。そして、聖書から、神さまが自分に何を求めているかを心で聴き取り、聴き取ったことを自分の行いや言葉、心がけや態度など生活に適用していく。そういう信仰生活をしていきたいのです。ある意味、礼拝説教で牧師から聞いたことよりも、自分で聖書を読んで聴き取った御言葉の方が、自分の心に納得もいき、自分を変えていく力にもなるでしょう。
 聖書を自分で読み、神の御言葉を聴き取ることをディボーションと言います。5月16日の研修会で疋田國磨呂牧師から初歩の手ほどきを受け、これから本格的に取り組もうとしています。
 聖書を自分で読み、神の御言葉を聴き取るには、方法があります。それは、5つの視点で読むことです。今日ここで、すべてをお話しすることはできませんが、その内の一つは、“罪”という視点です。その日、読んだ聖書の中に、どのような人の罪が表わされているかを読み取ります。神さまの御心に沿っていない人の状態を理解するのです。そうしたら次に、ここが大事ですが、その罪の状態が自分自身の心や生活の中にも当てはまらないかを考えてみるのです。そして、もし自分の罪に気づかされたら、悔い改めが生まれるでしょう。悔い改めの祈りが生まれるでしょう。
 ディボーションのもう一つの特徴は、お互いに聴き取った神の御言葉を分かち合うことです。お互いに、同じ聖書箇所を読んで、“この御言葉から、私は、このように神さまの御心を聴き取りました”と語り合い、分かち合うのです。人の証しを聞き合うことによって、聖書の味わいがより豊かに広がり、自分の信仰が深められます。御言葉を分かち合う喜びが生まれます。そして、お互いの信頼関係が深まれば、お互いに御言葉に示されて、自分の罪を告白し合い、祈り合うことさえ起こり得るのではないでしょうか。
 今日読んだ聖書箇所の直前の15〜16節に、次のような御言葉がありました。
「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」。
 この御言葉に示されている交わりは、私たち信じる者が、神の御言葉を心を開いて聴き、神の御心を受け入れた時に、起こり得ると、私は信じます。
 もちろん、自分の罪というのは、それが醜いものであればあるほど認めたくありませんし、まして他人に告白し、打ち明けることなど、そう簡単にはできません。まずできない。それが起こり得るとしたら、それは人間同士の交わりとしては“奇跡”でしょう。
 けれども、自分の悩み、弱さ、コンプレックス、そして何とかしたいと願っている誤りや欠点(でも、どうにもできないことも少なからずある)を、明かせる範囲であっても語り、聞いてもらい、受け止めてもらえたら、私たちはどんなに心が軽くなることでしょうか。そして、その解決のために、魂のいやしのために、一緒に祈りを合わせることができたら、それはどんなにすばらしい交わりでしょうか。その交わりには、大きな喜びと深い平安が満ち溢れているでしょう。そして、そこには“神さま”がいる、共におられると言うことができると思います。
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18章19〜20節)
 マタイによる福音書18章19〜20節において、主イエスはこのように教え、約束してくださいました。この御言葉も、信徒同士の交わりにおける罪の赦しをお教えになる文脈の中で語られています。神さまの御前に心を通わせ、お互いの心の内を告白し合い、お互いのために祈り合うところには、目には見えないけれど、主イエス・キリストが聖霊となって共にいてくださいます。二人が心を合わせている祈りに、主が応え、赦してくださいます。その交わりにおいて、「罪人が迷いの道から連れ戻される」大きな恵み、救いの御業が起こっています。私たちの教会にも、このような交わりが実現するように、心から主に祈り願いましょう。





   ウィンドウを閉じる