2010年6月27日 大人と子供が共に守る礼拝説教(主の祈り1)
  聖  書 ルカによる福音書11章1〜4節

  説教者  山岡 創

「 神さまはすばらしい 」

  今日も礼拝で〈主の祈り〉を皆で一緒に祈りました。この祈りは、今日読んだ聖書の御言葉にあったように、お弟子さんたちがイエスさまに「わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)とお願いした時に、イエスさまが「祈るときは、こう言いなさい」(2節)と教えてくださった祈りです。だから、毎週の礼拝で主の祈りを祈ります。
 でも、主の祈りは、礼拝以外でも祈っていい祈りです。毎週の礼拝で祈っているので、何だか主の祈りは礼拝の中で祈る祈りと思い込んでしまっているかも知れませんが、そうではないのです。毎日の生活の中で祈ることができる祈りです。私たちの教会の中にも、食事の前に主の祈りを祈るという方がいます。朝起きた時に主の祈りを祈るという方もいます。イエスさまが、「祈るときは、こう言いなさい」と教えてくださった祈りだから、自分の言葉で祈れない人も、最初は主の祈りを祈ったら良いし、いつでもどこでも祈ることができる祈りです。
 そうすると、主の祈りがどんな祈りなのか、その意味を知っていて祈る方が良いに決まっています。何を祈っているのか分からないと、まるで魔法の呪文でも唱えているような祈りになってしまいます。
 私も子どもの頃、“日用の糧”って何だろうと思っていました。子どもたち、“にちようのかて”ってなんだか分かる? 私は子ども心に、“日曜日の家庭”のことだと思っていました。でも、本当は“毎日の食べ物”という意味なんですね。毎日の食べ物を与えてください、という祈りが、日曜日に家庭をお与えください、と思って祈っていたら、変な祈りになってしまいます。
そこで、今日からしばらくの間、大人と子供が共に守る礼拝の時に、〈主の祈り〉のことをシリーズでお話ししようと思います。

 “天の父よ”。〈主の祈り〉の最初に、私たちはそのように祈ります。お祈りは独り言(ひとりごと)ではありません。私たちのお祈りを聞いてくださる相手がいます。それは神さまです。祈りを聞いてくださる神さまに向かって、私たちは“天の父よ” “天のお父さま”と呼びかけるのです。“天のお父さま、これからお話ししますから聞いてください”ということですね。
 おかしい?!と思ったことがありませんか? 神さまのことを“お父さん”て呼ぶなんて。だって、自分のお父さんはちゃんといる。もしかしたら、お父さんと会えない人、お父さんが死んでしまった人もいるかも知れないけれど、でも、自分のお父さんはちゃんといた。それなのに、神さまのことをお父さんと呼ぶなんて、おかしい。お父さんが二人いるっていうことなの? と思ったかも知れません。
その通りです。私たち、神さまを信じる者には、お父さんが二人いる。一人は、人間のお父さん。そして、もう一人は、目には見えないけれど、天の上からいつも私たちのことを見守り、助けてくださるお父さん、“心のお父さん”である神さま。私たちには、この二人のお父さんがいるのです。
 イエスさまは、神さまのことを“お父さん”と呼びました。神さまをお父さんと呼んだのは、ユダヤ人の中でイエスさまが最初だということです。

 イエスさまにも、自分のお父さんがいました。ヨセフさんです。イエスさまにとって、ヨセフさんは、とても愛情の深いお父さんだったのではないかと思います。
でも、ヨセフさんは早くに亡くなってしまったようです。イエスさまも子供心に、ずいぶんさびしい思いをしたのかも知れません。隠れて泣いたこともあったかも知れません。“自分にはもうお父さんがいない。お父さんがいてくれたら‥‥”。そのようにさびしく、つらい思いをしていた時に、神さまの聖霊がイエスさまの心に語りかけたのではないでしょうか。“あなたにはもう一人、お父さんがいる。それは、天にいらっしゃる神さまだ。神さまのことをお父さんと思って、お父さんと呼んで良いのだよ”。
 神さまを“お父さん”と呼ぶことができる。神さまが“私のお父さん”だ。それを知ったイエスさまは、どんなにうれしく、また平安な暖かい気持を感じたことでしょう。
 そして、神さまをお父さんと呼べる喜びと平安を、イエスさまは私たちにも教えてくださいました。あなたがたも神さまの子どもだ、天の子だ。だから、神さまは赤の他人じゃない。迷惑をかけたら悪い相手ではない。親しみをもって、困った時、苦しい時には頼ることができる、そういうお父さんのような、親のような方だよ、とイエスさまが私たちに教えてくださったのです。だから、私たちは神さまを“天のお父さん”“天の父よ”と呼ぶのです。

 そして、この天のお父さんのお名前が崇(あが)められますように、と主の祈りでは祈ります。「崇める」とは普段使わない、分かりにくい言葉ですが、これは、人間以上の偉大なものを“敬(うやま)う”“尊敬する”という意味です。「御名(みな)」というのは、神さまのお名前のこと、“みんな”という意味に勘違(かんちが)いしていた人はいませんか? でも、神さまのお名前が尊敬されますように、では、まだよく分からない。つまり、簡単に言えば、“神さまが尊敬されますように”という祈りです。今風の言葉で言えば、神さまをリスペクトする、ということですね。正座をして、両手をついて、“天のお父上様”って感じかな。
 でもね、“天の父よ”という主の祈りの呼びかけは、小さな子どもが親しみを込めて、“お父ちゃん”と呼ぶ感じです。お父ちゃんと呼んだ後で、お父ちゃんが尊敬されますように、と祈る。何だか変な感じがするけれど、イエスさまは、神さまに対して“お父ちゃん”と呼ぶ親しみと同時に、“お父上様”と呼ぶかのような尊敬の心も私たちに持ってほしいのです。この世界を造られた神さまに、そして私たち一人一人に命を与え、ご自分の子どもとして見守り、心を砕(くだ)き、愛してくださる神さまに尊敬の心を持ってほしいのです。

 でもね、神さまを尊敬するって、どうしたらよいのでしょう? 実は、私たちはもう神さまを尊敬しています。こうして神さまを礼拝していることが、神さまへの尊敬の心を表しています。だから、心を込めて礼拝することが大切です。
 そして、いつも謙遜(けんそん)な心を持つこと。謙遜な心というのは、神さまの前で、自分はとても“小さな者”なんだと自覚することです。「崇める」という元々の言葉(ギリシア語)には、大きくするという意味があります。だから、神さまを崇めるということは、神さまを大きくするということでもあります。神さまを大きくするにはどうしたらよいか。自分を小さくすることです。自分が小さくなれば、神さまはそれだけ大きくなります。(みんなから見ると、野澤くんは大きく見えるでしょう? でも、みんながアリのように小さくなったら、野澤くんはもっと大きく、巨人のように見えるよね)
 だから、神さまの前で自分は大きくならない。ぼくはすごいんだぞ、と思わない。あれもできる、これもできる、こんな物も持っていると威張(いば)らないことです。もし威張ったら、神さまを尊敬するのではなく、自分のことをほめてくれ、尊敬してくれという気持になってしまいますね。自分が大きくなってしまいます。
 イエスさまのたとえの中に、ファリサイ派の人と徴税人の祈りというのがあります。ファリサイ派の人は、自分のことを大きく大きくしていました。神さまに向かってお祈りしながら、私はこんなことができます、あんなこともしています、と自分の自慢ばかりしていました。あれだと、神さまに愛されている。助けられているという尊敬の気持になれません。
 でも、もう一人の徴税人は、うつむいて、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐(あわ)れんでください」(ルカ18章13節)と祈りました。自分には、神さまに自慢できるようなことは何もない。それどころか、心の中に罪をいっぱい持った人間です。そんな気持で本当に小さくなっていたでしょう。けれども、自分が小さくなる時、私たちは、神さまの大きさが分かります。私たちを見守り、助け、赦してくださる神さまの愛の大きさが分かるのです。
 み名があがめられますように。この次から、この祈りを祈る時は、心の中で“神さまを大きく、自分を小さく”ということを、ぜひ思い出して祈ってください。





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