2010年7月4日 日本基督教団信仰告白1
  聖  書 ローマの信徒への手紙10章5〜13節

  説教者  山岡 創

「 心で信じ、口で言い表す 」

 “我らは信じ、かつ告白す。”この言葉で始まる日本基督教団信仰告白の内容を、今日から、聖書の御言葉によって教えられ、よりよく理解してまいりたいと思います。
 私たち坂戸いずみ教会は、日本最大のプロテスタント教派である日本基督教団に属しています。そして、日本基督教団は、“これが私たちの信じる内容です”と定めた日本基督教団信仰告白を持っています。日本基督教団に属する教会は、この日本基督教団信仰告白で言い表されている信仰によって立っているのです。
ですから、私たち坂戸いずみ教会は、毎月第1週の日曜日の礼拝で、この日本基督教団信仰告白を共に言い表しています。イースター、ペンテコステ、クリスマスにも、この信仰告白を言い表します。つまり、聖餐式が執行される礼拝で、日本基督教団信仰告白を言い表しているのです。それは、聖書に基づき、日本基督教団信仰告白によって言い表されている信仰を受け入れて洗礼を受けた私たちが、その信仰によってキリストの聖餐を受けることを明らかにするためです。
簡単に言えば、坂戸いずみ教会は、この信仰告白を自分たちの信仰を言い表すものとして大切にしているのです。“自分たちの信仰はこれだ!”と言って大切にしているのです。そのように大切な日本基督教団信仰告白の内容を、よく理解せずに礼拝で告白しているとしたら、意味がありません。覚えたままに、何か呪文を唱えているようなものでしょう。そこで、今より少しでも日本基督教団信仰告白の内容を知り、味わいながら告白できるようにしたいと願っています。そしてもちろん、この信仰告白は、勝手に考え出されたものではなく、聖書に基づいて定められたものですから、聖書によって、その内容をより深く教えられ、理解してまいりたいと願います。

 今日は、その最初の言葉、“我らは信じ、かつ告白す”について、聖書の御言葉から聴きましょう。
 この最初の言葉によって、私たちは信じることによって救われる、“信仰”によって神さまに救われる、ということを言い表しています。
 では、信仰以外に私たちを救うものがあるのでしょうか。新約聖書によれば、そんなものはありません。信仰がすべてです。けれども、主イエスの弟子たちと教会によって、この救いが宣べ伝えられる以前、この救いが新約聖書に書き記される以前、旧約聖書の教えに生きていたユダヤ人たちは、“行い”によって救われる、と信じていたのです。
 今日の御言葉、5節以下に、こう記されています。
「モーセは律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています」。
 ここに、「信仰による義」と「律法による義」が対極的なものとして描かれています。「信仰による義」とは、神さまの憐れみにすがる信仰によって、神さまに認められ、肯定されることです。他方、「律法による義」というのは、モーセを通して示された律法、すなわち神の掟を守るという行いによって、神さまに認められるという考えです。
 この二つの「義」について思い出される聖書のたとえ話があります。主イエスがなさった〈ファリサイ派の人と徴税人〉の祈りのたとえです(ルカ福音書18章9節以下)。
 この両者が祈るために神殿に行きました。ファリサイ派の人は、「神さま、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(11節)と言って祈りました。つまり、自分はしっかりと掟を守って生きている、と自己主張のような、自分を認めてくださいと訴えるような祈りをしたのです。けれども、徴税人は、日ごろの自分の行いがどんなものか分かっています。だから、とてもじゃないけれど、自分は掟を守っていますとは祈れませんでした。彼は、うつむき、胸を打ちながら、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)と祈ったと言います。
しかし、最後に主イエスはこう言って、このたとえ話を結んでいます。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)。義とされたのは、神さまに認められたのは、自分は掟を守っていると自分の行いを主張したファリサイ派の人ではありませんでした。自分の罪を認め、神の憐れみにすがった徴税人が、神さまに認められ、受け入れられたのです。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と語られた詩編51編の御言葉が思い出されます。
 私たちは、この主イエスの教えにも示されているように、掟を守るという行為に象徴される、自分の立派な行い、自分の力では、神さまに認められ、救われないと考えます。すべての掟を守ること自体が非常に難しいことですし、形の上で守れたとしても、自己満足や他人と比較しての思い上がりといった心の問題が残るからです。
 自分は守れない、できない人間として、また表面にではなく心に罪の問題を抱えている人間であることに気づいて、ただ神さまの憐れみを祈り求める信仰に生きる。この思いが、日本基督教団信仰告白の最初の一言、“我らは信じ”に込められているのです。
 けれども、「律法による義」と「信仰による義」の間で、私たちの心は葛藤しているのではないでしょうか。つまり、“人間は自分の力で生きなければならない”という人生観と、“私は自分の力で立派に生きている”という、自分を誇りたい気持が、絶えず私たちの心のどこかにあるのです。
 私は、高校を卒業してから教会学校の奉仕を始めました。子どもたちに聖書を教えるために、一生懸命、聖書を読みました。自分の心に響いた御言葉に赤鉛筆で線を引きながら読んでいましたが、その当時の聖書を開いてみると、“〜しなさい”“〜してはならない”という御言葉にばかり線が引いてあるのです。つまり、「掟」のような御言葉です。私はその頃、神さまが命じられることを行い、守る者が、神さまに認められ、受け入れられるのだと考えていたのです。「律法による義」を追い求めていたのです。
 けれども、どんなに頑張っても、すべてを守れず、自分が納得できるほど立派に生きることなどできません。私は信仰に挫折し、私の信仰生活は破たんしました。そして、このような私のことを、神さまは認めず、救ってくださらないとネガティブな気持になっていました。自分を否定していました。
 けれども、そういう気持のどん底で、神さまの憐れみによって私は救われるのだ、という「信仰による義」と出会いました。私が、自分の力で立派に生きているから、自分の人生これで良し、ではなく、神さまの憐れみによって、私は生かされているからこれで良し、という思いに変えられたのです。そのように信じる信仰を与えられたのです。だから、私も“我らは信じ”という信仰に立って生きています。
 それでも、今も時々、自分の力を誇りたくなる、自己満足したくなる、自分の力に頼り、だめなら落ち込む自分が心のどこかにいます。そういう自分に気づき、戦いながら、そういう自分を御言葉によって打ち砕かれながら、私たちは、“我らは信じ”と言い表し続けていくのです。

 そして、もう一つポイントは、“告白す”ということです。告白する、というのは、私たちが一般的に考える、気持を告白するとか、過ちを告白するといった意味とは、少し違います。今日の聖書の言葉を借りて言えば、“告白する”とは、9〜10節にあるように「公に言い表す」という意味です。「公に」というのはどういうことでしょう? それは、“神の前で”ということと“教会の信徒たちの前で”という意味です。特に、後者の意味、“教会の信徒たちの前で”という意義が大きいと思います。
 9〜10節に、次のようにありました。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」。
 この御言葉を読んで、ふと、こんなふうに思われた方はいないでしょうか。“なぜ心で信じるだけではだめなのだろうか? 信仰の問題なのだから、心で信じてさえいればよいではないか? どうして教会の皆さんの前で、口で告白しなければならないのだろうか”
 確かに、信仰とは“神さまと私”という1対1の関係です。心の中の関係です。その意味では、「心で信じて」というだけで良いのではないか、という考えは間違いとは言えません。神さまとだけの関係で言えば、もうそれで「義」とされています。神さまに認められ、受け入れられています。
 けれども、それだけで良いならば、教会に来る必要、礼拝に参加する必要、教会に属する必要はありません。独りで聖書を読み、祈っていれば、それで足ります。
 しかし、そのような信仰は個人的な、ともすれば独りよがりの信仰に陥るかも知れません。2千年来、継承され、告白し続けられて来た信仰告白、その信仰告白に基づいて定められた日本基督教団信仰告白に立った、フォーマル(規則正しい)な信仰にはならないでしょう。私たちが信仰を公に言い表し、告白するのは、それが2千年来受け継がれてきた正統な信仰であることを確認し、その信仰を将来の教会へ、次の信仰の世代へと受け継いでいくためなのです。
 信仰を告白することの、もう一つの大切な意味は、聖書に基づく信仰は、個人的なものではなく、共同体的なもの、簡単に言えば信仰は神さまを信じる人と人との交わりの上に成り立つものだということを、告白という共同の業が表わしているということです。
 先ほどもお話ししたように、神さまとの関係ということで言えば、私たちは心で信じれば十分です。けれども、聖書は、それで救われるとは考えていないのです。
 「律法による義」を追い求めるのではありませんが、律法の中心である十戒は、神との関係だけでなく、隣人との関係も戒めるものでした。そして、そのような信仰の伝統を受け継いだ主イエスも、律法の中で何が最も重要ですか?と問われた時、心を尽くして神を愛することだけを挙げたのではありませんでした。同時に、「隣人を自分のように愛しなさい」との掟も同様に重要であると教えられました(マタイ22章34節以下)。
 つまり、主イエスも、信仰とは神さまとの関係であると同時に、裏返せば、隣人との関係の上にあるものだと教えられたのです。神さまとの関係が健(すこ)やかであると同時に、隣人との関係、人間関係もまた健やかであってこそ、私たちは救われているのだ、とお教えになったのです。
 神さまの憐れみによって赦され、愛され、認められ、受け入れられた私たち。その私たちが、周りの人を愛して受け入れる。そこに“救い”はあるのです。
 信仰を告白する、とは、隣人と共に信仰を公に言い表すことです。それは、信仰が共同体的なものであることを表し、信仰と愛による交わりを造り出していくことを目指すものです。その交わりの中で、私たちの信仰は支えられ、深められ、私たちの愛は育(はぐく)まれていくのです。

 信仰によって救われる。交わりの中で救われる。この思いを込めて、“我らは信じ、かつ告白す。”と、これからも共に言い表していきましょう。





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