2010年7月18日 初雁教会との講壇交換礼拝
  聖  書 マタイによる福音書6章25〜34節

  説教者  山岡 創

「 必要は満たされる 」

 昨年の11月から、教会のそばを流れる高麗川を渡った向こう側に畑を借りて、家庭菜園をやり始めました。以前にも、住んでいたアパートのすぐ隣の土地を借りて4年ほどしていたことがありました。それが、会堂建築と移転のことがあり、忙しくなってしばらくやっていなかったのですが、それも4年経って落ち着いて来まして、教会員の方から“知り合いが畑を貸してくれる、って言うんだけど、先生、やらない?”と勧められて、“ほんじゃ、やろうかな”と10坪の土地を借りて始めました。やり始めるとおもしろいですね。11月には玉ねぎ、キャベツ、春菊、ビタミン菜、いちご等の冬物、春物を植え、先日はじゃがいもを収穫し、今はキュウリ、なす、トマト、ピーマン、枝豆がよく取れます。キュウリなどは取れ過ぎるぐらい取れて、我が家の下2人の子どもが喜んで丸かじりしています。

 さて、今日の御言葉は、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)とお教えになった箇所です。信仰歴の長い方は1度ならず読み、説教を聞いた御言葉でありましょう。
 私も、改めてこの主イエスの教えを黙想して自分の心に留まった御言葉が幾つかありますが、その一つは、「野の花がどのようにして育つのか、注意してみなさい」(28節)という御言葉でした。なぜなら、畑で野菜を育てていたからです。ストレートに「野の花」ではありませんが、同じ植物です。私は畑で野菜を育てながら、それを注意して見ていただろうか? そのことを御言葉から問われたように思いました。注意して見たら、何が分かるのでしょう? 野の花を、地の野菜を、神さまが装い、育ててくださることが分かる。そして、野の花よりももっと、神さまが“私”を養い支えてくださることが見えて来ると主イエスは教えてくださっているのです。
 私も畑を耕し、土作りをし、野菜の世話をしながら、実っていく野菜に、自然の力はすごいなあ、とは感じていました。けれども、神さまが養い育ててくださっていると思ったことはありませんでした。理屈では自然の背後に神さまのご支配、摂理があると知っているのです。けれども、そこまで注意して、信仰的に見ていなかったのです。実感していなかったのです。
 28節の御言葉からそのことを示されて、私は今度からこうしようと考えています。畑で野菜の世話を始める前に一言、“神さま、これらの野菜を通して、神さまが育て、生かしてくださる恵みを見ることができるようにしてください”と祈ってから始めよう。
 たあいもないことと思われるかもしれません。けれども、信仰生活とはそういうことではないか、そういうところが大事なのではないかと思うのです。もし私たちが、日曜日には聖書を開き、祈るけれど、普段の日は聖書を読まず、祈りもしないと言うなら、それは信仰と生活とが分離したサンデー・クリスチャンです。それでは、私たちの信仰は育たない。いつまで経っても、何を食べようか、何を着ようかと徒(いたずら)に思い悩む人生です。
 仕事を始める前に一言祈る。料理を作り始める前に一言祈る。学校で試験を受ける前に一言祈る。部活を始める前に一言祈る。たあいもないと思う前に、やってみる。そうしたら、自分の生活の何かが、きっと内側から変わり始めます。神さまのお支えが見えるようになります。

「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(28〜30節)
 野の花がどのように育つのか、注意して見た人として、私はふと、星野富弘さんのことを思い起こしました。星野さんのことは、ここにいる多くの方がご存知でしょう。
 星野富弘さんは大学を卒業して地元・群馬県の体育の高校教師になった。しかし、赴任して2年目、体育の授業で跳び箱を使った空中回転を行った時、着地に失敗し、頚椎を骨折。首から下の体が全く動かなくなってしまったのです。
 病院で絶望的な毎日を送りながら、もう少し後になって星野さんは口に絵筆をくわえて野の花を描き、その絵に詩を添えるようになるのですが、私がいちばん好きな詩の初めに、星野さんはこのようにつづっています。
    何のために生きているのだろう
    何を喜びとしたらよいのだろう
    これからどうなるのだろう
 絶望した星野さんの苦悩がそのままに現われています。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかという悩みの延長線上にある、究極の苦悩だと言って良いでしょう。
しかし、やがて星野さんは、大学時代の先輩で牧師になった人が見舞いに来た時に置いていった聖書を読み始めます。そして、その先輩の通っていた前橋の教会の牧師や教会員が病室に訪ねて来るようになり、聖書の話、信仰の話を聞きながら、それまで自分の力で何でもできると思っていた星野さんは、自分の罪と弱さに気づき、次第に信仰の心を養われていったのです。
先の星野さんの詩には続きがあります。
    何のために生きているのだろう  何を喜びとしたらよ        いのだろう
    これからどうなるのだろう
    その時 私の横に あなたが一枝の花を置いてくれた
    力をぬいて 重みのままに咲いている 美しい花だった
                 (『鈴の鳴る道』66頁)
 人生に絶望し、苦悩していた星野富弘さんが、聖書と出会い、信仰を養われて行く中で、病室に置かれた一枝の花に、神さまの養い、神さまのお支えを見たのが、この詩だと思います。力を抜いて、重みのままに咲いている、その花の姿を美しいと感じた。それは、自分が置かれたいのちの場所で、ありのままに生きている、絶望もせず、愚痴もこぼさず、自然体で、置かれた場所で咲いている美しさです。そして、力を抜いて、重みのままに生きるということは、自分を養い生かしてくださる方を知っているからこそ、そしてその方におゆだねしているからこそ、できる生き方なのだと、その花を見て星野富弘さんは心の目を開かれたに違いありません。そこから、思い悩むのではなく、神さまにゆだねて生きる星野さんの人生が始まったのだと思います。

 空の鳥をよく見、野の花を注意して見る時、目には見えない隠れたところで、神さまが鳥を養い、花を育ててくださることが見えて来る。まして私たち一人一人を養い、生かしてくださらないはずがない。だから、徒に思い悩まず、神さまに“よろしくお願いします”と自分をおゆだねして、今日を平安に歩みなさい、というのが主イエスの教えです。信仰です。
 とは言え、思い悩まずにはいられないのが私たちの人生でありましょう。お金の問題、健康の問題、家庭の問題、子育ての問題、仕事の問題、人間関係のトラブル・・・思い悩まない人など一人もいません。
 けれども、自分の力、人間の力に一喜一憂して思い悩むのと、思い悩みつつも神さまの御心におゆだねするのでは、心の置きどころが全く違うのです。
 私が今日の聖書箇所を黙想しながら、もう一つ印象に残った御言葉は、32節です。
「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」
 生活していくために、あれも必要、これも必要、だから、ああしなきゃ、こうしなきゃ、と私たちはあくせくします。もちろん、私たちは、自分の人生を設計し、生活を考え、そのために働き、努力をします。神さまにおゆだねする、という信仰は、神さまに自分の人生を丸投げして何もしないという意味ではありませんから、そのようにするのは当然のことです。
 けれども、必要以上にあくせくし、落ち込み、思い悩んでいる、ということはないでしょうか。
 それほどに、自分の必要を考えている私たち以上に、天の父は私たちに必要なものご存じだと主イエスは言われるのです。私に必要なものを、私以上に神さまがご存じである。そうか、そうなんだと主イエスの御言葉を信じることができれば、私たちは、自分の人生を根本的に、究極的に、神さまにおゆだねすることができるようになります。平安な人生の土台が、そこに生まれます。
 私の必要を、私以上にご存じである神さまに人生をゆだねて、思い悩まず、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(33節)と主イエスはお教えになります。
 教えられたことを頭の中だけで思っていても、だめです。生活の中に、具体的に生かして、行(おこな)ってみる。そうすることで信仰がトレーニングされ、養われます。例えば、最初にお話ししたように、仕事をする前に、料理をする前に、試験を受ける前に、苦手な人と会う前に、嫌なことをする前に、そのために一言祈ってみる。そんなことしても変わらないと思う方、とんでもない! 変るんですよ。違うんですよ。隠れたところで何かが働く。目に見えない聖霊が私たちの内に働くのです。そうしたら、不思議とできるようになるのです。
 もちろん、うまく行かない時だってあるでしょう。けれども、祈ってうまく行かなかったのと、祈らずにうまく行かなかったのとでは、結果は同じでも質が全く違うのです。祈らなかったら思い悩んでうじうじするかも知れませんが、祈ってやったことは、これも神さまの御心だ、神さまが必要なこととして、こうされたのだと不思議に納得できるのです。平安なのです。
 神の国と神の義を求める。簡単に言えば、“この私が”、自分が、神さまが喜ばれるように御心を求めて生きる、ということでしょう。それは、自分の人生、具体的な生活の中でどうすることか。
 私は、今の自分の献金を減らすまい、と思っています。5人の子どもたちが大きくなってきて、長女も高2で、これからの食費はどうなるか、学費はどうなるか、そんなことを考えながら、学資保険を掛けたり、少しは蓄えを作ったりしています。でも、これでだいじょうぶかと思い悩むこともあります。そういう中で、嬉しくも子どもたちが次々と洗礼を受け、クリスチャンとなる。こんなに嬉しいことはないのですが、さて、月定献金、感謝献金が必要になる。本人が子どもとは言え、お粗末な金額では、信仰は育ちません。でも、財布は一つ。子どもの献金を増やした分、ぼくら親の献金は減らそうかと正直、考えたりするのです。
 けれども、それでは「神の国と神の義を求める」ことにならないのではないか。必要なものは与えてくださる神さまにおゆだねすることにはならないのではないか。今日の御言葉から、私はそのことを示されています。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
 神さまの御心を求めて生きて、その中で必要なものは与えられた。感謝。人生はただ一度、折角の信仰生活なのですから、そういう実感を感じながら歩ませていただきましょう。





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