2010年8月22日 日本基督教団信仰告白4
  聖  書  ヨハネによる福音書1章14〜18節

  説教者  山岡 創

「 人となった神 」

 御子は我ら罪人の救いのために人と成り‥‥
 今日は、日本基督教団信仰告白の中で、この告白の内容について、聖書の御言葉から聴きたいと思います。
 さて、“御子は”と告白する時、それは今日の聖書の御言葉で言えば、18節に書かれている「父のふところにいる独り子である神」のことだと言うことができます。そして、御子とはもちろん、イエスのことを指しています。
 前回の日本基督教団信仰告白についての説教において、私たちの信じる神は、三位一体の神であることを学びました。父なる神、子なる神、聖霊なる神が、三つにして一つ、唯一の神であることを信じるのです。
 だから、御子と言うとき、ただ単に“神の子”という意味ではありません。神の子と言えば、私たち信じる者も神の子だと言うことができます。父なる神さまに造られ、愛されていることを信じ、その御心に従う神の子です。
 けれども、イエスは御子であると告白する時は、それと同じ意味で告白するのではありません。子は子でも、子なる神だ、「独り子である神」だと言っているのです。イエスを御子であると信じて告白することは、イエスを“神である”と告白することと同じである。まずそのことをしっかりと押さえて頭に入れてください。

 ところで、イエスは御子である、「独り子である神」だと最初からはっきりしていたわけではありません。では、なぜイエスが御子と呼ばれ、信じられるようになったのでしょうか。それは、イエスが天におられる神を“父”と呼んだからです。例えば、同じヨハネによる福音書の14章2節では、「わたしの父の家には住む場所がたくさんある」と、神を「わたしの父」と呼んでいます。他にも、4つの福音書の中で、イエスが神さまを父と呼んでいる箇所がいくつも出て来ます。
 イエスもユダヤ人として生まれ、生きたわけですが、それまでのユダヤ教の信仰においては、神を父と呼んだ者はいなかったのです。イエスが初めて、神を父と呼んだと言われています。それまで、神さまと言えば、大きな隔たりと畏れを感じているだけであったのが、イエスが父と呼んだことで、神を信じる信仰に、新たに親しみの情が生まれました。神を父と呼ぶからには、イエスは神の子であると考えることができます。そこから、イエスを御子と信じる信仰は出発しています。

 けれども、イエスは御子であると信じる信仰は、それだけでは終わりません。それは、先ほどもお話ししたように、子なる神、「独り子である神」であると、“神”だと信じる信仰へと至ります。なぜなら、今日の18節にあるように、「この方が神を示された」から、イエスが神を示されたからです。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)。
 いまだかつて、神を見た者はいない、と聖書は語ります。それならば、見たことのない神を、知らない神を、どうして信じることができるのでしょうか?
 今日の聖書箇所の17節に、「律法はモーセを通して与えられた」と記されていますが、ユダヤ人は、古の指導者モーセを通して与えられた律法、つまり神の言葉によって、神さまが自分たちに何を与え、何を求めておられるかを知り、信じることができました。そして、クリスチャンと呼ばれるイエスを信じる人々は、イエスご自身を通して神の「恵と真理」(17節)が示されたので、神を信じることができます。イエスを通して、神さまが自分たちに何をくださり、何を求めておられるかが示されたので、神を信じることができるのです。神の心を知り、それを示すことができるのは、神だけです。神と同じ立場にある、神と等しくある者だけです。だから、私たちは、イエスを神であると、「独り子である神」だと信じるのです。
 イエスが神を示してくださった。だから、私たちはイエスを「独り子である神」と信じて言い表します。このことは理屈ではありません。理屈から生まれた信仰ではありません。イエスによって神を見た、確かに神を示されたというリアルな体験、圧倒的な感動から生まれた信仰です。
 例えば、前回の説教でトマスの話をしましたが、イエスの弟子の一人であったトマスは、復活したイエスと出会い、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20章28節)と信じて、告白しました。それは、他の弟子たちが復活したイエスに出会い、喜んでいたのに、彼一人だけイエスに会えず、疎外されたような、さびしい気持になっていた。そのために突っ張り、イエスを信じないとまで意地を張ってしまいました。本心では復活したイエスと出会い、信じたかったのです。イエスは、そんなトマスの心を汲み取ってくださり、トマスのためにだけ現れ、懇(ねんご)ろな言葉をかけてくださいました。そのようなイエスの、心の底にまで届くような優しさに、トマスは“神”を感じたのです。イエスに神の心を見て、感動に包まれたのです。そこから「独り子である神」という信仰は生まれました。
 そして、この感動と信仰は現代においても生まれます。現代においても、もちろん神を見ることはできません。神さまどころか、イエスとお目にかかることも適(かな)いません。けれども、遺(のこ)された聖書の御言葉を通して、私たちはイエスと出会うことができます。イエスによって神さまの心を知ることができるのです。
 つたない体験ながら、私もそうでした。高校まで順調に生きてきた私は、高校卒業後、自分の目標と進路が見つからず、大学受験に失敗し、中途半端な自分に、無力さと情けなさを感じていました。そのような人生の挫折の中で、自分は生きている値打ちがないのではないかと悩み、落ち込むようになりました。そのような挫折の淵で、私は聖書を通してイエスに出会いました。何もできない、無力な、中途半端な自分が、それでも生きていていい、生きている値打ちがある、そういう命の本来の意味を、イエスの御言葉によって教えられました。私は、このイエスの御言葉に感動したのです。重荷を取り除かれたのです。人生が全く違うものになったのです。そこに私は“神”を感じました。イエスが神を示してくださっていることを信じました。だから、私は今、こうして、イエスは「独り子である神」だと心から信じて告白することができるのです。
 キリスト教信仰は、聖書を通して教えられることから入ることが多いと思います。教えられたことを頭に入れるのです。理解するのです。けれども、その教えを、自分の人生の体験と照らし合わせて、いつかイエスと出会う、神と出会う体験と感動を一人一人に味わっていただきたいと願います。その時初めて、信仰告白は“わたしの告白”となります。頭ではなく、心から、イエスは「独り子である神」であると、“御子は我ら罪人の救いのために人と成り”と告白することができるようになります。

 ところで、「独り子である神」は「父のふところにいる」と18節に記されていました。「父のふところにいる」ということは天におられるということであり、私たちに理解できる言い方で言えば、本来、私たちが生きている地上にはいない、ということです。
 ところが、本来天上にいて地上にはいない「独り子である神」が、人と成ってくださいました。「独り子である神」が人間イエスとなって、私たちの世界においでくださいました。今日の聖書の14節は、そのことを「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記しています。「独り子である神」は、ヨハネによる福音書1章では「言」とも言われます。これはギリシア語のロゴスという言葉が訳されたもので、それは、ちょっと難しい話ですが、宇宙の秩序と生命を支配する原理、原動力であり、また神と世界の仲介者であるというふうにも理解されるのがロゴス、「言」です。そういう「言」、そういう意味で「独り子である神」が、人と成り、人間イエスの姿でこの世に来てくださった。このことを、キリスト教の専門用語で“受肉”と言います。どこかでお目にかかる言葉かも知れませんので、覚えておいてください。
 「独り子である神」が人と成った、人間イエスの姿でこの世に来てくださった。だから、イエスは“人となった神”です。まるで辞書そのもののように物知りの人のことを、生き字引、ウォーキング・デキショナリーと言いますけれども、イエスとはまさに、ウォーキング・ゴッドです。神の御心を示す人間です。だからこそ、「独り子である神」だと信じられるのです。
 ところで、「独り子である神」は、どうして人と成り、この地上においでくださったのでしょうか? それは、“我ら罪人の救いのため”だと、私たちは告白します。我ら罪人の救いのために、とは、砕(くだ)いて言うとどういうことなのでしょうか。
 今日の説教の準備をするために、何冊か本を読んでおりましたら、『迷っているけど着くはずだ』(新教出版社、塩谷直也著)という本の中に、〈人となった神〉という章を見つけました。これは、今日の説教題と同じタイトルです。私がその本を見て付けたのではなく、たまたま同じだったのです。そこで関心をもちまして、どんなことが書かれているのだろうと読んでみました。
 その中で、著者の塩谷直也牧師は、自分が高校1年だった時、自分一人だけ数学の居残り勉強をさせられたことを書いています。途中で先生も先に帰ってしまった。その時、数学がよくできる女子生徒が近づいて来て、“大変やね。やればできる。頑張って”と声をかけて立ち去ったのだそうです。彼女にしてみれば悪気などなく、励ましのつもりだったのでしょう。けれども、塩谷先生は、死ぬほど悔しかった、彼女の後姿に消しゴムを投げつけてやりたかった、数学で校内一になってやると心に誓った(実現せず)と言います。その時、自分に必要だったのは、一緒に居残り勉強をする友だちだったのだと塩谷先生は書いています。
 神が人と成る、ということは、言わば、一緒に居残り勉強をする友になる、ということでありましょう。天の上にいて神の立場から、私の心はこうだ、私はこう考えている、これを求めている、とどれだけ言ったところで、なかなか地上の人間には伝わらない。だから、神さまは人と成って、地上に来てくださったのです。人と同じ立場になって、数学のできない惨(みじ)めさを、否、私たちの苦しみ悲しみを、人として味わう方となってくださったのです。だからこそ、イエスの語る言葉に、行いに、私たちは慰められます。
 けれども、塩谷先生は同時に、学生時代、淋しい者同士が集まって騒ぐと、余計に淋しくなった体験を記しながら、“私の傷を共に痛んでほしいけど、ただ痛み合うだけでも何かが足りない”と記しています。
  私が必要としたのは、とても勝手だけれど、互いの傷をなめ合う友ではなく、
同じ境遇にありながら、それでも励まし合い、大切な何かを示してくれる誰かなのだ。
 神は人と成ってくださいました。人間イエスとなって、人生の悩み、苦しみ、悲しみを味わわれました。けれども、そのイエスが私たちと違っていた点は何か? 神をまっすぐに見ていた、ということです。神の心にまっすぐに従っていた、ということです。それはすなわち、罪を犯さなかった、罪人ではなかった、ということです。
 神さまは、高みにおられるのではなく、神の立場を捨てて、私たちのところに降りて来てくださいました。人と成って、私たちの苦しみ悲しみに寄り添い、その深い愛を示してくださいました。神の心を知らず、神の愛を受け止めずに振る舞う私たちに、御心と愛を示してくださいました。それを、贈り物を受け取って信じるとき、私たちは救われるのです。





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